第7話 「包囲網」

1


二〇〇六年、一月。

新年が明けて間もなく、神谷誠一のもとに、不穏な情報が入り始めた。


「神谷さん、ちょっといいですか」

田村が、深刻な顔でオフィスに入ってきた。


「何だ」


「帝都銀行が動いています」


「動いている?」


「大和グループの持ち合い株を、さらに強化しているようです。我々が株を買い増す前に、防衛網を固めようとしている」


神谷は、眉をひそめた。


「銀行が、そこまで露骨に動くか」


「それだけじゃありません。政界からも、圧力がかかり始めています」


田村は、一枚の新聞記事を差し出した。

与党の有力議員が、経済誌のインタビューで語っていた。


「一部の投機的な株主が、日本の基幹産業を混乱させている。国益を守るため、必要な措置を検討すべきだ」


名指しはされていないが、誰のことを言っているかは明白だった。


「国益、か」


神谷は、新聞を置いた。


「俺が日本企業を良くしようとしているのに、それが『国益に反する』とは、皮肉な話だ」


「神谷さん、気をつけてください。相手は本気です」


2


翌週。

神谷のもとに、一通の封書が届いた。

差出人は、証券取引等監視委員会。


「誠志キャピタル株式会社 代表取締役 神谷誠一 殿

貴社の株式取引に関し、金融商品取引法に基づく調査を実施することとなりましたので、通知いたします——」


神谷は、封書を読み終えた。


「来たか」


田村が、青ざめた顔で言った。


「神谷さん、これは……」


「予想はしていた。俺たちが大和グループに手を出せば、当局が動く。そういう国だ」


「でも、我々は法律の範囲内で活動しています。違法なことは、何もしていません」


「そんなことは、向こうも分かっている。だが、『調査中』というだけで、我々の動きを封じることができる」


神谷は、窓の外を見た。


「これが、日本のやり方だ。正面から反論できないから、別のところで締め上げる」


3


調査の噂は、すぐに広まった。


「誠志キャピタル、当局の調査対象に——インサイダー取引の疑い」


新聞やテレビが、大きく報じた。

「疑い」だけで、証拠はない。だが、メディアにとっては、それで十分だった。


「神谷ファンド、窮地に」

「物言う株主の正体——当局がメスを入れる」

「ハゲタカの終焉か」


かつて「改革者」と持ち上げていたメディアが、手のひらを返したように神谷を叩き始めた。


投資家たちの反応も、敏感だった。


「神谷さん、申し訳ありませんが、資金を引き揚げさせていただきます」

「調査が終わるまで、様子を見させてください」

「巻き込まれたくないんです」


一人、また一人と、投資家が離れていった。


4


ある夜。

神谷は、かつての上司、岩崎編集長と会っていた。

銀座のバー。カウンターで、二人きり。


「神谷さん、大変なことになっていますね」


「ああ。予想はしていたが、ここまで露骨に来るとは思わなかった」


「当局の調査、本当にやましいことはないんですね」


「ない。俺たちは、法律の範囲内で動いている。インサイダー取引など、するわけがない」


「では、なぜ……」


「見せしめだ」


神谷は、グラスを傾けた。


「俺が大和グループに手を出したから、『これ以上やるとこうなるぞ』という警告だ。調査の結果がどうなろうと関係ない。『調査対象になった』という事実だけで、俺の信用は傷つく」


岩崎は、黙って聞いていた。


「日本というのは、そういう国だ。正面から戦うと負ける相手には、別の方法で締め上げる。ルールを守っていても、ルールの外から攻撃される」


「酷い話ですね」


「酷いが、現実だ」


神谷は、グラスを空けた。


「だが、俺は引かない。ここで引いたら、彼らの思う壺だ」


「でも、このままでは……」


「分かっている。投資家は離れ、資金は減り、俺たちは追い詰められていく。それでも、やるしかない」


岩崎は、神谷の顔を見た。


「なぜ、そこまでするんですか」


神谷は、しばらく黙っていた。


「……子供たちのためだ、と言いたいところだが、最近は自分でも分からなくなってきた」


「分からない?」


「俺は、何のために戦っているのか。日本を変えるため? 子供たちの未来のため? それとも、自分の正しさを証明するため?」


神谷は、苦笑した。


「妻に言われたんだ。『戦うこと自体が目的になっていないか』と。図星だったのかもしれない」


「……」


「でも、今さら引けない。ここまで来たら、最後までやるしかない」


5


二月。

神谷の家族にも、影響が及び始めた。


ある日、美咲から電話があった。


「あなた、今すぐ帰ってこられる?」


「どうした」


「美優が……学校で泣いて帰ってきたの」


神谷は、急いで自宅に戻った。

リビングで、美優が泣いていた。六歳。小学一年生になったばかりだった。


「美優、どうした」


「……パパ」


美優は、神谷に抱きついた。

美咲が、小さな声で説明した。


「クラスの子に言われたらしいの。『お前の父ちゃん、テレビで悪い人って言われてた』って」


神谷の胸が、締め付けられた。


「美優……」


「パパ、悪い人なの? パパ、捕まっちゃうの?」


「違う。パパは、悪いことはしていない」


「でも、テレビで……」


「テレビが間違っているんだ。パパは、正しいことをしているんだ」


美優は、涙を拭いた。


「本当に?」


「本当だ。パパを信じてくれ」


美優は、小さく頷いた。

だが、その目には、まだ不安が残っていた。


6


その夜。

子供たちが寝た後、神谷と美咲は話し合った。


「もう、やめない?」

美咲が、静かに言った。


「何を」


「この戦い。もう、十分でしょう」


「十分?」


「あなたは、たくさんのことをやってきた。東都紡績も変えた。日本の株主総会のあり方も変えた。それで十分じゃない」


「俺は——」


「子供たちが傷ついてる。美優は、学校でいじめられてる。健太も、友達に何か言われてるみたい。翔だって、空気を感じ取ってる」


美咲の目に、涙が浮かんでいた。


「私は、あなたを止めないって言ってきた。あなたが正しいと思うことをしてるのは分かってるから。でも、もう限界なの」


「……」


「あなたの戦いに、子供たちを巻き込まないで」


神谷は、何も言えなかった。


「私は、あなたを応援してきた。でも、家族を犠牲にしてまで続ける価値があるの? この戦いに」


沈黙が、部屋を支配した。


神谷は、長い間、黙っていた。

そして、ようやく口を開いた。


「……すまない」


「何が」


「お前たちを、巻き込んでしまって」


「……」


「俺は、子供たちの未来のためにやっていると思っていた。でも、その子供たちを傷つけている。本末転倒だな」


美咲は、神谷の手を握った。


「私は、あなたを責めてるんじゃない。ただ、一緒に考えたいの。これから、どうするか」


神谷は、美咲を見た。


「……少し、時間をくれ。考えさせてくれ」


7


数日後。

神谷は、意外な人物から連絡を受けた。


黒田宗一郎。

かつて、経済フォーラムで対話した財界の重鎮だった。


「神谷くん、少し話をしないか」


「黒田さんが、なぜ」


「君のことが、気になっているんだ。会ってくれないか」


神谷は、迷った。

黒田は、敵側の人間だ。神谷を潰そうとしている側の。

だが、何か、話を聞くべきだという直感があった。


「分かりました。お会いしましょう」


8


待ち合わせ場所は、都内の料亭だった。

個室に通されると、黒田がすでに座っていた。


「来てくれたか。ありがとう」


「何のお話ですか」


「まあ、座りなさい」


神谷は、黒田の向かいに座った。

黒田は、しばらく神谷を見つめていた。


「君は、追い詰められている」


「ええ。ご存知でしょう」


「当局の調査、メディアのバッシング、投資家の離反……包囲網が、着々と狭まっている」


「それを確認するために、呼んだのですか」


「違う」


黒田は、首を振った。


「君に、忠告をしに来た」


「忠告?」


「今なら、まだ引き返せる」


神谷は、黙って聞いていた。


「大和グループへの挑戦を諦め、静かに身を引けば、当局の調査も収まるだろう。メディアも、すぐに別のネタに飛びつく。君は、今までの実績を持って、別の道に進むことができる」


「つまり、降参しろと」


「そうは言っていない。戦略的撤退だ。君は若い。まだ、いくらでもやり直せる」


神谷は、黒田の顔を見た。


「なぜ、あなたがそれを言うのですか。あなたは、俺の敵でしょう」


黒田は、少し笑った。


「敵、か。確かに、私は君のやり方には反対だ。だが、君を潰したいわけではない」


「どういう意味ですか」


「君の言っていることは、数字としては正しい。日本企業が変わらなければならないというのも、その通りだ。私は、それを認めている」


「では、なぜ反対するのですか」


「やり方の問題だ」


黒田は、お茶を一口飲んだ。


「君は、正面から突っ込みすぎる。敵を作りすぎる。味方を増やす努力をしない。それでは、長続きしない」


「……」


「改革というのは、長い時間がかかるものだ。一人の人間が、一代で成し遂げられるものではない。種を蒔く人がいて、水をやる人がいて、収穫する人がいる。君は、種を蒔こうとしている。だが、蒔き方が乱暴すぎて、種が根付く前に踏み潰されてしまう」


神谷は、黒田の言葉を聞いていた。


「君に子供がいるのは知っている。彼らも、影響を受けているだろう」


「……ええ」


「子供たちのために戦っていると言いながら、その子供たちを傷つけている。それで、本当にいいのか」


神谷は、答えられなかった。

それは、美咲に言われたことと、同じだった。


9


黒田は、続けた。


「神谷くん。私は、君のことを嫌いではない。むしろ、好感を持っている」


「意外ですね」


「君は、信念で動いている。金のためではない。自分が正しいと思うことのために、全てを賭けている。そういう人間は、今の日本には少ない」


「……」


「だからこそ、潰されてほしくないんだ。君が潰されれば、君の言っていたことも、一緒に潰される。『ほら見ろ、ああいうやり方は間違っていたんだ』と言われて終わりだ」


「では、どうしろと」


「生き延びろ」


黒田の目が、真剣になった。


「今は、引け。大和グループへの挑戦は、諦めろ。その代わり、別の方法を探せ。もっと時間をかけて、もっと味方を増やして、もっと巧妙にやれ」


「それでは、何も変わらない」


「変わる。時間はかかるが、変わる。君が蒔いた種は、いつか芽を出す。だが、そのためには、君が生き延びなければならない」


神谷は、しばらく黙っていた。


「黒田さん。一つ、聞いてもいいですか」


「何だ」


「あなたは、日本が変わるべきだと思っていますか」


黒田は、少し考えてから答えた。


「思っている」


「では、なぜ変えようとしないのですか」


「……」


「あなたには、力がある。財界の重鎮として、政治家にも官僚にも影響力がある。その力を使えば、日本を変えることができるはずだ」


黒田は、苦笑した。


「君は、私を買いかぶっている」


「そうですか」


「私には、私の立場がある。私を支持してくれている人たちがいる。その人たちの期待を裏切ることは、できない」


「つまり、しがらみですか」


「そう言われれば、そうかもしれない。だが、それが現実だ。私も、君と同じように、若い頃は理想に燃えていた。だが、組織の中で生きていくうちに、現実との折り合いを学んだ」


「折り合い、ですか」


「そうだ。君には、まだそれが分かっていない。だから、こうして追い詰められている」


神谷は、黒田を見た。


「黒田さん。私は、折り合いをつけるつもりはありません」


「なぜだ」


「折り合いをつけた瞬間、私は私でなくなるからです。私の価値は、折り合いをつけないことにある。妥協しないことにある。それを失ったら、私には何も残らない」


黒田は、ため息をついた。


「頑固だな、君は」


「ええ。昔からそうです」


「だから、敵が多いんだ」


「分かっています」


10


帰り道。

神谷は、夜の東京を歩いていた。


黒田の言葉が、頭の中で繰り返されていた。


「生き延びろ」

「君が潰されれば、君の言っていたことも、一緒に潰される」

「種を蒔こうとしている。だが、蒔き方が乱暴すぎる」


分かっている。

分かっているが、どうすればいいのか。


俺には、このやり方しかできない。

正面から突っ込んで、数字を突きつけて、正論を言う。

それ以外の方法を、俺は知らない。


もっと巧妙にやれ、と黒田は言った。

味方を増やせ、と。


だが、味方を増やすためには、妥協が必要だ。

妥協した瞬間、俺は俺でなくなる。


それでいいのか。

自分を捨ててまで、勝つ価値があるのか。


答えは、出なかった。


11


翌日。

神谷は、オフィスで一人、考えていた。


田村が入ってきた。


「神谷さん、また投資家が二社、撤退を決めました」


「そうか」


「このままでは、運用資産が半分以下になります。大和グループへの挑戦どころではなくなります」


「分かっている」


田村は、神谷の顔を見た。


「神谷さん、本当に続けるんですか」


「続ける」


「でも……」


「続けるしかないんだ。ここで引いたら、俺は何のために戦ってきたか分からなくなる」


田村は、黙っていた。


神谷は、窓の外を見た。


「田村。お前は、なぜ俺についてきた」


「え?」


「俺のところに来れば、楽な道ではないことは分かっていたはずだ。なぜ、来た」


田村は、少し考えてから答えた。


「神谷さんが、本気だったからです」


「本気?」


「証券会社にいた頃、本気で何かを変えようとしている人を、見たことがありませんでした。みんな、適当にやって、適当に出世して、適当に生きていた。でも、神谷さんは違った」


「……」


「神谷さんは、本気で日本を変えようとしていた。その本気に、惹かれたんです」


神谷は、田村を見た。


「お前は、今でも俺についてくるか」


「もちろんです。最後まで、ついていきます」


神谷は、小さく笑った。


「ありがとう」


12


その夜。

神谷は、自宅で家族と夕食を取っていた。

健太、美優、翔。三人の子供たちが、食卓を囲んでいる。


美優は、もう泣いていなかった。だが、どこか元気がなかった。


「美優、学校はどうだ」


「……別に」


「友達と、仲直りしたか」


「……別に」


美優は、ご飯を食べながら、下を向いていた。


神谷は、胸が痛んだ。


健太が言った。


「父さん、大丈夫?」


「何が」


「テレビで、父さんのこと、色々言ってるじゃん。嘘ばっかりだと思うけど」


「……お前は、どう思う」


「俺は、父さんを信じてる。父さんは、悪いことしてないでしょ」


「ああ、していない」


「だったら、大丈夫だよ。いつか、みんな分かるよ」


神谷は、健太の顔を見た。

八歳の子供が、父親を励ましている。


「……ありがとう、健太」


「父さん、負けないでね」


その言葉が、神谷の胸に響いた。


13


子供たちが寝た後。

神谷と美咲は、リビングで話していた。


「決めたよ」


「何を」


「最後まで、やる」


美咲は、神谷を見た。


「……そう」


「すまない。お前たちを巻き込んで」


「分かってたよ。あなたが引くわけないって」


美咲は、小さく笑った。


「でも、約束して」


「何を」


「負けても、壊れないで。あなたが壊れたら、私たちも壊れる」


神谷は、美咲の手を握った。


「約束する」


「それと、もう一つ」


「何だ」


「子供たちの前では、笑ってて。子供たちは、あなたの顔を見てるから」


神谷は、頷いた。


「分かった。努力する」


「努力する、って言って——」


「しないのが俺だろ。分かってるよ。だから、今度こそ、やる」


美咲は、神谷の肩に頭をもたれさせた。


「私、あなたを誇りに思ってる」


「……」


「たとえ負けても、あなたが戦ったことは、無駄じゃないと思う。誰かが見てる。誰かが覚えてる。いつか、分かる人が出てくる」


神谷は、美咲を抱きしめた。


「ありがとう」


14


三月。

神谷は、大和グループの株式を五パーセントまで買い増した。

大量保有報告書を提出。正式に、「大株主」となった。


「誠志キャピタル、大和重工業の大株主に——株主総会で対決へ」


ニュースが、日本中を駆け巡った。


大和グループは、すぐに声明を出した。


「当社は、全ての株主と建設的な対話を行う用意があります。ただし、短期的な利益を追求する投機的な株主の要求には、応じることはできません」


事実上の宣戦布告だった。


神谷は、その声明を読みながら、静かに言った。


「面白い。受けて立とう」


株主総会まで、あと三ヶ月。

最後の戦いが、始まろうとしていた。


---


〖第7話 注釈〗やさしい用語解説


証券取引等監視委員会:株式市場で不正が行われていないかを監視する国の機関。インサイダー取引や粉飾決算などを調査する。「市場の番人」とも呼ばれる。


インサイダー取引:会社の内部情報を知っている人が、その情報が公開される前に株を売買すること。他の投資家に対して不公平なため、法律で禁止されている。


大量保有報告書:上場企業の株を五パーセント以上持った場合、提出しなければならない書類。「この人が大株主になりました」と世間に知らせるためのもの。


戦略的撤退:負けを認めるのではなく、より良い状況を作るために一時的に引くこと。「逃げる」のではなく「次のチャンスを待つ」という意味合いがある。

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鋼の叛逆者(はがねのはんぎゃくしゃ) sora_op @sora_op

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