09:Intermezzo / Flickering Tea Time

 県立第2SS学園の放課後は、いつだって静謐なはずだった。

 窓の外、武雄の空には積乱雲が白く輝き、遠く御船山の緑が深い影を落としている。だが、アリア――アサヒナ・アリアの視界には、その美しい風景に重なるようにして、薄青いシステム・グリッドが絶えず点滅していた。


「……アリア。また意識の深度が深くなっているわ。視線を固定しなさい」


 冷徹な声が、アリアを現実へと引き戻す。

 隣の席でタブレットを操作しているのは、カノンだ。彼女の指先は、学園の課題を解いているように見えて、その実は地下センターから送られてくる戦域データの整合性をチェックしている。


「ごめん、カノン。……昨日から、なんだか景色が二重に見えることがあって」


「神経接続の残滓(デブリ)ね。テツトさんに報告して、組成を見直してもらう必要があるわ。……でも、今はそれより、あっちの『嵐』をどうにかしなさい」


 カノンが視線を向けた先――教室の最後部では、ワカが机を並べ替え、どこから持ち込んだのかも不明なレースのクロスを広げていた。


「皆様、何をぼんやりしていますの! 昨日の勝利を祝して、本日は特別に温泉街の最高級羊羹を取り寄せましたわ! さあ、カノンもカナタも、その不潔な機械を置いてこちらへいらっしゃいな!」


「お嬢、羊羹に紅茶は合わないんじゃねえか?」


 苦笑しながら、タケル・カナタが隣の教室から椅子を運んでくる。

 実家がこの街で千年の歴史を刻む古社である彼は、どこか「聖職者」を思わせる穏やかで透き通った空気を纏っていた。体格こそ良いが、その所作は静かで、他者を決して威圧しない。


「黙りなさい、カナタ! 美しいものと美味しいものを合わせれば、それは最高級に決まっていますわ! これぞナナミ家の理論、異論は認めませんわよ!」


「はいはい、分かったよ。……アリア、あまり根を詰めるな。お前の『旋律』が乱れると、俺の盾も響きが悪くなる。……ほら、これ。親父が厄除けにって持たせてくれた甘酒だ。ワカの紅茶の合間にでも飲んでくれ」


 カナタの差し出した、温かな湯気を立てる水筒。

 その温もりと、どこか神聖さを感じさせる香りが、デジタルの海に沈みかけていたアリアの意識を、確かに「ここ」へと繋ぎ止めてくれる。


 四人で囲む茶会。

 ワカの賑やかな高笑いと、カノンの辛辣なツッコミ、そしてカナタの慈悲深い微笑み。

 それは、昨日までと変わらない、平和な日常の断片。

 けれどアリアには分かっていた。この机の下で、カノンの膝の上にある端末が「再出現予測」の警告を刻み続けていることを。


「……テツトさん、まだ地下にいるのかな」


 ふと、アリアが漏らした呟き。

 ワカの動きが、一瞬だけ止まった。


「……あの偏屈なエンジニアのことですもの。どうせ、脂っこいジャンクフードを啜りながら、画面と睨めっこしていますわよ。全く、たまには太陽の下でお茶を飲むくらいの余裕が欲しいものですわ」


「そうね。……でも、彼が地下に篭っているからこそ、私たちがこうして羊羹を食べていられるのも事実よ」


 カノンが放課後の弓道場で的に向かう時のような鋭い視線を、ふと遠い空へと向けた。

 日常と非日常の境界線。

 彼女たちは、その細い糸の上を綱渡りしている。


「……暗い顔をするのはおやめなさい! ほら、アリア。この栗の入り具合を見てくださいまし! これこそが、記述を上書きするにふさわしい贅沢というものですわ!」


 ワカがフォークを突き出す。

 アリアは微笑み、その一切れを口に運んだ。

 甘さが、神経の奥に痺れるように広がっていく。


 ――同じ頃。

 夕暮れの緒妻邸。

 ユウは、縁側に座って、庭に咲く小さな花を見つめていた。


「……あら。あそこに、変な雲」


 ユウが指差した先。

 そこには、普通の人間には見えないはずの、小さな黒い「亀裂」が走っていた。

 それはほんの一瞬、バグのように瞬くと、すぐに元の夕焼け空へと溶けて消えた。


「テツトさん、今日も遅いかしら。……晩ごはんは、彼が好きな揚げ物にしてあげようかな」


 ユウは穏やかに立ち上がり、台所へと向かう。

 彼女が歩いた後の畳が、ほんの一瞬、幾何学的なグリッド状に揺らいだことに、彼女は気づかない。

 あるいは、気づきながらも、その「記述」を受け入れているのか。


 その夜。

 地下センター、テツトの執務室。

 彼は、アリアが指摘した『03-ELEGIA』のデータフォルダを開いていた。

 画面には、ノイズで塗りつぶされた、破れたベールを持つ機体の残像。


「……『エレジア』。……君を置いてきた場所は、まだ修復できないままだ」


 テツトの手が、空を掴むように震える。

 彼は白衣のポケットから、古びた、今はもう使われていない物理的な鍵を取り出した。


「『SATURATED-BOREDOM』……。飽きたなんて、言わせない。……この物語の続きは、僕が、僕たちが書く」


 テツトの瞳に、モニターの青い光が反射する。

 その視界の端に、新たな警告灯が点滅を始めた。

 今度は、武雄の市街地。

 人々の記憶が密集する場所で、最大級の「綻び」が起ころうとしていた。


「……カノン、カナタ、アリア、ワカ。聞こえるか」


 テツトが通信デバイスを手に取る。

 学園からの帰り道、四人のスマートフォンが同時に、未知の周波数で震えた。


「……デザートの時間は終わりだ。……『幕間』が来る。全員、直ちにセンターへ」


 アリアは空を見上げた。

 一番星が輝くはずの場所が、今、赤黒いノイズに染まっていく。

 平和な日常の薄皮が、再び、剥がれ落ちようとしていた。

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