第2話
肺を焼くような湿気と腐臭が漂う洞窟内を、俺は一陣の風となって疾走していた。
背中にはハイエルフの王女、ティナを背負っている。
本来ならば成人男性一人分の重荷となるはずだが、進化した俺の肉体にとって、彼女の体重など羽毛一枚ほどの重さにも感じられない。
視界の端には、常に『全能解析』が弾き出す三次元マップが展開されている。
複雑怪奇に入り組んだ迷宮の構造が、青白いワイヤーフレームとして脳内に投影され、最短かつ安全なルートが赤いラインで示されていた。
「ど、どこへ行くのですか……? そっちは行き止まりだと、捕まった時に聞きましたけれど」
背中で身を縮こまらせているティナが、不安に震える声を鼓膜に届ける。
恐怖に染まったその声色ですら、鈴を転がすように愛らしい。
だが、その認識は凡俗な生物のものである。
「凡人には行き止まりに見えるだけだ。『全能解析』が、この先に隠された空間があると告げている」
俺は速度を緩めず、突き当たりの岩壁に向かって直進した。
衝突する寸前、脳内のナビゲーションに従い、岩肌の特定の一点を指先で突く。
魔力を込めた打撃が、古代の仕掛けを作動させた。
ズズズ、と重厚な地響きが鳴り渡り、巨大な岩が生き物のようにスライドして道を開ける。
「こ、こんな場所に隠し通路が……なぜ、生まれたばかりのあなたがこれを知っているのですか?」
「愚問だな。俺の目には、この世界の全てがデータとして視えている。秘密など存在しない」
俺はティナを背負ったまま、埃っぽい隠し部屋へと足を踏み入れた。
かつて魔導師が隠れ家として使っていたのだろうか。
朽ちかけた家具と、微かな魔力の残滓が漂っている。
俺は部屋の中央にあった寝台の残骸に古い布を払い、ティナを降ろした。
「まずは落ち着け。名は」
「……私はティナ。ハイエルフの里から、魔王軍に連れ去られました」
ティナは膝を抱え、警戒と好奇心が入り混じった碧眼で俺を見上げてくる。
その視線は、俺の異様な容姿に釘付けになっていた。
バリアント・ゴブリン。
緑色の醜悪な肌は失せ、鋼のような灰色の皮膚と、闇夜に輝く真紅の瞳を持つ俺の姿は、彼女の知るゴブリンとは別種の存在として映っているはずだ。
「ティナか。悪くない響きだ。俺に名はまだない。好きに呼ぶがいい」
「名前がない……? そんなはずはありません。その知性、その力……ただの魔物ではないはず」
「魔物という枠組みで俺を測るな。それよりも、お前の首にある不愉快な首輪を外してやる」
俺は彼女の華奢な首に嵌められた、黒い金属製のチョーカーに指を触れた。
禍々しい紫色の光が明滅し、彼女の膨大な魔力を封じ込めている。
「無理です……! これは魔王軍の幹部クラスが施した、大魔導師級の封印魔法です。解呪には高位の聖職者か、あるいは施した本人でなければ――」
「大魔導師級? 笑わせるな」
俺の『全能解析』が、チョーカーに刻まれた術式を一瞬で丸裸にする。
複雑に見える魔力回路も、俺にとっては幼稚なパズルに過ぎない。
数百箇所に及ぶ魔力の結節点、その全てに構造上の欠陥がある。
「論理が稚拙だ。こんな穴だらけの術式で、封印気取りとはな」
俺は指先に針のような魔力を集中させ、術式の急所となる一点を正確に突き刺した。
パリン、という硬質な音が響く。
それはまるで、薄氷が砕けるような儚い音だった。
次の瞬間、黒いチョーカーは砂のように崩れ落ち、ティナの体から奔流のような魔力が溢れ出した。
「あ……っ、魔力が、戻ってくる……! 体が、嘘みたいに軽い……」
ティナの背中にあった萎びた羽が、青白い燐光を放って大きく展開する。
部屋の中が、幻想的な光に包まれた。
彼女は自分の手を見つめ、信じられないという表情で何度も瞬きを繰り返している。
「嘘……一瞬で……? 王国の賢者様でも、解呪には数日かかると言われていたのに……あなたは、一体……」
「当たり前の処置をしたまでだ。騒ぐな」
俺は驚愕に固まるティナを放置し、部屋の隅にある棚を漁った。
そこには、乾燥しきった薬草の束と、革表紙がボロボロになった数冊の魔導書が転がっていた。
『全能解析』が、それらの価値を瞬時に鑑定する。
知識と魔力の塊。
今の俺にとっては、最高のご馳走だ。
「いただきます」
俺は躊躇なく魔導書を掴み、表紙ごと食いちぎった。
バリバリ、グシャ、という野蛮な音が静かな部屋に響く。
「えっ……!? あ、あなた、何を!? それは本です! 食べ物ではありません!」
ティナが悲鳴のような声を上げる。
だが、俺は構わず咀嚼し、嚥下した。
古い紙の味などしない。
口の中に広がるのは、濃厚なインクに込められた魔力の芳醇な味わいと、知識が脳髄に直接溶け込んでいく快感だけだ。
《対象:古の魔導書を捕食・解析しました》
《知識ベースを統合。スキル『魔導操作』を獲得しました》
《魔力回路の効率化に成功。魔力の最大値が100上昇しました》
脳裏に無機質なアナウンスが響き、新たな力が血管を駆け巡る。
指先に魔力を集めると、以前よりも遥かに精密なコントロールが可能になっているのが分かった。
「これが俺の食事であり、最強への最短ルートだ。知識も力も、食らってしまえば俺の一部になる」
俺は残りの薬草もデザート感覚で口に放り込み、ティナに向き直った。
「さて、ティナ。お前はこのまま隠れて震えているか? それとも、故郷を奪った連中に復讐したいか」
「故郷は……里はもう、魔王軍に焼き払われました。私には帰る場所なんて……」
ティナは俯き、悔しさに唇を噛み締めて拳を握る。
その瞳には絶望の涙が溜まっていた。
だが、完全に光が消えたわけではない。
「なら、俺について来い。俺が新しい国を作る。種族など関係ない、力ある者が正当に評価され、豊かさを享受できる最強の帝国だ」
「国を……あなたが?」
「そうだ。俺の『全能解析』と『無限捕食』があれば、世界を平らげることなど造作もない。お前はその最初の国民になる権利をやろう」
俺は傲然と言い放ち、手を差し出した。
ゴブリンの言葉とは思えない、王の風格。
ティナは吸い寄せられるように顔を上げ、俺の深紅の瞳を見つめ返した。
そこにあるのは、根拠のない自信ではない。
絶対的な未来への確信だ。
彼女の本能が、目の前の存在に従うことこそが唯一の救いだと叫んでいるのだ。
ティナは震える手で、俺の手を取った。
そして、その場に深く跪く。
「……私の命、あなたに預けます。あなたが示す世界を、見てみたい。我が主様(マスター)」
「賢明な判断だ。では行くぞ。まずは手始めに、外で騒いでいる薄汚い豚どもを掃除する」
俺たちは隠し部屋を出て、通路を戻った。
『全能解析』の聴覚強化が、遠くの広場から聞こえる下品な笑い声を拾う。
オークたちが戦勝祝いと称して、略奪した酒を飲み交わしているのだ。
「おい、あのバリアント・ゴブリンはどこへ消えた! まさか逃げたのか!」
広場に近づくと、オークのリーダーの怒声が聞こえてきた。
「エルフの女を連れて、暗がりに消えたようですぜ! へへ、自分だけで楽しむつもりなんじゃねえですか?」
取り巻きのゴブリンが、卑屈な笑い声を上げる。
「チッ、あの出来損ないが! 見つけ次第、八つ裂きにして串刺しにしてやる!」
リーダーが巨大な斧を振り回し、岩壁を叩く音が響いた。
「八つ裂きにされるのは、お前たちの方だ」
俺は音もなく広場の入り口に立ち、冷徹な声を放った。
空気が一瞬で凍りつく。
宴会の喧騒がピタリと止み、数十匹の魔物たちの視線が一斉に俺に集中した。
「あ? テメェ……さっきの!」
オークのリーダーが充血した目を剥き、俺を睨みつける。
背後にはティナが控えているが、今は恐怖に震えてはいなかった。
主である俺の力が、絶対的な盾であることを理解したからだ。
「戻ってきやがったか、ゴミ屑が! しかも随分と偉そうな態度じゃねえか。進化して色が白くなったくらいで、オーク様に勝てるとでも思ったか!」
「勝てるかどうかではない。俺がお前たちを処理するのに、何秒かかるかの問題だ」
俺は腕を組み、欠伸を噛み殺しながら答えた。
完全なる侮蔑。
それがオークのプライドを逆撫でした。
「ナメるなよォォォ! 野郎ども、殺せ! 肉片になるまで叩き潰せ!」
号令と共に、十数匹のゴブリンたちが一斉に襲いかかってくる。
錆びた剣や棍棒を振り上げ、殺意を剥き出しにして殺到する群れ。
ティナが息を呑み、詠唱の構えを取ろうとする。
「主様、援護を!」
「不要だ」
俺は一歩も動かなかった。
『全能解析』が、襲いくるゴブリンたちの攻撃軌道を、数秒先の未来まで完全に予測している。
右から来る剣は三秒後に心臓へ。
左からの棍棒は四秒後に頭蓋へ。
遅い。
あまりにも遅すぎて、止まっているようにすら見える。
「全て視えている」
俺は右足を一歩踏み出し、最小限の動きで最初の剣を躱した。
すれ違いざま、そのゴブリンの顔面を裏拳で弾く。
バヂィッ、という湿った破裂音。
頭部がトマトのように弾け飛び、首から下の肉体だけが勢いのまま地面を滑った。
「なっ!?」
後続のゴブリンたちが驚愕に目を見開く。
だが、俺の攻撃は止まらない。
流れるような動作で懐に入り込み、次々と急所を貫いていく。
心臓を一突き。
喉仏を粉砕。
脊髄を引き抜く。
俺が指先を振るうたびに、必ず一匹の命が消滅した。
悲鳴を上げる暇すらない。
ただ圧倒的な死の舞踏が、広場を鮮血で染め上げていく。
「ば、化け物……!」
最後の一匹が腰を抜かし、失禁しながら後退る。
俺は慈悲など見せず、その脳天に踵を振り下ろした。
ドォン、と地面が揺れ、頭蓋が陥没して絶命する。
数秒前まで俺を殺そうとしていた群れは、いまや動かぬ肉塊の山と化していた。
「あ、あり得ない……魔法も使わず、体術だけで……」
ティナが呆然と呟く。
俺は血濡れた手を軽く払い、中央に陣取るオークのリーダーへと視線を向けた。
「さて、次はリーダーのお出ましだ。少しは楽しませてくれるんだろうな?」
「ッ、ふざけるなよ! ゴブリン風情が調子に乗るなァ!」
オークは怒りで全身を赤く染め、身の丈ほどもある巨大な戦斧を構えた。
『全能解析』が数値を弾き出す。
筋力値200オーバー。
通常なら、一撃で大岩をも粉砕する破壊力だ。
「俺の攻撃力は貴様の比じゃねえ! その細い体ごと両断してやる!」
オークが咆哮と共に跳躍し、全体重を乗せた一撃を振り下ろす。
風を切る音が唸りを上げ、ティナが悲鳴を上げた。
だが、俺は避けない。
逃げる必要など微塵もないからだ。
「遅いし、脆い」
俺は頭上へと右手を伸ばし、迫りくる巨大な刃を素手で受け止めた。
ガギィィィンッ!!
金属同士がぶつかり合うような高音が響き渡り、火花が散る。
俺の足元の岩盤に亀裂が入ったが、俺自身は一ミリも動いていない。
「な、なんだと……!? 俺の全力の一撃を、片手で……!?」
オークの顔が、怒りから驚愕、そして恐怖へと歪んでいく。
俺は掴んだ刃に、ほんの少し力を込めた。
「俺の今の筋力値は、お前の倍以上だ」
メキ、メキメキッ。
鋼鉄製の分厚い戦斧が、まるで濡れた煎餅のようにひしゃげていく。
「あ、あり得ねえ! それはミスリル鋼の斧だぞ!?」
「ガラクタだな」
パキンッ!
俺は手首を返し、戦斧を粉々に砕いた。
破片がキラキラと舞い散る中、俺はオークの懐へと踏み込む。
無防備になった腹部に、渾身の拳を叩き込んだ。
「グオォォォォッ!!」
内臓が破裂する感触。
巨体が砲弾のように吹き飛び、広場の奥の岩壁に激突した。
オークは口から大量の血と臓物の欠片を吐き出し、ずり落ちるように地面へ崩れ落ちる。
「カ、ハッ……た、助け……」
「命乞いか? 肉壁に慈悲を乞うとは滑稽だな」
俺は瀕死のオークを見下ろし、冷酷に告げた。
その目に宿るのは殺意ではなく、食欲だ。
「お前はただの経験値だ。俺の糧になれることを光栄に思え。『無限捕食』」
俺がオークの頭を鷲掴みにし、スキルを発動させる。
俺の腕から黒い霧のような魔力が噴出し、オークの巨体を包み込んだ。
断末魔すら飲み込み、その存在全てを分解、吸収していく。
《オーク・コーポラルを捕食しました》
《筋力値が大幅に上昇しました》
《スキル『重圧(プレッシャー)』を獲得しました》
《レベルが10に到達。進化条件を満たしました》
ドクン、と心臓が強く脈打ち、さらなる力が全身に漲る。
筋肉の繊維一本一本が作り変えられ、より強靭に、より美しく進化していく感覚。
俺は息を吐き出し、溢れ出る魔力を整えた。
振り返ると、生き残った数匹のゴブリンたちが、地面に額を擦りつけて震えていた。
「ひぃっ、お助けください! 俺たちは逆らいません!」
「あんたこそが真の王だ! 一生ついていきます!」
恐怖による完全な服従。
だが、それでいい。
俺に必要なのは、有能な手駒だけだ。
「いいだろう。お前たちを俺の兵士第一号にしてやる」
俺は『進化の導き手』を発動し、彼らの頭上にステータスツリーを表示させた。
今はただの弱小ゴブリンだが、このスキルを使えば、最適な育成ルートが見える。
栄養状態の改善、魔力の注入、特定の行動負荷。
それらを管理すれば、短期間でホブゴブリン、いや、それ以上の上位種へと進化させることが可能だ。
「お前には筋力強化の木の実を食わせる。お前はあそこの岩を運び続けろ。俺の指示通りに動けば、貴様らごときでも強くなれる」
「は、はいっ! 仰せのままに!」
ゴブリンたちは涙を流して感謝し、俺の命令に従って動き始めた。
その様子を見ていたティナが、熱っぽい吐息を漏らしながら俺の元へ歩み寄る。
「凄いです、主様……! あのオークを指一本で倒し、兵たちまで手懐けてしまうなんて……あなたは本当に、世界の王になる方なのですね」
「当然だ。これはまだ第一歩に過ぎない」
俺は広場の中央に立ち、満足げに頷いた。
捕食したオークの知識から、この迷宮の構造と魔王軍の補給ルートが判明した。
この洞窟の深層には、古代遺跡へと続く扉があるらしい。
そこには、俺の前世の知識を活かせる遺物が眠っている可能性が高い。
「次は洞窟の最深部を制圧する。そこを拠点に、俺たちの国を広げていくぞ」
「はい! どこまでもついて行きます!」
ティナの忠誠心は、もはや信仰に近い領域に達しているようだ。
全ては順調。
俺の計算に狂いはない。
そう確信し、次の指示を出そうとした時だった。
ズズ……ズズズ……ッ。
洞窟の奥深くから、重苦しい足音が近づいてくるのが聞こえた。
先ほどのオークとは比べ物にならない、圧倒的な重量感。
そして、肌が粟立つような濃密な殺気。
「ほう、宴の後片付けが終わったと思ったら、また客か」
俺は視線を闇の奥へと向けた。
そこに姿を現したのは、身の丈3メートルを超える巨躯。
全身を黒い甲冑で覆い、手には人間ほどの大きさがある金棒を持った鬼神。
『全能解析』が、その脅威度を警告色で表示する。
《対象:オーガ・ジェネラル レベル30》
《魔王軍大隊長クラス 脅威度:極大》
「貴様か。我が配下を掃除したのは」
オーガ・ジェネラルが低い唸り声を上げ、金棒を肩に担ぎ直した。
その一挙手一投足が、周囲の大気を震わせる。
「名乗る必要はない。どうせ俺の餌になるだけだ」
俺はニヤリと笑い、血に濡れた拳を構え直した。
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