十二:区切

 閻魔は自分の懐を探った。冥府から持ってきたものは多くない。朱筆、判子、帳簿。そして――赤い紐。


 帳簿のしおりだ。罪状の頁に迷わないための、ただの赤い紐。救済の糸ではない。――少なくとも、地獄では。


 閻魔はその紐を取り出す手が震えているのに気づいた。震えるのは怒りの名残か。

 それとも、自分がこの世界の住人に落ちかけている恐怖か。


『えんま様、しおりって……伸びます?』

 胸元の塊が、震えながら聞いた。


「黙れ」

 閻魔は、決めた。


 裁けないなら、裁きを“縮める”。

 罰を与えられないなら、せめて“区切り”を渡す。

 王ではなく、係になる。

 それは敗北だ。だが敗北にも浄化がある。敗北は終わりを呼ぶからだ。


 閻魔は赤い紐を、青年の紙束の間に、乱暴に挟んだ。乱暴に挟むしかなかった。優しく挟んだら、負けた自分を許せなくなる。


「……これは?」

 青年が驚いた声を出した。


「しおりだ!」

 閻魔はほとんど怒鳴った。怒鳴る相手が必要だったのだ。閻魔は自分に向かって怒鳴っていたのかもしれない。


「地獄には、まだこれが残っていた。終わりへ向かうための印だ。救いはいらない? 結構だ。だが――」


 閻魔は一度言葉を詰まらせた。言い切るには、喉が痛かった。


「頁を閉じる作法だけは、捨てるな。捨てたら、お前は終わらない。

 終わらないものは、いつか地獄になる。……痛くない地獄だ。いちばん長い地獄だ」


 青年は赤い紐を指で撫でた。撫でながら、唇が震えた。笑いの震えではない。

 それは、初めて「終わり」に触れた人間の震えだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る