第4話 「敵たちの正義」




二〇〇四年、九月。


残暑が厳しい日だった。


神谷誠一は、霞が関の合同庁舎を訪れていた。


経済産業省。かつて「通商産業省」と呼ばれた、神谷の古巣だった。


十年前、この建物を出て行った。

二度と戻るつもりはなかった。


だが、今日は呼び出された。


「神谷さん、お待ちしておりました」


受付で待っていたのは、若い職員だった。


「村瀬審議官が、お待ちです」




応接室。


壁には、歴代大臣の写真が並んでいる。


神谷は、ソファに座って待った。


十分ほどして、ドアが開いた。


「やあ、神谷くん。久しぶりだな」


入ってきたのは、五十代半ばの男だった。


白髪交じりの髪。細身の体。鋭い目。


村瀬俊彦。経済産業省の審議官。


神谷が通産省にいた頃、村瀬は課長だった。直属の上司ではなかったが、何度か仕事で関わったことがある。


「村瀬さん。お久しぶりです」


「まあ、座ってくれ。コーヒーでいいか」


「はい」


若い職員がコーヒーを運んできた。


二人きりになると、村瀬は足を組んで神谷を見た。


「君のことは、よく聞いているよ。『物言う株主』として、随分と派手にやっているそうだな」


「派手というほどでは」


「謙遜するな。経団連の連中が、君の名前を聞くと顔をしかめる。大したものだ」


村瀬は、皮肉っぽく笑った。


「それで、今日呼んだ理由だが」


「何でしょう」


「君に、警告をしに来た」


「警告?」


「ああ」


村瀬の目が、真剣になった。


「君の活動は、把握している。株を買い集め、株主総会で経営陣を追及し、改革を迫る。手法としては合法だ。だが、君のやり方は、度を越えている」


「どこが度を越えているのですか」


「君が標的にしている企業の中に、国策的に重要な会社がある。防衛産業、エネルギー産業、インフラ産業。これらの会社を、君のような人間に引っ掻き回されては困る」


「私は、法律の範囲内で活動しています」


「法律の問題じゃない」


村瀬は、身を乗り出した。


「国益の問題だ」




「国益、ですか」


神谷は、村瀬の顔を見た。


「そうだ。君は頭がいい。通産省にいた頃から、それは分かっていた。だが、頭がいいだけでは見えないものがある」


「何が見えていないと?」


「日本という国の仕組みだ」


村瀬は、コーヒーカップを手に取った。


「日本の企業は、単なる営利団体じゃない。雇用を守り、地域を支え、国の安全保障にも貢献している。それを、『株主の利益』という一点だけで切り刻もうとするのは、危険だ」


「私は切り刻もうとしているわけではありません。経営者に、本来の責任を果たせと言っているだけです」


「責任、か」


村瀬は、窓の外を見た。


「神谷くん。君は、『責任』という言葉が好きだな。経営者の責任。株主への責任。だが、責任には色々な形がある」


「どういう意味ですか」


「例えば、ある地方に工場がある。その工場は、非効率かもしれない。閉鎖した方が、株主へのリターンは上がるだろう。だが、その工場には千人の社員がいる。彼らの家族を合わせれば、三千人、四千人だ。その町の人口の半分かもしれない」


村瀬は、神谷に向き直った。


「工場を閉鎖すれば、町が死ぬ。若者は出て行き、商店街はシャッターを下ろし、学校は廃校になる。それでも、『株主の利益』のために閉鎖すべきだと、君は言えるか」


「それは——」


「答えてくれ」


神谷は、しばらく黙っていた。


「……難しい問題です」


「そうだ。難しいんだ。君の言う『正論』は、この難しさを無視している」


村瀬は、立ち上がった。


「私たちは、その難しさの中で、毎日判断を下している。どの企業を支援し、どの企業を見捨てるか。どこまで保護し、どこから競争に委ねるか。答えのない問いに、答えを出し続けている」


「先送りをしている、とも言えます」


「先送り?」


「非効率な企業を延命させ、問題を次の世代に押し付けている。そう見えます」


村瀬の目が、わずかに険しくなった。


「君は、相変わらず生意気だな」


「事実を言っているだけです」


「事実か」


村瀬は、神谷の前に立った。


「では、事実を教えてやろう。君の活動を、快く思っていない人間は多い。財界だけじゃない。政界にも、官界にもいる。今のところ、君は法律の範囲内で動いているから、手出しができない。だが、一歩でも踏み外せば——」


「脅迫ですか」


「忠告だ」


村瀬は、ドアに向かって歩いた。


「君には、子供がいるそうだな」


「三人います」


「なら、分かるだろう。守るべきものがある人間は、無茶はできない。君の正義のために、家族を犠牲にするのか」


神谷は、答えなかった。


村瀬は、ドアの前で振り返った。


「最後に一つだけ言っておく。私は、君が嫌いじゃない。君の言っていることは、論理的には正しい。十年前、通産省で君の意見を聞いたとき、私もそう思った」


「では、なぜ——」


「だが、正しいだけでは国は動かない。君の正義が、誰かの生活を壊すかもしれない。そのことを、忘れるな」


村瀬は、部屋を出て行った。




神谷は、しばらくその場に座っていた。


村瀬の言葉が、頭の中で繰り返されていた。


「君の正義が、誰かの生活を壊すかもしれない」


それは、黒田が言ったことと同じだった。


神谷は、分かっていた。


自分のやっていることが、全員を幸せにするわけではないことを。


企業が効率化すれば、切り捨てられる人間がいる。

工場が閉鎖されれば、職を失う人間がいる。


だが、だからといって、現状維持を続ければ、日本全体が沈む。

非効率な企業を延命させ続ければ、新しい産業が生まれる余地がなくなる。


若者は希望を失い、優秀な人材は海外に流出する。


神谷は、立ち上がった。


(俺は、間違っていない)


そう自分に言い聞かせた。




その夜。


神谷は、銀座の寿司屋にいた。


向かいに座っているのは、週刊誌の記者、岩崎だった。


「神谷さん。今日はありがとうございます」


「こちらこそ」


岩崎は三十代後半の男だった。細身で、眼鏡をかけている。だが、目つきは鋭い。


「最近の記事、読ませてもらいました」


神谷が言うと、岩崎は苦笑した。


「また叩かれてました?」


「ええ。『ハゲタカ』とか、『外資の手先』とか」


「気にしないんですか」


「気にしないと言えば嘘になります。でも、事実じゃないことを言われても、反論しても意味がない」


岩崎は、箸を置いた。


「神谷さん。あなたは、どうしてそんなに戦うんですか」


「日本を変えたいからです」


「本当にそれだけですか」


「それだけです」


神谷は、岩崎を見た。


「あなたは、どうして取材したいんですか。私を叩く記事を書くためですか」


岩崎は首を振った。


「違います。私は、事実を書きたい。神谷さんの主張を、きちんと読者に伝えたい」


「なぜですか」


岩崎は、醤油皿を見つめながら言った。


「正直に言います。私は、神谷さんの考えに、半分は賛成で、半分は反対です」


「半分?」


「ええ。株主の権利を重視すべきだという主張は、論理的には正しい。日本企業が変わらなければならないというのも、その通りだと思います」


「では、反対の半分は」


「やり方です」


岩崎は、神谷を見た。


「神谷さんのやり方は、敵を作りすぎる。正面から突っ込んで、相手を叩き潰そうとする。それでは、味方が増えない」


「味方を増やすために、妥協しろと」


「そうは言っていません。ただ、もう少し、戦略的になってもいいのではないかと」


神谷は、黙って寿司を口に運んだ。


岩崎は続けた。


「私は、メディアの人間です。メディアというのは、厄介な存在です。事実を伝えることもできるし、歪めることもできる。神谷さんは、今のところ、メディアを敵に回している」


「敵に回したつもりはありません。勝手に敵意を向けられているだけです」


「それは、あなたがメディアの使い方を知らないからです」


「使い方?」


「ええ。メディアは、使いようによっては、味方にもなる。神谷さんの主張を、広く世間に伝えることもできる。でも、そのためには、メディアの論理を理解する必要がある」


「メディアの論理、とは」


岩崎は、酒を一口飲んだ。


「メディアは、物語を求めています。善と悪。勝者と敗者。ヒーローと悪役。そういう分かりやすい構図を、読者は求めている」


「私を悪役にすれば、売れるということですか」


「そういうことです。今、神谷さんは『悪役』として描かれている。でも、それを逆転させることもできる」


「どうやって」


「神谷さんの物語を、別の角度から語るんです。『金の亡者』ではなく、『日本を変えようとしている男』として。『ハゲタカ』ではなく、『株主の味方』として」


神谷は、岩崎の顔を見た。


「あなたは、なぜそれをしようとするのですか。あなたにとって、何の得があるのですか」


岩崎は、少し黙った。

そして、正直に言った。


「私にとっての得は、売上です。神谷さんの記事は、読者の関心を引く。賛否両論あるほど、雑誌は売れる」


「正直ですね」


「メディアも商売ですから。きれいごとは言いません。でも、だからこそ、信用してください。私は、嘘は書きません。事実を、面白く書く。それが私の仕事です」


神谷は、考えた。


「……分かりました。取材を受けます」


「ありがとうございます」


「ただし、条件があります」


「何でしょう」


「私の言葉を、勝手に編集しないでください。言ったことは、そのまま載せてください」


岩崎は、頷いた。


「約束します」




取材は、神谷のオフィスで行われた。


誠志キャピタルは、すでに世田谷のマンションの一室から、赤坂の小さなビルに移転していた。


社員は五人。神谷を含めて、六人の小さな会社だった。


岩崎は、カメラマンと一緒にやってきた。


「神谷さん、まず経歴から聞かせてください」


「東大法学部を卒業して、通産省に入りました。十年ほど勤めた後、退職。証券会社を経て、この会社を立ち上げました」


「通産省を辞めた理由は」


「内側からは、日本を変えられないと思ったからです」


「どういう意味ですか」


神谷は、窓の外を見た。


「通産省にいた頃、私は日本の産業政策に疑問を持っていました。非効率な企業を補助金で延命させ、競争力のない産業を規制で保護する。それは、問題の先送りでしかない」


「省内で、その意見は受け入れられましたか」


「いいえ。上司に言われました。『神谷、お前の言っていることは正論だ。だが、正論では役所は動かない』と」


「それで、外に出ることを決めた」


「はい。株主として、外から企業に意見を言う。それが、私にできる唯一の方法だと思いました」


岩崎は、メモを取りながら聞いていた。


「あなたは、『ハゲタカ』と呼ばれています。それについて、どう思いますか」


「事実に基づかないレッテルです。私は、企業を食い荒らしているわけではない。企業が本来の価値を発揮できるよう、経営者に働きかけているだけです」


「しかし、あなたの活動によって、混乱した企業もあります」


「混乱ではなく、正常化です。異常な経営を正常に戻す過程で、一時的な混乱が生じることはあります。だが、それは必要な痛みです」


「必要な痛み、ですか」


「はい。変化には痛みが伴います。だが、痛みを恐れて変化を拒めば、もっと大きな痛みが待っている」


岩崎は、ペンを止めた。


「神谷さん。一つ、個人的なことを聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「あなたには、お子さんがいらっしゃると聞きました」


「三人います」


「お子さんたちは、あなたの仕事について、どう思っているのですか」


神谷は、少し黙った。


「……長男は、小学校に上がりました。先日、『父さんはハゲタカなの?』と聞かれました」


「何と答えましたか」


「父さんは、会社に意見を言う仕事をしている、と答えました」


「それで、お子さんは納得しましたか」


「分かりません。ただ、最後にこう言いました。『父さんは、悪い人じゃないよね?』と」


岩崎は、黙って聞いていた。


「私は、その言葉が忘れられません。六歳の子供に、そんなことを言わせている。それが、今の日本の現実です」


「どういう意味ですか」


「正しいことを言う人間が、悪者にされる。声を上げる人間が、叩かれる。それが、この国の空気です。私は、その空気を変えたい」


「お子さんのために?」


「はい。この子たちが大人になる頃、日本がまともな国であってほしい。正しいことを言っても、白い目で見られない国であってほしい。そのために、私は戦い続けます」




記事は、二週間後に掲載された。


「物言う株主・神谷誠一——『日本を変える』ために戦う男」


岩崎は、約束を守った。


神谷の言葉は、ほぼそのまま掲載されていた。


記事のトーンは、これまでの「ハゲタカ叩き」とは一線を画していた。


神谷を「改革者」として描き、その主張を公平に紹介していた。


反響は大きかった。


「やっと、まともな記事が出た」

「神谷氏の言っていることは、正論だ」

「日本企業は、確かに変わるべきだ」


支持の声が、少しずつ増え始めた。


一方で、批判も根強かった。


「メディアに買収されたか」

「所詮、金の亡者」

「日本を外資に売り渡す売国奴」


神谷は、それらの反応を、静かに見ていた。




ある夜。


神谷は、自宅で家族と夕食を取っていた。


健太は小学一年生。美優は四歳。翔は二歳。


「父さん、今日ね、学校で——」


健太が話し始めた。


「うん」


「先生が、『お父さんの仕事を絵に描きましょう』って言ったんだ」


「へえ、何を描いたんだ」


「えーと、父さんがパソコンの前に座ってる絵」


「そうか」


「でも、友達がね、『お前の父さん、何の仕事してるの?』って聞いてきた」


神谷の手が、一瞬止まった。


「何て答えた?」


「『会社の人と話す仕事』って言った」


「そうか」


「そしたら、友達が『何それ、よく分かんない』って」


健太は、箸を動かしながら言った。


「父さんの仕事、何て説明したらいいの?」


神谷は、考えた。


六歳の子供に、どう説明すればいいのか。


「……父さんはね、会社に『もっと良くなれ』って第lう仕事をしているんだ」


「もっと良くなれ?」


「うん。会社には、社長さんがいるだろ。社長さんが、ちゃんと仕事をしているか、チェックする仕事だ」


「先生みたいな?」


「うーん、ちょっと違うかな。でも、まあ、似てるかもしれない」


健太は、納得したような、していないような顔をした。


「父さんの仕事、大変?」


「まあ、大変だな」


「怒られたりする?」


「……怒る人もいる」


「なんで?」


「意見を言われるのが、嫌な人がいるからだ」


「ふーん」


健太は、ご飯を食べ終えた。


「父さん」


「何だ」


「俺、父さんの仕事、かっこいいと思う」


「……そうか」


「だって、ちゃんとしてない人に、ちゃんとしろって言うんでしょ? それ、正しいことじゃん」


神谷は、何も言えなかった。


美咲が、微笑みながら見ていた。




子供たちが寝た後。


神谷と美咲は、リビングで話していた。


「健太、いいこと言ったね」


「ああ」


「あの子なりに、父さんのこと、理解しようとしてるんだと思う」


「六歳の子供に、心配をかけてるな」


「仕方ないよ。あなたが選んだ道でしょ」


美咲は、コーヒーを神谷の前に置いた。


「でも、気をつけてね」


「何を」


「子供たちは、あなたのこと、見てる。あなたが何をしているか、どんな顔をしているか。全部見てる」


「分かってる」


「分かってるって言って、分かってないのがあなたでしょ」


神谷は、苦笑した。


「そうかもな」


「私は、あなたを止めない。あなたが正しいと思うことをしてるのは分かってるから。でも、たまには、子供たちの顔を見てあげて」


「努力する」


「努力する、って言って——」


「しないのが俺だろ。分かってるよ」


二人は、顔を見合わせて笑った。



10


数日後。


神谷は、ある人物からの電話を受けた。


「神谷さん、初めまして。私、帝都銀行の常務をしております、佐伯と申します」


帝都銀行。日本を代表するメガバンクの一つ。


「何のご用でしょうか」


「率直に申し上げます。神谷さんの活動について、お話を伺いたいのです」


「銀行が、なぜ私に」


「神谷さんが注目されている企業の中に、弊行の取引先がいくつかあります。今後の展開について、情報交換ができればと」


神谷は、警戒した。


銀行が、わざわざ電話をかけてくるのは、尋常ではない。


「何を知りたいのですか」


「直接お会いして、お話しした方がよろしいかと。来週、お時間をいただけませんか」


神谷は、考えた。


罠かもしれない。

だが、銀行の動向を知るチャンスでもある。


「分かりました。お会いしましょう」



11


翌週。


神谷は、帝都銀行の本店を訪れた。


丸の内の一等地に建つ、重厚なビル。


受付で名前を告げると、すぐに応接室に通された。


佐伯は、五十代の男だった。温和な顔立ち。だが、目には鋭さがあった。


「お忙しいところ、ありがとうございます」


「いえ。それで、何のお話でしょうか」


佐伯は、単刀直入に言った。


「神谷さん。あなたの次のターゲットは、東都紡績ですか」


神谷は、表情を変えなかった。


東都紡績。老舗の繊維メーカー。本業は衰退しているが、都心に膨大な不動産を抱えている。


神谷は、すでに株式の取得を始めていた。


「なぜ、そう思うのですか」


「我々にも、情報網があります。神谷さんが東都紡績の株を買い集めていることは、把握しています」


「だとして、何か問題がありますか」


「問題というか……お願いがあります」


「お願い?」


佐伯は、真剣な顔で言った。


「東都紡績を、追い詰めないでいただきたい」


「理由は」


「東都紡績は、弊行の大口取引先です。長年にわたり、融資関係を維持してきました。もし、神谷さんの活動によって経営が混乱すれば、我々も無傷ではいられません」


「つまり、銀行の都合で、株主活動を控えろと」


「そうは言っていません。ただ、穏やかに進めていただきたい。急激な変化は、誰のためにもなりません」


神谷は、佐伯の顔を見た。


「佐伯さん。あなたは、東都紡績の経営が正常だと思いますか」


「……」


「本業は赤字続き。不動産の含み益だけで会社を維持している。配当は雀の涙。株主には何の還元もない。こんな経営が、許されると思いますか」


「許される、許されないの問題ではありません。現実として、そういう会社が存在している。そして、その会社には、社員がいる。取引先がいる。地域社会がある」


「だから、このまま放置しろと」


「放置ではありません。時間をかけて、ゆっくり変えていく。それが、日本のやり方です」


神谷は、立ち上がった。


「佐伯さん。あなたの言っていることは、私がこれまで何度も聞いてきた言葉と同じです。『日本のやり方』『時間をかけて』『ゆっくり変える』。その結果が、今の日本です」


「神谷さん——」


「私は、自分のやり方で進めます。法律の範囲内で、株主としての権利を行使する。それを妨げる権利は、誰にもありません」


神谷は、ドアに向かった。


「お時間をいただき、ありがとうございました」


背後から、佐伯の声が聞こえた。


「神谷さん。一つだけ、忠告させてください」


「何でしょう」


「あなたは、強い。論理的で、信念がある。だが、強すぎる人間は、いつか折れる。気をつけてください」


神谷は、振り返らなかった。


「ご忠告、感謝します」


そのまま、部屋を出た。



12


帰りの道。


神谷は、丸の内のオフィス街を歩いていた。


村瀬の言葉。黒田の言葉。佐伯の言葉。


皆、同じことを言っている。


「急ぎすぎるな」

「日本には日本のスピードがある」

「正しいだけでは、うまくいかない」


彼らは、善意で言っているのかもしれない。


少なくとも、全員が悪人ではない。


村瀬は、雇用を守ろうとしている。

黒田は、社員とその家族を守ろうとしている。

佐伯は、取引先との関係を守ろうとしている。


彼らには、彼らの「正義」がある。


だが、その「正義」の結果、日本は沈み続けている。


誰も傷つけないように、誰も責任を取らないように、問題を先送りにし続けている。


(俺は、それを変えたい)

(たとえ嫌われても。たとえ敵を作っても)

(誰かが、最初の一歩を踏み出さなければ、何も変わらない)


神谷は、空を見上げた。


東京の空は、相変わらず灰色だった。


(この灰色を、いつか青に変えてみせる)


神谷は、歩き続けた。



【第4話 注釈】やさしい用語解説


経済産業省:

日本の産業や貿易を担当する役所。2001年に「通商産業省(通産省)」から名前が変わった。企業への補助金や規制を通じて、日本の産業をコントロールする力を持っている。


審議官:

役所の中で、かなり偉い役職。局長の下、課長の上くらいの位置。政策の方向性を決める重要な立場。


メガバンク:

とても大きな銀行のこと。日本では、三菱UFJ銀行、三井住友銀行、みずほ銀行の3つを指すことが多い。企業への融資を通じて、大きな影響力を持っている。


融資:

銀行がお金を貸すこと。企業は銀行からお金を借りて事業を行うため、銀行の意向を無視できないことが多い。


含み益:

持っている土地や株の価値が、買った時より上がっている分。まだ売っていないので、帳簿には利益として出ていないが、「隠れた財産」として存在している。

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