てを、けった

サカモト

てを、けった

 手を、けった気がした。

 真夜中、隣の家の前を通りかかったときだった。

 街灯のない通りで、通り過ぎた隣の家にも明かりはついてない。もっとも、隣の家に明かりついていた夜を見たことがない。

 路上に手があり、それを右足で、けったような気がした。

 いま住んでいる家は平屋で、今年から大学に通うために引っ越した。一人暮らしをしている。もともと叔母がひとりで暮らしていた古い一軒家だった。叔母は、もう長い間、体調が悪く、いまはここから遠い施設に入っている。

 隣の家は誰も住んでいる気配がなかった。祖母の家と、ほとんど同じつくりの平屋で、古さも似たようなものだった。隣の家の錆びた門は、ずっと閉じられていて、昼間も家の中に人がいる感じがしない。庭には大量の雑草がはている。それに、夜に明かりがついているのを見たことがない。空き家としか思えなかった。時々、家の中でなにかがいる気配もしたけど、もしかすると、ねずみでも入り込んでいるのかもしれない。少なくとも、人の気配ではない。

 叔母の家の反対側は空き地になっている。隣家はその一軒だけだった。

 夜、いつもより遅い時間に、その隣の家の前を横切って帰宅していると、右のつま先が、地面にあった何かをけった気がした。奇妙な弾力があった。重すぎず、軽すぎない、歪な質量だった。小動物の亡骸かとも思った。たまたまそこにあったそれをけってしまったのかもしれない。でも、けった瞬間、その奇妙な弾力には、なぜか、なんとなく、馴染みのある感触があった。

 手をけったのかもしれない、そう思ったのは、自宅の玄関のドアをあけて、中に入り、ドアを閉めて、明かりをつける前だった。ひとり暗い玄関で思った。けったのはあれは、手っぽいかった。

 暗くて見えなかったけど、まさか、誰かがあそこに倒れていて、その手をけってしまったのではないか。右足にはまだ、けったそれの感触が残っていた。

 玄関の明かりをつけよう。そう思ったとき、とんとん、と、閉めたばかりの玄関ドアがノックされた。まだ玄関の明かりをつける前だったのもあり、かなり驚いた。

 ドアの向こうから声がした。

『隣の者です』

 と、言われた。男だか、女だか、わからない声だった。

 叔母の家の玄関ドアは古く薄い木製だった。だから、ほとんど、ドア越しではないように、向こうの声がきこえた。

 真夜中の訪問者に、一瞬、呼吸が止まった。

『隣の者です』

 さっきと、まったく同音の口調で言われた。

 居留守をすることを考えた。でも、家の中の明かりをつける前とはいえ、ドアをあけ、家の中に入ったばかりで、そのすぐ後にドアをノックしてきたので、向こうはこちらが家に入ったのを見ていたはず。

 隣の家の人だというし、居留守だとばれると、気まずい。

 もちろん、本当に隣の家に、人が暮していて、その人がやってきたのか、確証はない。でも、やはり、と考えて、あらためて焦った。真夜中に訪問してくだけでも厄介そうな相手だった。そんな相手に、居留守がばれ、より、よくない印象を持たれたら、後で起こされるか、想像するだけでも気がめいった。

『隣の家の者です』

 三度目も同じように言った。

 玄関の明かりはつけていので、祖母の古い玄関ドアののぞき穴からは向こうがみえない。しかも、じつはつくりの古いのぞき穴なので、こちらが中で明かりをつければ、向こうからもの中がのぞけるようになっていた。

 あかりはつけないまま「はい」と、こたえた。

『隣の家の者です』

「はい」

『なにかありませんでしか』

「なにか。なにかって、なんですか」

 そう、聞き返した。

『なにかありませんでしたか』

 相手は答えず、同じことを言った。

 相手の声は、ドア越しにも、しっかり聞こえる。なら、こっちの声もしっかり聞こえているだろう。

 もしかすると、会話が成立しない相手なのかもしれない。

 そう考えながら、音を立てないように、家の内側のドアノブへ手を伸ばした。まだ、ドアの鍵をかけていなかった。もし、向こうがドアノブを回し、引けば、ドアが開いてしまう。

『なにかありませんでしか』

 相手が、さらに聞いて来た。

 こっちは「なにか」と、答えながら、ドアの鍵をかけようと手を伸ばして、思った。古いドアなので、鍵をかけると、がちゃ、と大きな音がなる。鍵をかけたその音を聞かれたらら相手にどういう印象を持たれるだろうか。

 拒絶が向こうに伝わるのは、さけたい。

『うちの前を通りましたよね』

 ドアの鍵をかけると大きな音が鳴る。

 でも、チェーンなら、音をたてずにかけることができそうなので、そっと、チェーンをかける。もちろん、慎重に音をたてないように。鎖に手を添え、チェーンをしずかにはめ込む。

『うちの前を通りましたよね』

 チェーンをかけおえた。

『てをぇけっただろぉ!』

 叫ばれて、向こうからドアをあけられた。でも、チェーンがついているのでドアはわずかな隙間しか開かない。ただ、あまりに勢いよくあけられたため、ドアの蝶番もチェーンも壊れそうだった。

 こちらは驚きのあまり、腰を抜かして、床にへたりこんだ。悲鳴をあげるのも忘れた。

 ドアの隙間から、ひどく大きな何かが家の中を覗き込んでいた。明かりがないのに、ぎょろっとした黄色く見える片目がみえた。

 そして、それはドアの隙間の高い位置から家の中を覗き込み、しばらくして『おかしい』といった。

 家の中は明かりがついていなかったし、こっちは腰を抜かして、玄関の床に倒れ込んでいた。それは上の方から中を見ていただけで、こちらが玄関の真下で腰をついていることに気づかなかったらしい。

『だれもいない』

 ぎょろっとした目が細まったのがわかった。

『なにと話をしていたんだ』

 自身に問いかけるようにいい、やがて、それはドアから遠ざかっていった。

 どれほど時間がたったのかはわからない。我に返って、すぐに鍵をかけた。そして

その夜は、一睡もできなかった。

 翌朝になって、昨日と同じ格好のまま外へ出た。見ると、隣の家の錆びた門が、わずかにあいていた。中からは、人の気配だけがしなかった。

 朝日の下で、思った。

 なにと話をしていたんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

てを、けった サカモト @gen-kaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画