第4話:洗礼の泥水

やってきたのは、黒いエプロンにゴム手袋をはめた、小柄な清掃員の女性だった。  

彼女は、放心状態でソファに座り込んでいる沙織を、驚きもせず、かといって同情もせず、ただ「業務の障害物」を見るような事務的な視線で一瞥した。


「……あの、コマスさんは?」


沙織が掠れた声で尋ねると、女は名札に記された「サブリナ」という文字を揺らし、無造作にモップをバケツに突っ込んでバシャバシャと音を立てた。


「あの子? もう上がったわよ。ここはもう閉店。あたしらが掃除を始める時間なの。ここは夢の残骸が溜まりやすいからね、すぐに洗い流さないと、一生その椅子から立ち上がれなくなるよ」


サブリナは、迷いなくモップを床に滑らせた。

銀色のタイルを、塩素系の洗剤が混じった濁った水が塗りつぶしていく。

その瞬間、沙織の鼻を突いたのは、ミントの香りではなく、鼻を刺すような強い洗剤の匂いと、生々しい雑巾の臭いだった。


サブリナは沙織の足元まで来ると、手を止め、バケツから掬い上げた冷たい水を、沙織のハイヒールの先に、そして手首に、一滴ずつ、計三度滴らせた。


「一度目は、あんたを縛る偽りの光を消すため」


「二度目は、その指にまとわりつく忘却の毒を洗うため」


「そして三度目は……あんたの足に、この世界の重みを教えるため」


水の精が行う清めの儀式のように、無機質な洗剤混じりの水が沙織の肌に触れる。

その冷たさと不快さに、沙織の思考を覆っていた銀色の霧が、急速に晴れていった。

鉛のように重かった体が、急に自分のものであるという実感を伴って軽くなる。


「お姉さん、足どけて。そこ、誰かが吐き出したゲロの跡があるから、しっかり磨かなきゃいけないのよ。汚いでしょう? でも、これがこの場所の正体」


サブリナは淡々と、だが力強くモップを動かす。


「……私の、スマホ」


「ああ、そこにあるわよ。充電、終わってるみたいね。さっさと持ってお行き。あんたを待っている『義務』という名の亡霊たちは、逃げ出すよりも向き合ってくれるのを待っているはずよ」


沙織は、泥水の洗礼を受けた足元で、しっかりと床を蹴った。


物理的な呪縛が、サブリナが撒いた汚れた水によって洗い流されていく。

スマホを掴み取ったとき、掌に伝わるデバイスの熱は、コマスの指先よりもずっと温かく、実りがあった。


「シルバー・ライニング。あの子はそれを絶望の縁取りだと言ったでしょう。でもね、本当の縁取りっていうのは……」


サブリナは腰を曲げて床を力一杯擦りながら、顔を上げずに言った。


「明日また誰かがここに来る前に、この汚い床を磨き上げる、この手の動きのことよ。美徳っていうのは、何もしないことじゃない」

「この汚れきった場所で、自分を汚しながら、それでも磨くのをやめないことなのよ。さあ、行きな。あんたの戦場(しごと)が待ってるんでしょ」


同僚と共に自動ドアを抜けると、歌舞伎町はまだ激しい雨の中だった。

銀の破片のように鋭かったネオンは、もう網膜を突き刺さない。ただの、雨に濡れた電球の光だ。


沙織は傘を開き、スマホを操作して、グループチャットに短い一文を打ち込んだ。


『すみません、バッテリーが切れていました。今から合流します。修正案、明日の朝イチで出します』


それは彼女が今まで売ってきた、どんな「輝かしい嘘」よりも地味で、真っ当な、本当の言葉だった。

雨の夜を歩き出した沙織の背中は、アスファルトの照り返しを受けて、わずかに銀色に縁取られていた。

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