七:押印

 閻魔は咄嗟に帳簿を開いた。空中に頁を広げるような勢いで、見えない法廷をその場に立ち上げようとした。


「静粛に! これより――」


 言いかけて止まった。誰も静粛にならない。閻魔の声は風に溶け、屋台の呼び声に混じって“見世物”として消費されるだけだった。


 観衆が叫んだ

「演目だ!」


『伸びますよ! 伸びます!』

 胸元の塊が弾んだ。


 そのとき、塊が急に弾むのを止めた。

『……えんま様』


『ここ、誰も裁かれないんです』

 塊はぷるぷる震えた。震えは興奮ではなかった。


『えんま様、怖くないですか?』


 閻魔は息を呑んだ。

「……何が?」

『誰も終わらないし、誰も救われない。ずっと続く。ずっと回る。――私、最初は楽しいって思ってたんです。でも最近、分からなくなって』


 声のトーンが変わった。明るさが消えた。塊の半透明な体が、さっきより少しだけ濁って見えた。


「お前は、ずっと案内を続けているのか?」

『はい。何百人も。何千人も』


『みんな、最初は怒るんです。えんま様みたいに。でも、そのうち慣れて、読み始めて……そして、もう怒らなくなる』


 閻魔の胸が、ひやりとした。

「怒らなくなる?」


『はい。怒る理由がなくなるんです。だって、楽しいから』

 塊はそう言って、また明るい声に戻ろうとした。だが声が裏返った。


『……押された瞬間、みんなの目が同じになるんです。あれを見るのが、怖いんです』



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