第6話「聖域への挑戦」

1


二〇〇五年、九月。


東都紡績の勝利から、三ヶ月が経っていた。


神谷誠一の名前は、日本中に知れ渡っていた。


「物言う株主」


「日本のアクティビスト」


「企業改革の旗手」


メディアの論調は、少しずつ変わり始めていた。かつては「ハゲタカ」と叩いていた記者たちが、今では「改革者」と持ち上げる。


誠志キャピタルの運用資産は、八百億円を超えた。


国内外の機関投資家から、資金が集まり始めていた。


神谷は、赤坂のオフィスで、次の戦略を練っていた。


「神谷さん」


部下の一人、田村が声をかけた。三十代前半。証券会社から転職してきた若手アナリストだった。


「何だ」


「例の件、分析が終わりました」


田村が差し出したのは、分厚いレポートだった。


表紙には、こう書かれていた。


「大和グループ——日本経済の聖域」


2


大和グループ。

日本を代表する巨大企業集団だった。


中核の大和重工業を筆頭に、大和銀行、大和不動産、大和商事、大和化学……二十社以上の企業が、「大和」の名を冠して連なっている。


戦前から続く財閥の流れを汲み、戦後の日本経済を支えてきた「名門」だった。


グループ全体の時価総額は、約十兆円。


従業員数は、グループ合計で二十万人を超える。


「日本経済の心臓」とも呼ばれていた。


神谷は、田村のレポートを読んでいた。


「大和グループの問題点……株式の持ち合い構造、不透明な関連取引、低い資本効率……」


「はい。グループ企業同士が株を持ち合っていて、外部からの意見が通りにくい構造になっています。資本効率も、同業他社と比較して著しく低い」


「ROEは?」


「グループ平均で約三パーセントです。欧米の同業他社は十パーセント以上。三分の一以下です」


神谷は、レポートを閉じた。


「つまり、株主から預かった金を、有効に使えていない」


「そうです。大和グループには、約二兆円の余剰現金があります。これを有効活用すれば、株主への還元も、成長投資も、十分に可能です」


「なぜ、しないのか」


「する必要がないからです。持ち合い構造のおかげで、外部から何を言われても、経営陣の地位は安泰です。変わる動機がない」


神谷は、窓の外を見た。


東京のビル群が広がっている。


「……ここを変えれば、日本が変わる」


「はい」


「だが、相手は東都紡績とは比較にならない。日本経済の中枢だ。政界、官界、財界、すべてとつながっている」


「リスクは承知しています」


神谷は、田村を見た。


「お前は、どう思う。勝てると思うか」


田村は、少し考えてから答えた。


「分かりません。ただ、やる価値はあると思います」


「なぜ」


「神谷さんがいつも言っていることです。誰かが始めなければ、何も変わらない」


神谷は、小さく笑った。


「俺の言葉を、使うな」


「すみません」


「いや、いい。その通りだ」


神谷は、レポートを手に取った。


「やるか」


3


その夜。


神谷は、自宅で家族と夕食を取っていた。


健太は小学二年生になっていた。美優は五歳、翔は三歳。


「父さん、最近また忙しくなった?」


健太が聞いた。


「ああ、少しな」


「また会社の人と喧嘩するの?」


「喧嘩じゃない。話し合いだ」

「でも、テレビで見たよ。父さん、怖い顔してた」


美咲が笑った。


「父さんは、仕事のときは怖い顔になるのよ」


「なんで?」


「真剣だからよ」


健太は、納得したような、していないような顔をした。


「父さん」


「何だ」


「父さんの仕事、大変そうだけど、楽しい?」


神谷は、箸を止めた。


「楽しいか、か……」


考えたことがなかった。


楽しいかどうか。そんなことを考える余裕は、なかった。


「……分からないな。楽しいというより、やらなきゃいけないことをやっている、という感じだ」


「ふーん」


「なんで聞くんだ」


「学校で先生が言ってた。『お父さんやお母さんは、楽しいから仕事をしているんですよ』って」


神谷は、何も言えなかった。


美咲が助け舟を出した。


「楽しいだけじゃなくて、大切だからやっている仕事もあるのよ。父さんの仕事は、そういう仕事なの」


「大切?」


「そう。日本の会社を良くするために、頑張っているの」


「へえ」


健太は、ご飯を食べ終えた。


「父さん、俺、大きくなったら父さんみたいな仕事する」


「……なんでだ」


「だって、大切な仕事なんでしょ。かっこいいじゃん」


神谷は、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「……ありがとう。でも、お前は、お前の好きなことをやればいい」


「うん。でも、父さんの仕事も好きだよ」


健太は、そう言って、自分の部屋に行った。


4


子供たちが寝た後。


神谷と美咲は、リビングで話していた。


「健太、いいこと言うね」


「ああ」


「あなた、嬉しかったでしょ」


「……まあな」


「素直じゃないなあ」


美咲は、コーヒーを二つ持ってきた。


「で、次は何をするの」


「大和グループ」


美咲の手が、一瞬止まった。


「大和って、あの大和?」


「ああ」


「……大きいね」


「ああ、大きい。日本で一番大きいかもしれない」


「勝てるの?」


「分からない」


美咲は、神谷の顔を見た。


「分からないのに、やるの?」


「やらなきゃいけない」


「なぜ」


神谷は、コーヒーを一口飲んだ。


「大和グループは、日本経済の象徴だ。ここが変われば、日本全体が変わる。逆に言えば、ここが変わらない限り、日本は変わらない」


「……」


「東都紡績は、序章だった。本当の戦いは、これからだ」


美咲は、しばらく黙っていた。

そして、静かに言った。


「私は、あなたを止めない。でも、一つだけ聞いていい?」


「何だ」


「あなたは、何のために戦っているの」


「子供たちの未来のためだ。何度も言っているだろう」


「それは分かってる。でも、最近、あなたを見ていて思うことがあるの」


「何だ」


美咲は、神谷の目を見た。


「あなた、戦うこと自体が目的になってない?」


神谷は、言葉に詰まった。


「勝つこと、敵を倒すこと、正しさを証明すること……それが、いつの間にか目的になってない? 子供たちのため、って言いながら、本当は自分のために戦ってない?」


「……」


「私は、あなたを責めてるんじゃない。ただ、心配してるの」


神谷は、何も言えなかった。


美咲の言葉は、どこか、真実を突いていた。


5


翌週。


神谷は、ある人物と会っていた。


場所は、東京・丸の内の高級ホテル。個室のレストラン。


「神谷さん、お会いできて光栄です」


相手は、六十代の男だった。


白髪を綺麗に撫でつけ、仕立ての良いスーツを着ている。穏やかな笑顔。だが、目には鋭さがあった。


大和重工業の社長、藤堂雅彦。

大和グループの総帥とも言える人物だった。


「藤堂さん。お招きいただき、ありがとうございます」


「いえ、こちらからお願いしたのですから。神谷さんのお話を、ぜひ直接伺いたいと思いまして」


二人は、向かい合って座った。


ワインが運ばれてきた。


「神谷さん。東都紡績での株主総会、拝見しました」


「ご覧になっていましたか」


「ええ。見事でした。山岸さんは、何も言えなくなっていましたね」


「事実を確認しただけです」


「謙遜ですな。あれは、相当な準備と覚悟がなければできないことです」


藤堂は、ワインを一口飲んだ。


「神谷さん。率直にお聞きします。次のターゲットは、我々ですか」


神谷は、藤堂の目を見た。


「なぜ、そう思うのですか」


「噂は聞いています。神谷さんが、大和グループの株を少しずつ買い集めていると」


「仮にそうだとして、何か問題がありますか」


「問題はありません。法律の範囲内であれば、株を買うのは自由です」


藤堂は、微笑んだ。


「ただ、お話をしておいた方がいいと思いまして。敵対する前に」


6


「敵対、ですか」


神谷は、藤堂の言葉を繰り返した。

「そうです。神谷さん、あなたは頭の良い方だ。論理的で、数字に強い。だからこそ、お話ししておきたいのです」


「何をですか」


「大和グループは、東都紡績とは違います」


藤堂の声は、穏やかだが、重みがあった。


「東都紡績は、本業が衰退し、不動産だけで生き延びていた会社です。改革の余地があった。だが、大和グループは違う。我々は、日本経済の基盤なのです」


「基盤、ですか」


「ええ。大和重工業は、日本の防衛産業を支えています。大和銀行は、中小企業への融資で地域経済を支えています。大和商事は、資源の安定供給に貢献しています。我々が揺らげば、日本全体が揺らぐ」


「それは、変わらない理由にはなりません」


「変わらない、とは言っていません。変わる必要がある部分は、変わります。ただ、急激な変化は、リスクが大きいのです」


神谷は、藤堂を見た。


「藤堂さん。同じ言葉を、何度も聞いてきました。『急激な変化はリスクが大きい』『時間をかけてゆっくり変える』。その結果が、今の日本です」


「神谷さん——」

「日本企業の時価総額は、世界に占めるシェアが激減しました。かつては世界トップ50社のうち、32社が日本企業だった。今は、ほとんどいない。これが、『ゆっくり変える』の結果です」


藤堂は、黙って聞いていた。


「大和グループの資本効率は、欧米の同業他社の三分の一以下です。株主から預かった金を、有効に活用できていない。それは、数字が証明しています」


「数字、ですか」


藤堂は、ワイングラスを置いた。


「神谷さん。あなたは、数字がお好きだ」


「事実を確認するために、数字は不可欠です」


「確かに。数字は嘘をつかない。だが、数字だけが真実ではない」


神谷は、藤堂の顔を見た。


「どういう意味ですか」


「大和グループには、二十万人の社員がいます。その家族を合わせれば、六十万人、七十万人になる。彼らの生活が、我々にかかっている」


「それは分かっています」


「分かっている、と言葉で言うのは簡単です。だが、本当に分かっていますか」


藤堂の目が、神谷を捉えた。


「神谷さん。あなたは、数字で世界を見ている。ROE、時価総額、配当性向……それらの数字を改善することが、正義だと信じている」


「……」

「だが、数字の向こう側には、人がいる。家族がいる。人生がある。それを、数字だけで切り捨てていいのですか」


7


神谷は、しばらく黙っていた。


藤堂の言葉は、どこか、美咲の言葉と重なっていた。


「藤堂さん」


「はい」


「あなたの言っていることは、分かります。数字の向こう側に、人がいる。それは、その通りです」


「では——」


「しかし」


神谷は、藤堂の目を見た。


「その『人を守る』という言葉が、変化を拒む口実に使われてきたのも、事実です」


「……」


「社員を守る、と言いながら、経営者は自分の地位を守ってきた。地域を守る、と言いながら、非効率な構造を温存してきた。『人のため』という言葉の裏で、本当に守られてきたのは、誰ですか」


藤堂は、答えなかった。


「私は、数字だけが正義だとは思っていません。しかし、数字を無視して、『人のため』という言葉だけで経営することの危険性も、知っています」


「……」


「大和グループには、確かに二十万人の社員がいます。彼らの生活を守ることは、大切です。しかし、非効率な経営を続けることが、本当に彼らを守ることになりますか」


神谷は、身を乗り出した。

「このまま何も変わらなければ、十年後、二十年後、大和グループはどうなっていますか。世界の競争から取り残され、縮小を続け、最終的には、多くの社員が職を失う。その方が、よほど残酷ではないですか」


藤堂は、じっと神谷を見つめていた。


「神谷さん。あなたは、純粋な方だ」


「純粋、ですか。それは、褒め言葉ですか」


「どちらとも取れます。純粋であることは、強さでもあり、弱さでもある」


藤堂は、立ち上がった。


「今日は、お話しできて良かった。あなたのことが、少し分かりました」


「私も、藤堂さんのことが、少し分かりました」


「我々は、敵同士になるかもしれません」


「そうかもしれません」


「だが、不思議と、あなたを嫌いにはなれない。あなたは、信念で動いている。金のためではない」


藤堂は、神谷に手を差し出した。


「また、お会いしましょう」


神谷は、その手を握った。


「ええ。また」


8


帰りのタクシーの中。


神谷は、藤堂との会話を反芻していた。


「数字だけが真実ではない」


「数字の向こう側には、人がいる」


分かっている。


分かっているつもりだった。


だが、本当に分かっているのか。


神谷は、自分自身に問いかけた。


俺は、数字で世界を見ている。


ROE、時価総額、配当性向、GDP成長率……


それらの数字を改善することが、日本を良くすることだと信じてきた。


だが、それは本当か。


数字が改善されれば、人々は幸せになるのか。


GDPが成長すれば、子供たちの未来は明るくなるのか。


……分からない。


分からなくなってきた。


タクシーは、夜の東京を走っていた。


窓の外には、無数のビルの明かり。


その一つ一つに、人がいる。


家族がいる。


人生がある。


俺は、その全てを「数字」で測ろうとしている。


それは、正しいのか。


答えは、出なかった。


9


翌日。


神谷は、オフィスで田村と話していた。


「神谷さん、藤堂社長との会食、どうでしたか」


「面白い人だった」


「面白い?」


「ああ。敵になるかもしれないが、嫌いにはなれない」


田村は、不思議そうな顔をした。


「神谷さんらしくないですね。いつもは、相手を分析して、弱点を探すのに」


「そうだな。俺らしくないかもしれない」


神谷は、窓の外を見た。


「田村。お前は、何のためにこの仕事をしている」


「え?」

「俺は、子供たちの未来のためだと、ずっと思ってきた。日本を変えれば、子供たちが生きる世界が良くなると」


「はい」


「だが、最近、分からなくなってきた」


「何がですか」


「数字を改善すれば、本当に世界は良くなるのか。GDPが成長し、ROEが上がり、時価総額が増えれば、人々は幸せになるのか」


田村は、黙って聞いていた。


「藤堂さんは言った。『数字の向こう側には、人がいる』と。俺は、その人たちのことを、本当に見ているのか」


「……」


「俺は、数字で戦ってきた。数字は嘘をつかないからだ。だが、数字だけで世界を見ることの限界を、少し感じ始めている」


田村は、しばらく考えてから言った。


「神谷さん。僕は、神谷さんを尊敬しています」


「急に何だ」


「神谷さんは、数字を使って、誰も言えなかったことを言ってきた。日本企業の問題点を、明確にしてきた。それは、すごいことだと思います」


「だが?」


「だが、数字だけでは伝わらないものもある、というのは、その通りかもしれません」


田村は、真剣な顔で言った。


「神谷さん。数字は、問題を明らかにするための道具です。でも、解決するためには、数字だけでは足りないのかもしれません」


「……何が足りないと思う」


「分かりません。でも、人の心を動かすには、数字だけじゃなく、物語が必要なのかもしれません」


「物語、か」


「はい。なぜ変わらなければならないのか。変わった先に、何があるのか。それを、人々に伝える物語です」


神谷は、田村の言葉を噛み締めた。


「……お前、いいことを言うな」


「ありがとうございます」


「俺には、物語を語る才能はないかもしれない。俺にできるのは、数字を示すことだけだ」


「それでいいと思います。数字を示すのは、神谷さんの役割です。物語を語るのは、別の誰かの役割かもしれません」


「別の誰か、か」


神谷は、窓の外を見た。


「俺が蒔いた種を、誰かが育ててくれる。そうだといいな」


10


その週末。


神谷は、家族と公園に来ていた。


健太、美優、翔が、芝生の上を走り回っている。


美咲が、隣に座っていた。


「珍しいね、週末に休むなんて」


「たまには、な」


「何かあった?」


「……色々考えることがあった」


「仕事のこと?」

「ああ。でも、仕事だけじゃない」


神谷は、子供たちを見ていた。


「俺は、何のために戦っているのかな」


「また、その話?」


「いや、今度は少し違う」


神谷は、美咲を見た。


「俺は、子供たちの未来のためだと思ってきた。日本を変えれば、子供たちが生きる世界が良くなると」


「うん」


「でも、最近、分からなくなってきた。数字を良くすれば、本当に世界は良くなるのか。GDPが成長すれば、子供たちは幸せになるのか」


美咲は、黙って聞いていた。


「もしかしたら、俺が追いかけている『成長』や『効率』という価値観自体が、古くなっているのかもしれない。もっと別の、新しい価値観が必要なのかもしれない」


「新しい価値観って、何?」


「分からない。俺にも分からない。だから、悩んでいる」


美咲は、少し笑った。


「あなたが悩んでるところ、久しぶりに見た」


「笑うな」


「笑ってないよ。嬉しいの」


「嬉しい?」


「だって、あなた、いつも自信満々だったから。自分が正しいって、疑わなかった。でも、悩んでるってことは、成長してるってことでしょ」


神谷は、苦笑した。


「成長、か。この歳で」

「何歳でも成長できるよ。私だって、毎日成長してる」


「お前が?」


「そう。子供たちに教えられることばかり」


健太が、走ってきた。


「父さん、見て、トンボ捕まえた!」


「おお、すごいな」


「でしょ!」


健太は、手の中のトンボを自慢げに見せた。


そして、すぐに逃がした。


「あ、逃げちゃった」


「なんで逃がしたんだ」


「だって、トンボも家族のところに帰りたいでしょ」


神谷は、健太の言葉に、胸を突かれた。


「……そうだな。トンボにも、家族がいるんだな」


「うん。みんな、家族がいるんだよ」


健太は、また走っていった。


美咲が言った。


「数字じゃ測れないもの、あるでしょ」


「……ああ、あるな」


「それでいいんじゃない? 数字も大事、でも、それだけじゃない。両方、大事」


神谷は、空を見上げた。


秋の空は、高く、青かった。


「……そうかもしれないな」


11


翌週。


神谷は、記者会見を開いた。


場所は、東京・日本橋のホテル。大勢の記者が集まっていた。


「本日は、お集まりいただき、ありがとうございます」


神谷は、壇上に立った。

「私、神谷誠一は、大和グループの株式を取得したことを、ここに発表いたします」


会場がどよめいた。


「現在、大和重工業の株式の約三パーセントを保有しています。今後、さらに買い増しを行い、五パーセント以上の保有を目指します」


記者たちが、一斉に手を挙げた。


「神谷さん、大和グループへの株主提案は、いつ頃を予定していますか」


「来年の株主総会を目指しています」


「具体的に、何を求めるのですか」


「詳細は、後日発表します。ただ、基本的な方向性は、これまでと同じです。株主への還元の強化、資本効率の改善、経営の透明性の向上」


「大和グループは、日本経済の中枢です。混乱を招くのではないですか」


「混乱を招くつもりはありません。ただ、当たり前のことを、当たり前に求めるだけです」


別の記者が質問した。


「神谷さん。あなたは、数字を使って企業を攻撃する、と批判されています。数字だけで経営を測ることに、限界はありませんか」


神谷は、少し考えてから答えた。


「いい質問ですね」


会場が、静まった。

「数字は、問題を明らかにするための道具です。数字を見れば、何がうまくいっていて、何がうまくいっていないか、分かります。それは、議論の出発点として、必要なものです」


「……」


「しかし、数字だけが全てではない。それは、私も分かっています」


記者たちが、驚いた顔をした。


「企業には、社員がいます。家族がいます。地域があります。彼らの生活は、数字だけでは測れない。それは、その通りです」


「では、なぜ数字にこだわるのですか」


「数字を無視して、『人のため』という言葉だけで経営することの危険性を、私は知っているからです」


神谷は、会場を見渡した。


「『社員を守る』『地域を守る』という言葉は、美しい。しかし、その言葉の裏で、変化を拒み、非効率な構造を温存してきた企業を、私は数多く見てきました」


「……」


「数字は、嘘をつきません。数字を見れば、誰が本当に守られていて、誰が犠牲になっているか、分かります。私は、その事実を明らかにしたいのです」


記者会見は、一時間以上続いた。


12


記者会見の翌日。


新聞各紙が、神谷の「大和グループへの挑戦」を大きく報じた。

「物言う株主・神谷氏、日本経済の心臓に挑む」


「大和グループ、激震——神谷ファンド、株式取得を発表」


「聖域への挑戦——資本主義の申し子、最後の戦い」


神谷は、新聞を読みながら、考えていた。


これで、後には引けなくなった。


大和グループは、東都紡績とは比較にならない巨大な相手だ。


政界、官界、財界、メディア……あらゆる力が、神谷を潰しにかかるだろう。


だが、やるしかない。


ここで引けば、何も変わらない。


神谷は、窓の外を見た。


東京の空は、灰色だった。


(この灰色を、青に変えるまで、俺は止まらない)


だが、その先に何が待っているか、神谷にはまだ分からなかった。


〖第6話 注釈〗やさしい用語解説


ROE(自己資本利益率):会社が株主から預かったお金を使って、どれだけ利益を出したかを示す数字。高いほど「効率よく稼いでいる」ことになる。日本企業は欧米に比べて低いと言われている。


財閥:戦前の日本で、一つの家族や会社が中心となって、多くの企業を支配していた企業グループ。三井、三菱、住友などが有名。戦後、GHQによって解体されたが、形を変えて今も企業グループとして残っている。


持ち合い:企業同士がお互いの株を持ち合うこと。外部からの買収を防いだり、経営を安定させたりする効果がある。一方で、外部からの意見が通りにくくなり、経営のチェック機能が弱まるという批判もある。


資本効率:株主から預かったお金(資本)を、どれだけ効率よく使っているかを示す指標。資本効率が低いと、「株主のお金を無駄にしている」と批判されることがある。

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