第3話:パールの杯と一〇二三
沙織はグラスを唇に寄せた。
パールホワイトの液体が、熱を帯びた喉を灼こうとしたその時―――
静寂を裂いて、背後のカウンターから無機質な電子音が響いた。
「……ッ」
それは、充電が一定量に達したことを知らせる、スマホの起動音だった。
たった一度の「ピロリン」というその音は、コマスが編み上げた銀色の詩を、残酷なほどあっさりと切り裂いた。
「一〇二三」
沙織の口から、無意識にその数字が漏れた。
シャンパンの甘い香りが、急に鼻につく。
これは彼女が広告で使い古した「安っぽい幸福」の匂いだ。
「沙織、聞いちゃいけない。あれは君を腐らせる墓場の音だよ。さあ、その杯を飲み干して、僕と一緒に永遠の快楽へ行こう。君の心も体も、僕の魔法に従うべきだ」
コマスが初めて焦燥を滲ませ、蛇のような手つきで彼女の肩を掴んだ。
だが、沙織は動かなかった。
グラスをテーブルに叩きつけるように置くと、彼女は琥珀色の瞳を真っ向から見据えた。
「いいえ。あなたは私の体をこのソファに縛り付けることはできても、私の心までは支配できない。私が恐れている一〇二三の通知は、あなたが言うような亡霊じゃない」
「それは私がこの世界で生きて、誰かと関わってきた証拠よ。汚くて、重たくて、逃げ出したくなるような……私の、愛すべき現実です」
どれほど泥沼のような毎日でも、その一〇二三の責任こそが、今の彼女をこの地上に繋ぎ止めている。
コマスが差し出した「忘却」は、救済ではなく、ただの「逃避」に過ぎないことを、彼女は悟った。
「残念だよ、沙織。せっかく自由になれたのに。……君には、一生その重たい鉄の鎖が似合っているらしい」
コマスの瞳から光が消え、底知れない闇が広がった。
彼が指を鳴らした瞬間、店の入り口が乱暴に開かれた。
「沙織さん!」「おい、ここにいたのか!」
深夜のホストクラブには似つかわしくない、仕事に疲れた男たちの野太い声。
GPSの共有設定を切り忘れていたことが幸いしたのか、探しに来た同僚たちが、異物のようにこの森へ踏み込んできた。
あまりに剥き出しの現実に、コマスは忌々しげに舌打ちをした。
彼はカウンターに置かれた銀色のシェイカーをひったくると、中身をフロアへとぶち撒けた。
パールホワイトの液体が空中で霧散し、人工的なミントの香りが爆発するように広がって、視界を白く染め上げる。
コマスが撒いた、感覚を狂わせる魔法の粉のように。
「行けばいい。だが、君はもう、自分の足では一歩も歩けない」
同僚たちは店員に追い出されるように、怒号を上げながら一度外へ押し戻される。
嵐が去った後のように、店内に再び静寂が訪れた。
コマスの姿は、もうどこにもない。
だが、沙織は立ち上がることができなかった。
物理的な拘束はない。
なのに、全身が鉛のように重く、指一本動かせない。
目の前のカウンターでは、息を吹き返したスマホが、暗闇の中で激しく点滅していた。
一〇二四、一〇二五、一〇二六……。
一刻も早くそれを掴み、ここから逃げ出さなければならない。
なのに、現実という荒波へ戻ることへの根源的な恐怖が、見えない呪いとなって、彼女を銀色のソファに縫い付けていた。
ふと、沙織の脳裏に、先ほどコマスが嘲笑混じりに漏らした言葉が蘇る。
「この店にはね、夜明けの女神より先に現れる、不吉な水の精がいるんだ。彼女がバケツを持って現れるとき、どんな甘美な夢も下俗な泥水に変わってしまう」
「不潔を嫌い、現実という名の毒を撒き散らす、救いようのない掃除婦(サブリナ)さ。彼女が来る前に、君は僕と行かなければならなかったのに」
その時は聞き流したはずの言葉が、今、不快な音を伴って現実を侵食し始める。
―――ガラガラ、ガラガラ。
静寂を裂いて近づいてくるのは、重いバケツを載せたワゴンの、耳障りな車輪の音だった。
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