「恋愛なんてコスパが悪い」と笑う論理的すぎる君が、僕にだけ見せる「無駄で愛しい」素顔。〜効率至上主義の才女、スマートウォッチが告げる心拍数(バグ)には勝てない〜

とっきー

第一章 高校生

1日目 恋愛という名の、最も非効率な投資について

 二〇二六年。

 世界は、かつてないほど「最適解」に支配されていた。

 あらゆる移動は最短ルートをAIが算出し、食事は栄養素と吸収率を計算した完全食が主流。無駄を削ぎ落とし、効率を最大化することこそが、この時代を生き抜く唯一の正義だと言われている。


「結論から言います、佐倉くん。恋愛なんて、人生における最もリソースの無駄遣いですよ」


 昼休みの屋上。五月の風が、神代律のさらさらとした黒髪を揺らす。

 彼女は透き通るような白い肌に、無機質なほど整った瞳をこちらに向けていた。その左手首には、最新型のウェアラブルデバイス『V-ウォッチ』が鈍い光を放っている。


「……また始まった」


 僕、佐倉さくら悠真ゆうまは、自販機で買った温かい缶コーヒーを片手に苦笑いした。

 目の前の才女、神代かみしろりつ。偏差値は常に学年首位、生活のすべてを秒単位で管理する、通称「論理(ロジック)の怪物」。そんな彼女が、なぜか僕の「寄り道」に付き合って、屋上のフェンス際で立ち話をしている。


「いいですか。一般的な恋愛における投資対効果(ROI)を計算してみてください。相手との調整コスト、デートに伴う金銭的支出、そして何より『感情の起伏』という制御不能な変数がもたらす精神的リソースの浪費。これらを合算すれば、期待値は常にマイナスです。独りでいることの効率性には、到底及びません」


 彼女はタブレット端末を流れるような手つきで操作し、複雑なグラフを表示してみせた。


「それに、付き合った後の継続率も悲観的です。統計上、高校時代の恋人が結婚に至る確率は三%以下。つまり、今ここで誰かと交際をスタートさせることは、九十七%の確率で失敗することが分かっているプロジェクトに、全財産を投じるようなもの。……佐倉くん、あなたならそんな不合理な投資、しますか?」


 律は冷徹なまでの正論を突きつけてくる。

 彼女の理論には、一切の隙がない。この効率化された二〇二六年の社会において、彼女こそが最も「進化した人間」なのだろう。


「うーん。でもさ、神代さん」


 僕は缶コーヒーの蓋を開け、一口飲んだ。じんわりとした温かさが喉を通る。


「その『九十七%の無駄』の中に、一生忘れられないくらい楽しいことが詰まってるかもしれないじゃない。計算じゃ出せない価値っていうかさ」


「出せますよ、すべて数値化可能です」


 律は即座に否定した。


「楽しいという感情はドーパミンとオキシトシンの分泌量に置換できます。ならば、もっと低コストで安全な代替手段が、今の時代にはいくらでもあります。……たとえば、この完全食ゼリーを適切に摂取しながら、VRで旅行体験をする方が、遥かにリスクを抑えて幸福感を得られる」


 彼女はそう言って、バッグから取り出した銀色のゼリーパックを吸い込んだ。

 味気ない。あまりに味気ない。

 けれど、そうやって自分を完璧に律している彼女は、どこか脆い硝子細工のようにも見えた。


「そっか。……あ、神代さん、ちょっと待って」


 僕は彼女の顔に、小さな異変を見つけた。

 律がゼリーを吸い込んだ拍子だろうか。彼女の唇の端に、ほんの少しだけ透明なゼリーの雫がついていた。


「何ですか。まだ反論があるなら――」


「いや、ついてるよ」


 僕は無意識だった。

 普段なら「ついてるよ」と指摘するだけで十分だったのかもしれない。けれど、あまりに彼女の肌が白く、そしてその表情が頑なだったから、つい手が伸びてしまった。


 僕は指先で、彼女の柔らかい唇の端を、そっと拭った。


 その瞬間。

 律の動きが、凍りついたように止まった。

 透き通るような彼女の瞳が、大きく見開かれる。至近距離。僕の指先に、彼女の微かな体温が伝わった。


 ――ピピッ、ピピッ、ピピッ!


 静かな屋上に、突如として電子音が鳴り響いた。

 律の左手首にある『V-ウォッチ』だ。液晶画面が真っ赤に点滅している。


『警告:心拍数が急上昇しています。現在百二十八。ストレス、または心身の異常を検知しました。深呼吸を行ってください』


 合成音声が、残酷なまでに正確な数値を告げる。


「…………え?」


 律の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。

 耳の付け根まで火がついたような赤さだ。彼女は弾かれたように僕から数歩遠ざかった。


「な、ななな……何を、不合理な接触を……!」


「あ、ごめん。つい」


「デバイスの故障です! そうです、このウォッチは最近センサーの感度が不安定で、先程のゼリーの糖分による血糖値の変化を誤認して――」


「心拍数、百二十八だよ? 全力疾走した後くらいあるけど」


「異常気象による気圧の変化です! 論理的に考えて、私が……私が、あなたのような非効率の塊みたいな人間に、動揺するはずがありません!」


 律は必死にまくし立てるが、その声は微かに震えていた。

 スマートウォッチは止まらない。


『心拍数がさらに上昇しています。百三十五。リラックスモードに移行しますか?』


「うるさい、黙れこの機械!」


 律はついに、自分の相棒であるはずの最新デバイスに怒鳴り散らした。

 そして、真っ赤な顔のまま、僕を睨みつける。


「佐倉くん。今日のこの事象は、私のデータから削除します。再現性のない、ただのノイズです。いいですね?」


「あはは、分かったよ。……でも神代さん。機械は嘘つかないって、さっき言ってなかったっけ?」


「黙ってください! ……結論から言うと、あなたは最悪です!」


 律はそれだけ言い残すと、最短ルートを計算するのも忘れたような、おぼつかない足取りで屋上のドアへと消えていった。


 一人残された屋上。

 僕は自分の指先を見つめた。

 論理と数式で塗り固められた彼女の世界。そこに、少しだけ「計算外」の亀裂が入ったような気がした。


 恋愛はコスパが悪い。

 投資対効果はマイナス。

 期待値はゼロ。


「……でも、百三十五、だったよな」


 僕は冷めかけた缶コーヒーを飲み干した。

 彼女の「論理」が、僕の「無駄」に負けるまで。

 予測不能なバグだらけの日常が、今、始まった気がした。

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