2日目 例外処理は認めない
午前五時三十分。
二〇二六年の朝は、スマートアラームが睡眠の深さを読み取り、最もスッキリと目覚められるタイミングで幕を開ける。
神代律は、寝起きのわずかな体温を逃さぬよう毛布に包まったまま、左手首の『V-ウォッチ』を同期させた。昨日の行動ログが、ベッドの横に投影されたホログラムディスプレイに、無機質なグラフとなって浮かび上がる。
「……やはり、ここね」
律の細い指が、昨日の十二時四十五分付近の数値を指した。
そこには、富士山の急斜面のような、あまりに不自然で、あまりに暴力的な心拍数のスパイクが記録されていた。
最高心拍数、百三十五。
運動負荷なし。周囲の気温、二十二度。湿度、四十五パーセント。
本来ならば、重度の不整脈か、あるいは猛獣に襲われた際にしか現れない数値だ。
「あり得ない。論理的ではないわ」
律はベッドから飛び起きると、すぐさま分析作業を開始した。
昨日の「あの瞬間」。佐倉悠真の指先が、自分の唇に触れた瞬間の映像が脳裏をよぎる。……バグだ。思考回路が、一瞬だけホワイトアウトする。
「落ち着きなさい、神代律。感情に流されるのは低知性な個体がすること。データには必ず、合理的な原因があるはずよ」
彼女はキッチンへ向かい、一分一秒の無駄もなく配合された「ブレイン・コーヒー(集中力向上用)」を淹れた。そして、画面に向かって猛然とキーを叩き始める。
彼女が作成しているのは、『五月十五日十二時四十五分における生体反応異常に関する調査報告書』。
宛先は、自分自身。
仮説1:デバイスのハードウェア故障。
仮説2:佐倉悠真が所持していた缶コーヒーのカフェイン成分が、皮膚接触により微量に吸収され、過剰反応を起こした可能性。
仮説3:屋上の局所的な気圧低下による酸素濃度の一時的喪失。
仮説4:……未知のウイルスによる、急性の一時的脳機能不全。
「ふぅ……」
律は一気に書き上げた報告書を読み返した。
そこには「恋愛」や「動揺」といった、抽象的で定義の曖昧な言葉は一つも存在しない。これこそが、彼女の望む「世界」の形だった。
「おはよう、神代さん! 昨日は大丈夫だった?」
登校してすぐ。教室の入り口で、あろうことか「原因物質」である佐倉悠真に声をかけられた。
彼は昨日と同じ、緊張感の欠片もない、それでいて春の陽だまりのような柔らかな笑みを浮かべている。
ピピッ。
律のウォッチが、心拍数九十五を検知して短く震えた。
「……っ。佐倉くん、結論から言います」
律はカバンから、律儀にプリントアウトされた数枚の紙を突きつけた。
「昨日の一件は、完全なる『デバイスの計測エラー』および『環境要因による不可避な生体ノイズ』であったことが、私の厳密な調査により証明されました」
「え……? ちょうさ、ほうこくしょ?」
悠真は呆気に取られた様子で、差し出された紙を受け取った。そこには複雑な数式やグラフ、そして「カフェインの皮膚吸収率」に関する考察がびっしりと書き込まれている。
「ここに記した通り、私の心拍数が上昇したのは、あなたが私に触れたからではありません。あなたが持っていたコーヒーの蒸気に含まれるカフェインと、屋上の気流の乱れが相互作用を起こし、私の脳内受容体に一時的な誤作動を引き起こした――つまり、あなたは『化学的な事故の引き金』になったに過ぎないのです」
「事故の引き金って……」
悠真は報告書に目を落とし、それから少しだけ困ったように笑った。
「神代さん。それ、本気で言ってる?」
「私はいつだって本気です。私の辞書に、論理的でない冗談という概念は存在しません」
「でもさ、これを作るのに、結構時間使ったんじゃない? 『効率』を大事にする神代さんが、昨日の放課後ずっと、僕に触られた時のことを考えてたってことでしょ?」
ドクン、と。
律の心臓が、自分でもはっきりと分かるほど大きく跳ねた。
「……そ、それは、システムの整合性を保つための必要なコストです! 原因不明のバグを放置することこそ、最大の非効率ですから!」
「あはは、そっか。そりゃそうだね。……でも、よかった」
悠真は報告書を丁寧に折り畳むと、それを律に返すのではなく、自分のポケットにしまった。
「え、何をしているのですか。それは私の個人データ……」
「これ、もらっておくよ。神代さんが僕のために一生懸命作ってくれた『お手紙』みたいで、なんか嬉しいから」
「お、お手紙!? 違います、それは純然たる技術文書で――」
「ありがとうね。あ、予鈴鳴るよ。また後で」
悠真はひらひらと手を振って、自分の席へと戻っていった。
一人取り残された律は、自分の体温が急上昇していくのを感じていた。
ピピッ、ピピッ。
『警告:心拍数が上昇しています。現在百五。感情のコントロールを推奨します』
「だ、黙りなさい……バカ機械……っ」
律は震える手でスマートウォッチを隠した。
論理で武装したはずの報告書が、彼の手にかかれば「お手紙」に変換されてしまう。
計算外だ。
佐倉悠真という変数は、彼女が知るどの数式にも当てはまらない。
律は席につき、タブレットを立ち上げた。
今日のスケジュールを表示させる。
十五時三十分:放課後。図書室にて自習。効率化計画の実行。
「……そう。今日の放課後は、彼に『正しい効率』を叩き込んであげなければならないわ。昨日のような不合理な事態を防ぐためにも」
彼女は自分に言い聞かせるように、強くペン先を画面に押し付けた。
しかし、その画面に映る彼女自身の顔は、どんなグラフよりも雄弁に、赤らんだ頬を曝け出していた。
律が、この「計算ミス」を本当の意味で理解するまで、まだ時間はたっぷりある。
だが、彼女の心臓(デバイス)は、すでに答えを知っているかのようだった。
次の更新予定
「恋愛なんてコスパが悪い」と笑う論理的すぎる君が、僕にだけ見せる「無駄で愛しい」素顔。〜効率至上主義の才女、スマートウォッチが告げる心拍数(バグ)には勝てない〜 とっきー @Banana42345
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