掌の境界線、夕焼けに溶ける

淡綴(あわつづり)

掌の境界線、夕焼けに溶ける

 放課後の教室は、世界から切り離された琥珀色の水槽のようだった。


 傾きかけた西日が、埃の舞う空間を濃密なオレンジ色に染め上げ、長く伸びた机の影が、私と陽太ひなたの間に一本の境界線を引いている。


「ねえ、陽太。ちょっと手、貸してよ」


 私は、窓際の席に座ってぼんやりと空を眺めていた陽太の前に立ち、無造作に右手を差し出した。

 陽太は「あ?」と短く声を漏らし、不器用そうに眉を寄せる。その無防備な表情が可笑しくて、私はわざといたずらっぽく微笑んでみせた。


「いいから。……手の大きさ、比べてみようよ」


「……ガキかよ、お前は」


 呆れたように吐き捨てながらも、陽太は結局、私の願いを断りきれない。それが昔からの、私たちの形だ。


 彼がゆっくりと膝の上から持ち上げた手は、私の記憶にあるものよりも、ずっと「男の子」のものになっていた。


 陽太が差し出したてのひらに、私は自分の掌をそっと重ねる。


 触れた瞬間、指先から伝わってきたのは、吸い付くような熱だった。


「わ……やっぱり、全然違うね」


 私の白い指先が、彼の節くれ立った大きな指の上に並ぶ。


 陽太の掌は固く、ゴツゴツとしていて、指の付け根には部活でついたマメの痕がある。私の柔らかな皮膚とは対照的なその無骨な感触に、心臓の奥が不意に跳ねた。


 掌を合わせたまま、私はわざと指を少しずつ滑らせ、彼の指の隙間に自分の指を差し込んでいく。


 いわゆる「恋人繋ぎ」の形になった瞬間、陽太の肩が目に見えて跳ねた。


「おい、依織いおり……」


「陽太の手、すごく熱いよ。……ねえ、緊張してるの?」


 私はわざと顔を近づけ、下から覗き込むようにして彼の瞳を捕らえた。


 陽太の喉仏が大きく上下し、視線が泳ぐ。余裕ぶっている私だって、本当は掌から伝わる彼の拍動に、自分の鼓動が飲み込まれそうになっているのに。


「……別に、緊張なんてしてねえよ」


「嘘だ。だって、ここ。……トクトクって、すごくうるさい」


 私は空いた左手で、彼の手首のあたりをそっと指先でなぞった。薄い皮膚のすぐ下で、彼の理性が必死に何かを抑え込もうとしているのがわかる。


 もっと困らせたい。もっと私のことだけを見て、余裕をなくしてほしい。


 幼馴染という心地よい檻を壊すための、私のささやかな反乱だった。


 けれど。


「……いい加減にしろよ、お前」


 陽太の声が、今まで聞いたことがないほど低く、掠れた響きに変わった。


 次の瞬間、私の指を絡めていた彼の手が、逃がさないと言わんばかりの力で強く握り返された。


「え……っ」


 立場が逆転したのは、一瞬のことだった。


 彼の手は私の両手を易々と包み込み、そのまま私を逃がさないように、逃げ場のない距離まで一気に詰め寄ってくる。


 夕日の逆光に照らされた陽太の瞳は、いつもよりずっと熱く、鋭く私を射抜いていた。


「お前、自分が何やってるか……本当に分かってんのか? 俺が、どんな気持ちで……」


 陽太の瞳に宿る、混じり気のない情熱。


 余裕を装っていた私の仮面が、パラパラと崩れ落ちていくのがわかった。私の頬に、熱い火が灯る。


「陽太、あの……」


「……お、俺は……っ。お前のこと、ただの幼馴染だなんて……これっぽっちも……っ、す……しゅきなんだよ!」



 ――沈黙。



 夕暮れの教室に、彼の叫びに近い「告白」が響き渡った。


 けれど、一番肝心なところで、彼は情けないほどに思い切り噛んでしまった。


 数秒の静寂の後。


 陽太は真っ赤な顔のまま、絶望したようにガクリと項垂うなだれた。


 繋いでいた手は、まだ離されていない。けれど、そこから伝わってくるのは、世界が終わったかのような彼の激しい動揺だった。


「……っ、死にたい。今すぐ死にたい……」


「……ふふっ」


 あまりの「陽太らしさ」に、私の口から、堪えていた笑いが零れた。


 かっこよく決めようとして、結局決めきれない。不器用で、真っ直ぐで、そして私のことをこんなにも揺さぶってくる彼が。


「くすっ……あはは、ほんと……陽太って、可愛いんだから」


「……笑うなよ。こっちは一生モノの覚悟だったんだぞ」


「ごめん、ごめん。……でも、嬉しいよ。噛んじゃうくらい、一生懸命だったんでしょ?」


 私は空いた左手をそっと伸ばし、赤面して固まっている彼の頬を、包み込むように撫でた。


 手のひらから伝わってくる、彼の体温。


 陽太は観念したように目を閉じ、私の掌に自分の頬を預けるようにして、小さく溜息をついた。


「……ずるいよ、依織は。いつも、上手なんだから」


 そう呟く彼の耳たぶも、夕焼けに負けないくらい赤く染まっている。


 見透かしたように笑っている私だって、本当は繋いでいる右手から、自分の震えが彼に伝わってしまわないか、必死に祈っているのだけれど。


「……上手じゃないよ。私も、結構必死だったんだよ?」


 私は囁くように言いながら、彼の頬に添えた手に少しだけ力を込めて、その顔を私の方へと引き寄せた。


 影が重なり、二人の境界線が溶け合う。


 窓の外では、オレンジ色の空が次第に紫へと移り変わろうとしていた。


 重なる指先の熱。耳元で聞こえる、誰よりも愛おしい人の吐息。


 次に彼が紡ぐ言葉を、今度は噛まずに受け止められるように。


 私は、ゆっくりと瞳を閉じた。


(完)

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