銀の枷(かせ)

枕川うたた

第1話:魔の森の入り口

その夜、歌舞伎町は巨大な銀の迷宮(ラビリンス)のようだった。

降り続く雨がアスファルトを濡らし、無数のネオンを乱反射させて、鋭利な銀の破片となって網膜を突き刺してくる。


「……沙織、次行くよ! ほら、置いてくよ!」


数メートル先で、アルコールの回った同僚たちが、傘を振り回しながら光の渦の中へ溶けていく。

沙織は二十六歳。中堅広告代理店に勤めて四年。

彼女の仕事は、凡庸な商品を「人生を変える逸品」に仕立て上げる、輝かしい嘘を捏造することだ。

そんな虚飾に塗れた毎日は、同僚との飲み会ですら仕事の延長に過ぎなかった。


追いかけようとした沙織の右手の中で、スマホが短いバイブレーションを繰り返した。

液晶に浮かび上がるのは、未読件数「1023」。

クライアントからの執拗な修正依頼と、上司からの催促。

それは彼女がこの街で切り売りしてきた寿命の、カウントダウンのようにも見えた。


結局、私もこの街のネオンと同じ。中身のない光を売って、自分自身も磨り潰しているだけ―――


液晶の放つ青白い光は、彼女の精神を少しずつ削り取っていく彫刻刀だ。

通知を消そうと画面に触れた瞬間、無情にも光が消えた。

バッテリー切れだ。 「嘘……」  呟きは、雨音にかき消された。


完全な「死」だった。

今この瞬間、彼女は同僚たちの行き先を知る術を失い、深夜の歌舞伎町という「魔の森」に取り残された。

スマホという命綱を失った瞬間、沙織は自分がどこにも繋がっていない、透明な存在になったような錯覚に陥った。


震えが止まらなくなったその時、不自然なほど静かに、一振りの銀色が近づいてきた。


「お困りですか、迷える貴婦人(レディ)」


銀髪を完璧にセットし、月光を糸にして織り上げたようなスーツを纏った男が、銀色の傘を差し出していた。

その瞳は、夜の淵で光る冷たいコインのように美しい。


「酷い雨だ。ひとまず、僕の店で雨宿りをしていきませんか。君のその真っ黒な夜を、僕が銀色で縁取ってあげよう」


男が指し示した先には、鋭利なフォントで綴られた看板が、霧の中で妖しく明滅していた。


――「ホストクラブ『Silver Lining』」


「シルバー・ライニング……。絶望の、縁取り」


沙織は、自分が仕事で使ってきたような「安っぽいコピー」ではない、重く冷たいその言葉に、魂を射抜かれた。

破滅と救済の始まりだとは知らずに、彼女は吸い寄せられるように、銀色の傘の下へと一歩を踏み出した。

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