惜しみなく流れる時よ
八十川 眞
第1話
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
真夏の早朝はさわやかだ。日差しにさらされ始める前の風が体を通り抜けようとするかのように全身に触れて消えていく。湿気を帯びた土のかすかな匂いが体に入ってくる。道ばたの草木や畑の野菜が青々と光を放っている。感覚のすべてが目覚め、足どりが安定していく。ただ歩くことがなんと爽快なんだろう。歩きながら、くすぶる万感の思いが一つになっていく。
数日前まで、君はやきもきし不安げに僕を見ていたに違いない。 僕は、いわば暗い空間の中にうずくまっている状態だった。悲しみや後悔や自責の念に身じろぐことができなかった。そこはいつしか、自分の逃げ場になり隠れ場になって、自分が招いた抑えがたい哀感を曖昧に鎮めてくれた。
現状を受けるべき当然の報いと考えれば、粘り強い内省を通り抜けてはじめて、立ち直る機会が得られるのだろう。しかし、どうやら僕にはそのような忍耐はなかったようだ。傍目から見れば同情に値するほど打ちひしがれている様は、実は、静けさがもたらしてくれる平穏を求める姿にすぎなかったのかもしれない。そんな自分の脆弱で怠惰な心を君は見抜き、僕がひっそりうずくまるのを放置してくれたのだろう。
先日、寝苦しいわけではないのに早く目が覚めた。起き上がれないでいると、少し開けた雨戸から入ってくる風の音に君のささやく声を感じた。耳を澄ますが、声は聞こえない。立ち上がって雨戸を一気に開ける。明かりがぱっと差し込み、心が射抜かれるようだ。おそるおそる外に出てみる。晴れわたる空が目に眩しい。立ちすくんでしまう。
佇んでいるだけで、心が軽くなるのを感じる。「散歩してきたらどうや」とお父さんに促され、意を決して歩き出す。
野道を踏む足にけだるさが取れていく。自分の疎ましさも消えていくようだ。しばらく歩き続けて、下りの勾配がややきつくなり始める所にさしかかると、突然胸の高鳴りを覚え深く息を吸う。ここに立っていたんだ。あのときのことがはっきり蘇る。君はここで、上がってくる僕に向かって大きく手を振りながら何度も何度も僕の名前を呼んでいた。快活な声の響きで君の満面の笑顔が目の前にあるようだ。僕は安堵の気持ちに満たされて、君の家に向かったのだ。
あのときの場所に立って下を見る。上ってくる自分の姿を想像し、それを見る君の心情に思いをはせる。君は僕を見て嬉しかったのだろうが、僕の足どりに覚束なさも感じ取ったに違いない。喜びや相手への思いが体から溢れ出ようとするのを止める術を知らないから、君はいつだってわかりやすい。そんな君はどんなに慕わしかっただろう。そんな君に僕はどれほど救われたことだろう。君のおかげでどんなに多くのことを学んだだろう。
一時的ではあるが、僕はすすけて錆び付きそうな心に沈んだ。自分で自分を許し難いと断じるのは思考の始まりであって終わりでない。しかし、僕はそれで済まそうとしたのである。
そんな自分を自然の息吹にいざなってくれたのは君である。漠然と君の育った土地でなら生きていけると感じた理由は、自然の息吹に交じる君の息づかいにあるのだと今納得する。僕の呼吸は君の息づかいで確かさを増すのだ。
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1
出会いが人の生き方に決定的な影響を与えることを、僕は知っている。そして、そのほとんどが偶然であるにも拘わらず、最終的に人はそれを運命や必然という言葉で表したがることも、僕は知っている。紛れもなく僕もその一人である。
大学に入ってすぐの頃、キャンパスで手話サークルの勧誘を受ける。チラシを示されて、少し躊躇し、無視して立ち去ろうとした。そのとき、背後から「せっかくだからもらいましょ」と言う女性の声が聞こえた。柔らかい声に不釣り合いな浅黒い顔が微笑んでいる。やや小柄で髪はショートカット、グレーのスポーツウエアのようなものを着ている。その女性はチラシを二枚受け取り、何も言わず一枚を僕に渡して、さっさと去っていった。ただ突っ立ていた僕は、勧誘する先輩の丁寧な説明を聴かされる羽目になり、しまいには、後日サークルの場所を訪れる約束までしてしまう。
結局、僕は手話サークルに入る。しかしサークルにあの女性はいない。しばらくはあの子は何だったのかという思いがくすぶり続ける。親切と言えば親切だし、お節介と言えばお節介きわまりない。無責任な子もいたものだ、などと呆れたりさげすんだりすることもあった。
しかしサークルでの活動自体は楽しかった。言葉に頼らない意思伝達に興味が深まり、手話を人間の原初的な会話の形態に近いものだと勝手に思い、その一端に触れる喜びを感じるようになった。いつの間にか入会のきっかけとなったことなど思い出さなくなった。
活動に安定した充実感を感じていた。そんな二年生の秋のある日、部長が一人の女性を伴ってやってくる。
「皆さん,新会員を紹介します」
皆一斉に拍手する。何しろ地味なサークルなので、新しい仲間を拍手で大歓迎するのが恒例になっている。やや小柄な感じで色白である。髪は肩まで伸ばしている。
その女性は深々とお辞儀をし、
「村瀬小菊と言います。小菊は小さい花の菊と書きます。体育専門学群の二年生です」
と、はきはきした口調で自己紹介を始める。僕の胸が一瞬にして穏やかでなくなる。動悸さえする。
「私は中距離走の選手だったんですが、右脚のふくらはぎの肉離れを二度起こして、競技の継続を断念しました。手話に興味があり、入会させて頂くことになりました。よろしくお願いします」
再度拍手が起こる。目の前にいるのはあのときのお節介ではないか。僕は初めて対面する女性に対して、犯人を見つけた警察官のようになってしまう。興奮を抑え、先輩方をさておいて少し意地悪な質問をしてしまう。
「人文・文化学群二年生の川本です。このサークルは原則週二回、のんびりと活動を行っています。あなたのような勝ちにこだわってきた体育会系の人は、すぐ物足りなさを感じるんじゃないでしょうか」
その女性は神妙な顔つきになる。
「私は正直言って物足りなさというのをいつも感じてきました。これからもそうだと思います。でも、それは自分自身に対してです。できるかも知れないのにできないと決めつけてしまう自分がいつもいます。それと闘って、今度は、手話で意思疎通を図られるように努力します」
そう言った後、右の握り拳を鼻先から離し、拝むように手を開いて前に出しながらお辞儀した。その「よろしくお願いします」にひときわ大きな拍手が起こる。同じ仕草で応える人もいる。僕はというと、ひょっとして他の誰よりも大きな拍手を送ったかも知れない。敢えて手話で締めたことにその女性の誠実さと本気を感じ、自分の狭い了見を吹き飛ばしてくれてほっとした。その女性が君なのである。
そうして、僕たちは一緒に活動するようになった。あのときの質問が幸いして、活動の初日から僕たちには、少なくても僕には知り合いのような気楽さがあったと思っている。自己紹介すると、
「質問されてどきっとしました。怖い人かと思ったんです。でも,受け入れて下さって有り難うございます」
と、敬語口調である。それで、同い年でもあることから互いにタメ口で話そうと提案し、すぐにオーケーをもらう。
「ちょっと訛りがあるみたいだけど、出身はどこ?」
「新潟県の上越市というところの小さな町。田舎もんだから不安だったけど、ここも田舎っぽいところがたくさんあっていいと思っている。川本君は東京の人でしょ。なんかそんな感じがする」
「どんな感じか分からないけど、その通り。でも、特にこの大学に入ってから自然を感じるようになって、いつも気分が新しくなる気がする」
君は初心者だと謙遜していたが、すでに僕と同等か僕以上の手話の知識と技術を独学で習得していた。そのため、いっしょに一年生の指導に当たることもあって、サークル活動に張りを感じるようになった。
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惜しみなく流れる時よ 八十川 眞 @ya32-ariku
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