第2話:シルバー・ライニング
自動ドアが開くと、歌舞伎町の喧騒と下水の臭いは、厚い冷気の壁に遮断された。
店内の空気は、磨き上げられたカトラリーのように硬質で、微かにミントと高価なタバコの香りが混じっている。
そこは、歌舞伎町の雑居ビルの中とは思えない、人工的な「狂った森」だった。
天井からは無数のクリスタルが蔦のように垂れ下がり、壁一面の鏡がそれらを無限に増殖させている。中央には巨大なシャンパンタワーが、まるで欲望を湛えた噴水のようにそびえ立ち、零れ落ちる雫がクリスタルの森に波紋を広げていた。
「こちらへ。一番静かな席を用意したよ。ここは、時間さえも僕の許しなしには進めない聖域だ」
男にエスコートされ、沙織はフロアの最奥にあるボックス席に腰を下ろした。
鈍い銀の光沢を放つシルクのソファは、一度座れば二度と立ち上がれない「魔法の椅子」のように、彼女の身体の自由を奪い、魂まで深く沈め込んでいく。
改めて隣に立つ彼を見上げ、沙織は息を呑んだ。
銀髪は月光を編み込んだように滑らかだが、その奥に見える瞳は、獲物を狙う豹のように鋭く、琥珀色に燃えている。
「……あの、お名前を」
沙織が掠れた声で問うと、男は陶器のような肌を歪めて、完璧な微笑を浮かべた。
「コマス。そう呼ばれているよ。この夜の森で、迷い子に銀色の光を教えるのが僕の役目だ」
コマス。
そう名乗った男が纏うスーツは、夜の闇を銀の糸で縫い合わせたような光沢を放ち、鍛えられた肉体の輪郭を完璧になぞっていた。
整った顔立ちはギリシャの石像のように冷徹だが、その唇だけは熟れた果実のように赤く、背徳的な甘さを湛えている。
コマスは酒の神の奔放さと、魔女の狡猾さを同時に注ぎ込まれた器のようだった。
コマスが動くたびに、獣が森を歩く時に発するような、静かだが圧倒的な威圧感が空間を支配する。
「……ああ、そうだ。その重たい荷物、預かろう。君の繊細な指先には、そんな鉄の塊は似合わない」
コマスが、まるで彼女の心に巣食う腫瘍を摘出するかのような手つきで、死んだスマホに指をかけた。
沙織は一瞬、躊躇した。
現代の人間にとって、スマホは呪いの道具であると同時に、唯一のアイデンティティだ。
だが、コマスの琥珀色の瞳に見つめられると、それすらも前時代の古びた枷(かせ)のように思えてくる。
だが、彼が発する言葉の粒子が、皮膚から浸透して神経を麻痺させていく。
それは彼女が日々、安っぽいコピーとして捏造してきた「幸福」や「快楽」という言葉の本質を、純化して叩きつけられているような感覚だった。
「真面目でいることに、何の意味がある? 義務なんて、誰が決めたの?」
数分前まで彼女を縛っていた社会人としての矜持が、今や塵のように軽くなって霧散していく。
この魔術師の前では、現世のルールなど一文の価値もない。
「お願い、します」
沙織は抗う気力を失い、スマホを彼に差し出した。
彼は満足げに微笑み、それをカウンターの奥、銀色のコードが蛇のようにのたうつ充電器に繋いだ。
「見てごらん。一〇二三もの通知という名の亡霊たちが、あそこで檻に閉じ込められた。電源の切れた鉄の塊に戻れば、奴らはもう君を追いかけてくることはできない。未読の呪いから、君は解き放たれたんだ」
コマスが隣に滑り込んでくる。
体温を感じさせない冷ややかな香水の匂いが、沙織の思考を麻痺させた。
「君は、なぜそんなに怯えているんだい?」
「君が守ろうとしている『美徳』や『節制』なんてものは、光を知らない暗闇の住人が、自分たちの惨めさを正当化するために作った退屈な言い訳に過ぎない」
コマスの指先が、沙織の頬を羽毛のような軽さでなぞる。
「自然はね、その恵みを貸し出しているんじゃない。君に与えているんだ。君の若さも、その美しさも、使わずに貯め込んでおけば、冬が来る前にただ腐っていくだけだよ」
「美しさは、人に見せ、賞賛され、浪費されてこそ価値がある。隠しておくのは、天に対する冒涜だと思わないかい?」
コマスの言葉は、彼女が仕事で作り上げてきた「消費を煽るコピー」の究極形のように響いた。
「さあ、この『忘却』を一口。そうすれば、君を縛るすべての銀の糸は断ち切られ、君は本当の自由を手に入れる」
月光を溶かし込んだようなパールホワイトの液体が、銀の縁取りを施されたグラスの中で揺れている。
沙織はグラスを見つめた。
本能が「逃げろ」と叫んでいる。
だが、彼の語る「退屈な現実からの脱獄」は、乾ききった彼女の魂にとって、何よりも甘美な毒薬だった。
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