お袋が橋の上から33歳の美女を拾ってきた

春風秋雄

誰なんだ、この女性は

「冬人さん、はい、どうぞ」

園香さんと名乗る、さっき会ったばかりの女性がご飯をよそってくれ、茶碗を差し出した。

「あ、ありがとう」

戸惑いながら俺は茶碗を受け取る。

「その味噌汁は園香さんが作ったのよ」

お袋が言う。お袋は、園香さんがこの家にいることがごく当たり前のように振舞っている。お袋が食卓についたところで、「いただきます」と言って朝食を始める。まずは園香さんが作った味噌汁から口をつけた。美味しい。粉末の出汁を使わず、昆布と鰹節、そして煮干しで出汁を取っている味だ。普段朝食ではお袋も俺も面倒がって粉末の出汁を使うことが多いので、朝からちゃんとした出汁の味噌汁を食べるのは久しぶりだ。

「卵焼きも私が作りました」

園香さんが言うので、卵焼きに箸をのばす。綺麗に焼けている。園香さんの料理の腕はかなりのもののようだ。

「冬人、今日から園香さんは住み込みで、うちで働いてもらうことになったから」

「住み込みで?」

「園香さんが美人だからって、あんた変なことしたらいかんよ」

「いやいや、そんなことはしないけど、一体園香さんって、母さんとはどういう繋がりなの?」

「だからさっき説明しただろ?今朝橋の上で拾ってきた娘さんだって」

「猫を拾ってくるのとはわけが違うのだから。それに拾って来るのは橋の上ではなくて橋の下が定番だろ?本当に初めて会った人なの?」

「だからそうだと言っているじゃない」

「園香さん、本当ですか?」

「ええ、今朝おばさんに橋の上で拾ってもらいました」

園香さんが笑いながら答える。

「うちで働くのはいいですけど、住み込みって、園香さんも家があるのでしょ?」

「事情があって、しばらくは家に帰れないのです」

「事情って、何なのですか?」

「あんた、うるさいよ。ここの主は私なんだから、私が良いと言えば良いの。あんたは気にせずいつも通りに仕事しなさい」

お袋にぴしゃりと言われて、俺は黙るしかなかった。


俺の名前は生川冬人(なるかわ ふゆと)。31歳の独身だ。母は若い頃から料理人として働いていて、20代で今の『割烹料理みき』を開いた。ちなみに母の名前は美樹だ。父はそこの常連客だったらしい。父は普通のサラリーマンだった。結婚してからも母はお店を続けながら、家庭の主婦をし、そして俺を育てた。父の仕事はそれなりに収入はあったらしく、母が働かなくても充分生活は出来たそうだが、母がお店を続けることは結婚するときの条件だったということで、母の仕事に関して父が口出しすることは一切なかった。俺は小さい頃から、学校から帰ると母の店へ行き、宿題をしながら母の包丁さばきを見ていた。そしていつかは俺も料理人になろうと思っていた。高校卒業後の進路を料理の専門学校にしたいと言ったとき、初めて父が反対した。父は普通に大学へ行って、普通にサラリーマンになってほしかったようだ。俺は母に専門学校を卒業したら、この店で働かせてほしい。そして、将来はこの店を継ぎたいと頼み込んだ。俺の熱意に負けた母は、俺と一緒に父に頭を下げてくれ、やっと料理の道へ進むことを許してもらった。父は寂しかったのだろう。母は毎朝、市場へ買い付けに行くために早起きをし、夜は遅くまで店で仕事をし、父と一緒に過ごす時間は通常の夫婦に比べ格段に少なかったはずだ。仕事から帰ってきた父の唯一の話し相手は俺だった。それが俺まで母と同じ生活時間になってしまったら、父は家の中でポツリと、一人ぼっちになってしまうと思ったのだろう。そんな父も4年前に癌で亡くなった。病院で父の最期を看取った母は「もう少しお父さんと一緒に過ごす時間を作ってあげればよかった」と涙を流していた。

俺は現在、母と一緒に板場に立っている。1年くらい前から市場での買い付けも任されるようになり、今日も市場に買い付けに行って帰ってきたら、見知らぬ女性が家にいた。お袋に「誰?」と聞くと「園香さん。橋の上で拾ってきた」と、訳の分からない返答が帰ってきたというわけだ。


店は家から歩いて5分程度のところにある。いつもお袋よりも先に俺がお店へ行き、掃除をすることになっている。園香さんも俺と一緒にお店へ行くことになった。並んで歩いていると、園香さんが何者なのか気になって仕方ない。

「園香さんは、一体何者なんですか?」

「何者でもないですよ。単なる住み込みの見習いです」

「園香さん、苗字は何というのですか?」

「苗字必要ですか?私を呼ぶときは園香と言って頂ければいいので、苗字は必要ないでしょ?」

何を聞いてもはぐらかされる。

「じゃあ、せめて年齢を教えてください」

「年齢は33歳です」

俺より2つ年上だったんだ。

「結婚はされているのですか?」

「それ必要ですか?お店で働くのに既婚者なのか独身なのかは関係ないでしょ?それとも冬人さん、独身なら私を口説いてくれるのですか?」

「いや、そんなつもりではないです。じゃあ、もういいです」

何か調子が狂う人だ。


園香さんと一緒にお店の掃除をして、そろそろ終わるかなという頃、お袋が店に入ってきた。

「じゃあ、支度を始めるよ」

お袋の掛け声で一気に仕事モードに入った。お袋は冷蔵庫の中をのぞき、俺が仕入れてきた魚、肉、野菜などをチェックする。そしてお品書きのボードに本日の一品料理を書きだす。買い付けの時に俺がイメージしていたメニューと同じことも多いが、その魚でそれを作るか?と、俺が思いつかなかったメニューを書き出すこともある。園香さんはお袋が書きだす一品一品を、真剣に見ていた。甘鯛はタケノコと一緒にうす葛仕立てにするようだ。牛肉は野菜と煮込み共地餡で食べてもらう献立になっている。お袋は若い頃、ちゃんとした料亭で修行をしたようで、一日のメニューの中で多くはないが、このように手の込んだ料理を何品かお品書きに載せる。俺はそのボードを見て、早速支度を始める。俺は主に野菜と肉の下準備をし、魚はお袋が下準備をするのが流れだった。ところがお袋は、いきなり園香さんに魚の下準備を任せた。見ていると園香さんは手際よく魚をさばいていく。これはかなりの腕だ。今朝の味噌汁と卵焼きで、ある程度は想像していたが、園香さんはちゃんと修行をした料理人であることは間違いなかった。そんな園香さんが、どうしてうちなんかにやってきたのだろうか。

準備が進み、煮物を俺が作り、お袋に味見をしてもらう。

「女将さん、味見をお願いします」

店では女将さんと呼ぶようにしている。お袋は少し味見をし、OKのサインを出してくれた。

「園香さんも味見をしてみる?」

お袋が園香さんに聞いた。園香さんは目を輝かせて味見をした。一口食べて目を見張ってお袋を見た。

「この味は・・・」

俺はその後の言葉が気になって聞いた。

「味はどうでした?」

「煮物は冬人さんが作っているのですか?」

「今は、基本的に煮方は私です」

「この味は女将さんから教わったのですか?」

園香さんの質問にお袋が答える。

「作り方は私が教えたけど、同じ調味料を同じ量を使っているのだけど、この子が作る方が美味しいの。天性の舌なんだろうね」

園香さんが感心したように俺を見た。


園香さんはよく働く人だった。細かいことにも気がつき、お客さんに対してもそつなく笑顔で接している。女将さんは初日からお造りは園香さんに任せていた。包丁捌きは鮮やかで、盛り付けも美しく、出来栄えは女将さんと遜色がなかった。悔しいが、魚の扱いは俺より上だった。

園香さんは俺が煮物を作るときは手をとめ、ジッと俺の作業を見ていることが多い。お客さんが食べ終わった皿を下げる時、その煮汁を指につけ、そっと味見をしているのを何度か見かけた。園香さんはうちの、いや、俺の煮付けの味に興味があるようだ。

園香さんがお風呂に入っているときに、俺はお袋に言ってみた。

「母さん、園香さんはうちの味を盗もうとしているのじゃない?」

「べつにいいじゃない。特許をとっているわけではないし、盗まれてもうちに損害はないのだから」

「だったら、もし園香さんが作り方を教えてくれと言ってきたら、教えた方がいいのか?」

「それはあんたに任せるよ。盗むのは勝手だけど、教えるかどうかはあんた次第だから。園香さんが教えても良いと思える人物なら教えてあげればいいし、あんたが教えたくないと思うなら教えなくていいよ」

俺はできたら教えたくなかった。何年も何年もかけて、やっと今の味にたどり着いたのだ。そう簡単に教えられるものではない。


うちはお店が休みの日曜日を除くと、朝食と昼食は家で食べるが、夕食はお店で賄いを食べることにしている。賄いは俺とお袋が交代で作っていたが、園香さんが加わったことで、3人交代で作るようになった。園香さんは自分が当番のときは、必ず煮物を作った。材料はお店にあるものを使うが、料亭で出すような、とても上品な品を作ることもあった。どれも及第点をつけられる美味しいものだった。ただし、煮物に関しては俺の方が上だと自信をもった。別に園香さんと張り合うつもりはないが、うちの店の売りは煮物だったので、煮物だけは誰にも負けたくないという気持ちは強かった。特に魚の煮付けに関しては、園香さんの味付けは少し物足りないように思えた。


ある日、園香さんが改まって俺に頼み込んできた。園香さんがうちに来て3ヶ月が過ぎていた。

「冬人さん、私に煮付けを教えてもらえませんか?」

とうとうきたか。俺は園香さんが頼んできたらどうしようか、ずっと考えていた。この何ヶ月かで、園香さんの人柄もわかり、俺は園香さんに好意をよせはじめていた。

「園香さんは、ずっとこの店にいるわけではないのですよね?」

俺がそう言うと、園香さんは困った顔をして黙り込んだ。

「ずっとこの店で働いてくれるのであれば、立派な戦力になってもらえるように教えても良いのですが、そうではないのですよね?」

「ごめんなさい。私にはいつまでもここにいるわけにはいかない事情があるのです。そうですよね、そんな私に簡単に教えるわけにはいきませんよね」

やはりそうか。いつか園香さんはここから出て行くのだ。それは恐らくこの店の煮付けの味をマスターしたときなのだろう。

「じゃあ、せめて、これだけは教えてもらえませんか?」

「何でしょう?」

「冬人さんは、煮付けのときに、最後に何か違う醤油を足していますよね?あれは何なのですか?」

「魚の煮付けのときですね?」

「そうです」

俺は教えようか、どうしようか迷った。するとお袋が「それくらい教えてあげなさい」と園香さんに加勢した。

「あれは溜まり醤油です。様々なメーカーが溜まり醤油を出していますが、この溜まり醤油が一番よかったので、私はこれを使っています」

俺はそう言って溜まり醤油のボトルを見せた。園香さんはすかさずメモを取っていた。

「普通の生醤油(きじょうゆ)と溜まり醤油の割合がミソです」

「その割合までは教えてもらえないですよね?」

「それは自分で色々試してください。私は丁度良い割合をみつけるのに何年もかかりました」

園香さんは「何年も」と小さくつぶやいて、息を飲んだ。

俺は意地悪で教えなかったのではない。自分なりの割合をみつけてこそ、自分独自の味になる。だから自分でその割合を見つけてほしかった。ただ、俺の心の奥底に、その割合を見つけるのに何年もかかれば、それだけ長くこの店にいてくれるという、浅はかな思いがあったことは否めなかった。


それ以来園香さんは日々の賄いを買って出て、毎日魚の煮つけを作るようになった。朝早く市場への買い付けも俺と一緒に行くようになり、賄い用の魚を自腹で買う意気込みだった。来る日も来る日も煮魚で、普通の人であれば飽きが来るだろうが、俺もお袋も魚は好きだったので園香さんの試みに協力した。しかし、醬油の調合はうまく行かないようで、これといった味は出せないようだった。

ある日の夜、俺が寝ようとしていると部屋のドアを園香さんがノックした。

「冬人さん、ちょっといいですか?」

「どうぞ」

部屋に入ってきた園香さんはベッドの横に座った。そしていきなり頭を下げた。

「お願いです。冬人さんの醤油の割合を教えてください」

「慌てることないですよ。繰り返し繰り返しやっているうちに、自分の割合を見つけられますよ」

「私にはあまり時間がないのです。どうしたら教えて頂けますか?」

あまりにも真剣な目に俺は圧倒されそうだった。

「じゃあ、これで教えて頂けませんか?」

園香さんはそう言ったと思ったら、いきなりパジャマのボタンを外しだした。

「ちょっと、園香さん!」

俺が止めようとするのに構わず、園香さんはパジャマのボタンを全部外し、パジャマを脱ごうとした。下着をつけていない肌があらわになる。俺は慌てて着ていた毛布を園香さんに被せた。

「園香さん、ダメですよ、こんなことをしては」

「私では、そんな価値はないですか?」

園香さんは半泣きの声でそう言った。

「価値があるとかないとか、そういう問題ではないです。私は園香さんに十分魅力を感じています。でも、こんな形で園香さんとそんなことはしたくないです。ちゃんと理由を話してください。どうしてそこまでして魚の煮付けに拘るのですか?そして、一体あなたは何者なのですか?」

それから園香さんは、ボソリボソリと事情を話してくれた。


園香さんは隣県にある料亭香月(かげつ)の一人娘だという。料亭香月は入ったことはないが、知っている料亭だった。お袋と隣県に行った際、料亭香月という暖簾をみつけ、勉強のため入ってみようとお袋に言うと、お袋はすごい剣幕で「ここだけは絶対ダメ。冬人もこの店だけは絶対に入ったらダメだからね」と怖い目で言われた。何があったか知らないが、よほどこの店が嫌いなのだろうと認識していた。その料亭香月の娘さんだったとは。1年前、大将のお父さんが亡くなったそうだ。それまで主だった料理のほとんどをお父さんが作っており、常連さんはお父さんの味を、というより代々受け継がれてきた香月の味を贔屓に通ってくれていた。お父さんに代わり、園香さんが板場に立って料理をしていたが、やはりお父さんの味は出せない。特に煮物に関しては味が落ちたと常連さんから言われ、客足が遠のいてきたそうだ。お父さんはまだ60代だったので、まだまだ長生きするものだと勝手に思っていた園香さんは、味付けの秘訣を教わっていなかったそうだ。板場に立たないお母さんに相談しても仕方ないと思いながらも、つい誰かに教われないものかとぼやくと、お母さんが「美樹さんなら知っているけどね」とボソリと言った。美樹さんとは誰かと聞くと、お父さんと一緒に先代について修行をしていた料理人で、今は自分で割烹料理の店をだしているはずだという。じゃあ、その美樹さんに頼んで教えてもらってくると言うと、お母さんは大反対した。「あの女に借りは作りたくない」と言って、絶対に行くなと言われたということだった。それでも諦められなかった園香さんは、お母さんに黙ってうちにやってきて、お袋に事情を話したところ、教えるとも教えないとも言わず、しばらく住み込みで働きなさいと言ってくれたということだった。ただし、息子には香月の娘だとは言わない方が良い。香月の娘さんだと知ったら教えてくれないだろうからということだったので、橋の上で拾われたということにしたということだった。

「初めて冬人さんの煮付けの味見をしたとき驚きました。お父さんと同じ味付けだったのです。店を離れてもう半年近くになります。こうしている間にも、常連さんはどんどん離れていっているのです。ですから、一日でも早く煮付けを覚えて店に帰りたいのです」

そういうことだったのか。しかし両家の母親がいがみ合っているのは、過去に何か因縁があったのだろう。それでもお袋が園香さんを受け入れたのはどうしてだろう。

「わかりました。でしたら、明日から私が付きっきりで教えます」

「本当ですか?」

「本当です。ですから、今日はもう寝ましょう」

俺がそう言うと、園香さんは笑顔で部屋を出て行った。ベッドに横になってからしばらくは、さっき見た園香さんの白い胸が瞼に焼き付いて眠れなかった。


翌日から園香さんとマンツーマンでの特訓が始まった。俺が使った調味料の量を園香さんが秤にのせて量を測る。それをメモしてその通りに今度は園香さんが作ってみる。しかし、同じ量の調味料を使っているのに味が微妙に違う。おそらく最後に溜まり醤油を落とすタイミングの問題だろう。すると、園香さんは俺が最後に溜まり醤油を落とすタイミングの時間を測りだした。その通りに今度は園香さんがやってみる。かなり近い味になってきた。それから1週間、みっちり特訓をして、俺の味と遜色ない味を出せるようになった。園香さんはその味を持って店に帰ることになった。


園香さんとの最後の日、ベッドに入っているとドアをノックする音がした。

「どうぞ」

俺が声をかけると、ドアがそっと開いた。園香さんがソロリと部屋に入ってきた。

「本当にありがとうございました」

「何回もお礼を言ってもらったから、もういいよ」

「本当に感謝してもしきれないのです」

園香さんはそう言って立ち上がると、いきなりベッドの中に入ってきた。

「園香さん・・・そんなことはしなくても・・・」

「本当は、ずっとここにいたかった。冬人さんと一緒に料理するのがとても楽しかった。ずっとずっと、冬人さんと一緒に料理をしていたいと思っていた。でもお店があるから、代々続いたお店をつぶすわけにはいかないから」

「園香さん・・・」

「だから、今日だけ、今日が最後だから、お願い」

俺は思わず園香さんを抱きしめた。


園香さんが自分の店に帰って1カ月ほどした頃、店が休みの日曜日に園香さんと、そのお母さんがうちにやってきた。

「美樹さん、お久しぶり」

園香さんのお母さんがお袋に会うなり言った。

「景子さん、年取ったわね」

園香さんのお母さんは景子さんというらしい。

「美樹さん、あなた鏡見ないの?私なんかより老けているわよ」

「そりゃ、あんたより3つ年上なんだから、あんたより老けて当たり前だよ」

「それはそうと、園香がお世話になったようで、お礼を言っておきますね。でも、どうせ煮付けの秘訣を教えて頂けるのなら、もっと早く教えてほしかったですね。園香がいない間、お店は大変だったんですから」

「そんなことを言うためにわざわざ来たのかい?何か要件があって来たのじゃないのかい?」

お袋がそう言うと、景子さんの姿勢が改まった。

「冬人さんを半年くらい貸してもらえないかしら」

俺を?どういうことだ?

「半年貸してどうするの?」

「うちの若い衆を煮方に育ててもらいたいの。もちろん園香も一緒に若い衆に教えるけど」

「園香さんが冬人のやり方は習得したのだから、煮方は園香さんに任せて、若い衆には徐々に教えていけばいいじゃないの?」

「本来ならそうなんだけど、若い衆が煮方に育ったら、冬人さんは園香をつけてお返ししますから」

園香さんをつけて?どういう意味だ?

「園香さんをつけてとはどういう意味なの?」

俺の疑問をお袋が聞いてくれた。

「この子、うちに帰ってから、魂の抜け殻みたいになっていたの。確かに煮方の腕は上がって、これなら離れた常連さんも戻ってきてくれるのではないかと思ったんだけど、どうも元気がないので問い質したら、冬人さんのことが忘れられない、あっちのお店にいきたいと泣くものだから、私も腹を決めて、香月は私たちの代で終わりにしてもいいと思ったの。でも今いる従業員たちに迷惑はかけたくないから、せめて私が元気なうちは店を続けて、今板場にいる者のなかから店を継ぎたいという人が出てきたら継がせるつもり。だから、そのためにも冬人さんを半年貸してほしいの」

「勝手なこと言うね」

いきなりお袋が喧嘩腰に言い返した。

「あんたとこの事情で冬人を貸すなんて、まっぴらだね。それに園香さんをつけて返すと言うけど、それはそれはありがとうございますと、私が園香さんを喜んで引き取ると思っていたのかい?」

「母さん!」

せっかく園香さんと一緒になれるのに、何てことを言うんだ。

「美樹さん、あなた、あの時のことをまだ根に持っているの?」

「あの時のことって、母さんたち、一体何があったんだよ?」

俺はたまらず二人の顔を見比べながら聞いた。

「園香さんのお父さん、泰輔(たいすけ)さんと一緒になるのは、本当は私だったんだよ。それをこの女が横取りしたんだ」

何だそれ?そんな因縁だったのか?

「それは亡くなった先代が決めたことでしょ?美樹さんと泰輔さんが好きあっていたことは知っていたから、私も先代に言ったんです。泰輔さんの結婚相手は私ではなくて、美樹さんにしてくださいと。すると先代は、泰輔の嫁になる女性は料理人ではなくて、店全体を仕切ってくれる女将になってもらわなければ困る。美樹さんにこの店の女将はつとまらない。何より、美樹さんの料理の腕は泰輔以上だ。その美樹さんから包丁をとりあげるのは料理の道を歩んできた自分にはとてもできないとおっしゃったんです」

景子さんの話を聞いて、お袋が黙り込んだ。

「先代は同じことを泰輔さんにも言われたそうです。それで泰輔さんも美樹さんには料理人として成功してほしいと、私と結婚することにしたのです」

「先代が本当にそんなことを言ったの?」

「本当です」

「泰輔さんがあなたを選んだのは、私より若いからだとずっと思っていた」

「そんなことで結婚相手を選ぶ人ではないことを、美樹さんが一番良く知っているじゃないですか」

お袋はジッと考えているようだった。そしてさっきまで喧嘩腰だった顔がふっといつもの柔らかい顔に戻った。

「園香さんがうちで勉強させてくださいと言ってきたとき、香月の人間に教えてなんかやるものかと思ったの。でもね、園香さんの真剣な顔が、泰輔さんにそっくりだった。あの人に頼まれているような気がした。それでうちで働くことを許す気になったの」

「じゃあ、お願いです。亡くなった泰輔も助けてほしいと思っていると思います。どうか、冬人さんを半年だけ貸してください」

「冬人を貸すなんてまっぴらだって、さっき言ったでしょ?」

「母さん、半年だけだよ。お願いだから」

俺は思わずお袋に懇願した。

「冬人は、貸さないけど、くれてやるよ。泰輔さんが一所懸命守ってきた香月をつぶすんじゃないよ。そのためには跡継ぎも必要だろ?だから冬人を香月にくれてやるよ。それで冬人は園香さんと立派な跡取りをつくりな」

「美樹さん、あなたはそれでいいのですか?」

「うちの店は私の代で終わったってたいしたことじゃないよ。でも代々続いた香月はそういうわけにはいかないだろ?もともとうちの店は先代から退職金代わりに出してもらったものだ。私は泰輔さんとの手切れ金だと思っていたけど、景子さんの話を聞く限り、そうではなかったようだね。そんな先代に恩を返すためにも、これでいいのさ」

お袋の潔さに、皆声がでなかった。

「泰輔さんにしろ、冬人にしろ、私の大切な人はみんな景子さんに取られてしまうね。でもいいんだ。私の大切な人が、幸せになってくれることが私の一番の望みだから」

景子さんが目を真っ赤にしながらお袋のところににじり寄った。そしてお袋の手を握り、何かを言いたそうだったけど、言葉が出なかった。その代わりお袋が景子さんに言った。

「今まであなたを恨んで悪かったね。香月を辞めるとき、あなたにひどいこと言ったけど、許しておくれ。冬人の事、よろしくお願いします」

そう言うお袋の目も涙で濡れていた。それから二人は何も言わず、固く手を握り合っていた。その二人の姿を見て、そっと俺の隣に移動してきた園香さんが、俺の手を握ってきた。俺はその柔らかい手を、絶対離すものかと握り返した。

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