第2話
「……んぅ……う、ううん……」
背中で聞こえる甘い吐息が、俺の心臓をこれでもかと叩く。
あの後、俺はパニックになりながらも配信を強制終了し、爆睡してしまった『氷の令嬢』こと神崎レイラを背負って、ダンジョンを脱出した。
S級探索者専用の転移ゲートまで、あと少し。
背中の彼女は、俺の首に腕を回し、完全に安心して身を預けている。
華奢な体からは、俺のスキル【洗濯】で漂わせたフローラルな香りと、彼女自身の甘い匂いが混ざり合って、思考をおかしくさせそうだ。
「むにゃ……おいしい……もっと……」
「夢の中でも食べてるのかよ」
苦笑した、その時だった。
彼女が俺の首筋に、こてん、と顔を擦り付けてきた。
「……ん……あったかい……」
「神崎さん?」
「……だんな、さま……」
――ブッ!!
俺は思わず盛大に噴き出しそうになり、慌てて口を押さえた。
だ、旦那様!?
いやいや、落ち着け俺。これは夢だ。あるいは彼女が見ている、幸せな結婚式の夢とかだろう。
間違っても、さっきまで角煮をあーんしていた底辺配信者のことじゃない。絶対に違う。
「……ぜったい、はなさない……」
その寝言が、どこか切実で、執念めいた響きを帯びていることに、俺は気づかなかったふりをして足を早めた。
◇
翌朝。
都内某所にある、超高層タワーマンションの最上階。
キングサイズのベッドで、神崎レイラは目を覚ました。
「…………」
視界に広がるのは、見慣れた高い天井と、モデルルームのように生活感のない無機質な部屋。
空調は完璧に管理されているはずなのに、肌寒さを感じる。
――夢、じゃなかった。
レイラは自身の袖口に鼻を寄せ、深く息を吸い込んだ。
そこにはまだ、微かに残っている。
あの安っぽい、けれど陽だまりのように温かい、洗剤の香りが。
『S級探索者』『国民的アイドル』『氷の令嬢』。
レイラを取り巻く称号は、どれも彼女に「完璧」を強いる呪いのようなものだった。
弱音は吐けない。隙は見せられない。汚れなど許されない。
常に強く、美しく、清廉潔白であれ。
誰も、泥にまみれて空腹で倒れる「ただの少女」としてのレイラなど、見ようとはしなかった。
――彼以外は。
『大丈夫です、じっとしてて』
あの声が蘇る。
汚れた自分を嫌悪するどころか、魔法のような手際で綺麗にしてくれた。
そして、今まで食べたどんな高級料理よりも温かくて美味しいご飯を、口元まで運んでくれた。
あんな風に誰かに世話を焼かれたのは、生まれて初めてだった。
胃袋だけじゃない。冷え切っていた心の芯まで、熱いスープで満たされたような感覚。
「……天堂、ヤマトさん」
ギルドカードで確認した彼の名前を、舌の上で転がす。
それだけで、胸の奥が甘く疼いた。
もう一度会ってお礼を言いたい?
いいえ、そんな生ぬるい感情じゃない。
「……あのご飯は、私だけのものです」
レイラの瞳に、暗く、熱っぽい光が宿る。
あの温もりを知ってしまった今、もうあの寒い場所には戻れない。
彼が底辺だとかFランクだとか、そんなことはどうでもいい。
私の全てを受け入れて、綺麗にして、満たしてくれる人。
「……逃がしません」
彼女はスマホを手に取ると、とある番号に電話をかけた。
声色は、いつもの冷徹な『氷の令嬢』のものだ。しかしその口元には、獲物を狙う肉食獣の笑みが浮かんでいた。
「――私です。今すぐ調べてほしい男がいます」
◇
「……夢だ。うん、あれは全部夢だったんだ」
築40年、家賃3万円のボロアパート。
煎餅布団の上で目覚めた俺、天堂ヤマトは、天井のシミを見つめながら現実逃避をしていた。
昨日は疲れていたんだ。
だから、S級美少女を拾って餌付けしてバズるなんていう、都合のいい幻覚を見たに違いない。
そうだ、そうに決まっている。
俺はおそるおそる、枕元のスマホを手に取った。
SNSアプリ『ツブヤイター』を開く。
【トレンドランキング】
1位:**#氷の令嬢デレる**
2位:**#レイラ餌付け**
3位:**#掃除のお兄さん**
4位:**#国民的旦那様**
「…………」
俺はそっとスマホを伏せた。
見なかったことにしよう。世界がバグっているだけだ。
だって、トレンドの詳細をちらっと見たら、『この男を特定しろ』『俺たちのレイラ様を奪った罪は重い』『いや、普通にお似合いだったぞ』なんて議論が白熱していたから。
「学校……行きたくねぇ……」
俺は現役の高校生でもある。
探索者稼業は放課後や休日に行っているのだ。
幸い、動画の中で俺は顔出しをしていなかった(ドローンの角度的に首から下しか映っていなかったはずだ)。名前も名乗った記憶はない。
バレてない。
まだギリギリ、バレてないはずだ。
俺は自分にそう言い聞かせ、重い足取りで学校へと向かった。
◇
教室は、朝からその話題で持ちきりだった。
「お前見たかよ昨日の配信!」
「見た見た! レイラ様マジで可愛かったなぁ」
「あの男、何者なんだろうな? 家事スキルとか言ってたけど」
俺は息を殺し、空気になりきって席についた。
話題にするな。俺を見るな。
このまま何事もなくホームルームが始まってくれれば――。
バンッ!!
突然、教室のドアが乱暴に開け放たれた。
喧騒が一瞬で静まり返る。
そこに立っていたのは、この世のものとは思えない美少女だった。
陽光を反射して輝くプラチナシルバーの髪。
宝石のような蒼い瞳。
誰もが振り返る完璧なプロポーションを包むのは、ウチの高校の制服だ。
「え……か、神崎レイラ……様……?」
「なんでウチのクラスに……?」
クラスメイトたちがざわめく中、彼女はスタスタと教室に入ってきた。
迷いのない足取り。
その視線は、教室の隅で気配を消そうとしていた俺一点に固定されている。
彼女は俺の机の前でピタリと止まると、両手を机につけ、至近距離まで顔を近づけた。
周囲の空気が凍りつくような、圧倒的な美貌と威圧感。
逃げ場はない。
彼女は、艶やかな唇を吊り上げて、はっきりとこう言った。
「――見つけました、私の旦那様(シェフ)」
「……はい?」
教室中が静まり返る中、俺の終わった日常への鎮魂歌(レクイエム)が聞こえた気がした。
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