第3話 「ハゲタカの烙印」


1


二〇〇三年、四月。


桜が散り始めた頃、神谷誠一は東京・丸の内のホテルにいた。


経済フォーラムの会場。財界人、政治家、官僚、メディア関係者が集まる年に一度の催しだった。


神谷は、招待客の一人として出席していた。


誠志キャピタルの運用資産は、二百億円を超えていた。もはや無視できない存在になりつつあった。


会場には、見覚えのある顔がいくつもあった。


かつての上司、梶原。通産省時代の同期。証券会社時代の同僚。


彼らは、神谷を見ると、微妙な顔をした。


会釈をする者。目をそらす者。わざと避けるように歩く者。


(まあ、そうだろうな)


神谷は、グラスを片手に、会場の隅に立っていた。


「神谷さんですか」


声をかけてきたのは、若い女性だった。


名札を見ると、「日東経済新聞 経済部 小野寺真理」とあった。


「はい」


「初めまして。以前、矢島が取材させていただいたと思います」


「ああ、矢島さんの同僚ですか」


「はい。今日は、神谷さんのことを書かせていただこうと思いまして」


「何を書くつもりですか」


「新しい世代の投資家として。日本の株式市場に一石を投じている存在として」


神谷は、小野寺を見た。


二十代後半だろうか。真っ直ぐな目をしていた。


「悪く書かれるのは慣れていますが、曲げて書かれるのは困ります」


「もちろん、事実に基づいて書きます」


「では、お願いします」



2


フォーラムの休憩時間。


神谷がコーヒーを取りに行くと、背後から声がかかった。


「神谷くん、久しぶりだな」


振り返ると、初老の男が立っていた。


白髪交じりの髪。高価そうなスーツ。胸には、経団連の副会長を示すバッジ。


黒田宗一郎。


神谷は、すぐに思い出した。


通産省時代、何度か会議で顔を合わせたことがある。戦後日本の復興期から財界で活躍してきた「生ける伝説」だった。


「黒田さん。お久しぶりです」


「君のことは、新聞で読んでいるよ。随分と派手にやっているらしいな」


「派手、というほどでは」


「謙遜するな。君の名前を知らない経営者は、もういないだろう」


黒田は、コーヒーを手に取った。


「少し話をしないか。あそこのソファが空いている」



3


ホテルのロビーにある、革張りのソファ。


黒田と神谷は、向かい合って座った。


「君は、通産省の出身だったな」


「はい。十年ほど、お世話になりました」


「覚えているよ。当時から、変わった男だと思っていた。会議で、上司に平気で反論する若手がいると」


「ご迷惑をおかけしました」


「迷惑とは思わなかった。面白い男だと思っていたよ」


黒田は、コーヒーを一口飲んだ。


「だが、君のやっていることには、賛成できない」


「どういう意味でしょうか」


「君は、企業に意見を言う、と称して、経営者を追い詰めている。株主の権利を振りかざして、会社を混乱させている」


「私は、当たり前のことを言っているだけです。株主は会社の所有者です。経営者は、株主から会社を預かっている。その責任を果たすべきだ、と」


「理屈は分かる。だが、君の言う『株主』とは、誰のことだ」


黒田の目が、神谷を捉えた。


「外国のファンドか。短期で売り抜ける投機家か。彼らのために、会社を振り回せと言うのか」


「そうは言っていません。私が言っているのは、経営者が本来の仕事をすべきだ、ということです。株主の金を預かっているなら、その金を有効に使う義務がある。使わないなら、返すべきだ」


「返す、とは」


「配当です。自社株買いです。株主に還元すべきだ」


黒田は、首を振った。


「神谷くん。君は頭がいい。論理的だ。だが、論理だけでは会社は動かない」


「どういう意味ですか」


「会社には、社員がいる。取引先がいる。地域社会がある。彼らの生活が、会社にかかっている」


黒田は、テーブルに身を乗り出した。


「君の言う『効率化』を急激にやれば、何が起こるか分かるか。工場が閉鎖される。下請けが潰れる。地方の町が死ぬ。何百人、何千人という人間が、路頭に迷う」


「非効率な企業を延命させても、問題の先送りです」


「先送りでいいんだ」


黒田の声が、少し強くなった。


「先送りしている間に、人々は備えができる。子供は育つ。新しい仕事を見つける時間ができる。急激な変化は、弱者を切り捨てることになる。日本には日本のスピードがある」


神谷は、黙って聞いていた。


「君には、子供がいるそうだな」


「はい。三人います」


「なら分かるだろう。会社にも『家族』がいる。社員とその家族だ。一つの会社には、何万人もの人生がかかっている。君の『正論』は、その人生を壊すかもしれない」


神谷は、しばらく考えてから答えた。


「黒田さん。あなたの言っていることは、分かります。会社には社員がいる。その家族がいる。地域社会がある。それを軽視するつもりはありません」


「ならば——」


「しかし」


神谷は、黒田の目を見た。


「その『日本のスピード』で、どれだけの時間が失われましたか。バブルが崩壊して、もう十年以上が経っています。その間、日本企業は何をしてきましたか。変化を拒み、問題を先送りし、ゾンビのように生き延びてきた。その結果、日本は世界から取り残されつつある」


「それは——」


「アメリカでは、マイクロソフトが世界を変え、グーグルが生まれ、新しい産業が次々と立ち上がっています。日本には、その勢いがない。なぜですか。変化を拒んでいるからです。失敗を恐れているからです。『日本のスピード』という言葉で、現状維持を正当化しているからです」


黒田は、何も言わなかった。


「私の子供たちが大人になる頃、日本はどうなっていますか。このままでは、優秀な人間は皆、海外に出ていく。まともな仕事を求めて。希望を求めて。私は、そうなってほしくない」


「……」


「だから、私は声を上げ続けます。たとえ嫌われても。たとえ『ハゲタカ』と呼ばれても。誰かが始めなければ、何も変わらない」


黒田は、しばらく神谷を見つめていた。


そして、ゆっくりと言った。


「君は、純粋だな」


「純粋、ですか」


「ああ。純粋で、真っ直ぐで、そして危うい」


黒田は、立ち上がった。


「私は、君の敵に回るかもしれない。だが、一つだけ言っておく」


「何でしょうか」


「正しいだけでは、人は動かない。正しさは、時として暴力になる。気をつけなさい」


黒田は、そのまま歩き去った。



4


夜。


神谷は、世田谷の自宅に帰った。


玄関を開けると、リビングから子供たちの声が聞こえた。


「父さん、おかえり!」


健太が駆け寄ってきた。五歳になっていた。


「ただいま」


「今日、幼稚園でね、絵を描いたんだよ。見て」


健太は、画用紙を差し出した。


クレヨンで描かれた絵。家族の絵だった。


父、母、健太、美優、翔。


五人が手をつないで、笑っている。


「上手だな」


「でしょ? 先生にも褒められたんだ」


神谷は、健太の頭を撫でた。


美咲がキッチンから顔を出した。


「おかえり。遅かったね」


「ああ、フォーラムが長引いた」


「ご飯、温める?」


「頼む」


神谷は、リビングのソファに座った。


美優が寄ってきた。三歳。まだ言葉がたどたどしい。


「ちちー、だっこ」


「はいはい」


神谷は、美優を膝に乗せた。


翔はまだ一歳。美咲に抱かれて、眠そうな顔をしていた。


(この子たちのために、俺は働いている)


神谷は、改めてそう思った。


だが、黒田の言葉が、頭から離れなかった。


「正しいだけでは、人は動かない。正しさは、時として暴力になる」


俺のやっていることは、正しいのだろうか。


いや、正しいはずだ。


株主は会社の所有者だ。経営者は、その責任を果たすべきだ。それは、論理的に正しい。


だが、論理的に正しいことと、人々を納得させることは、別なのかもしれない。


「ねえ」


美咲の声で、神谷は我に返った。


「何かあった? 難しい顔してる」


「いや……ちょっと、考え事を」


「仕事のこと?」


「まあ、そんなところだ」


美咲は、神谷の隣に座った。翔を抱いたまま。


「最近、あなたのこと、新聞に載ってるね」


「ああ」


「『ハゲタカ』って書かれてるの、見たよ」


神谷は、苦笑した。


「そういう見方をする人もいる」


「悔しくないの?」


「……悔しくないと言えば、嘘になる。でも、仕方がない。俺のやっていることは、今の日本では受け入れられにくい」


「なのに、続けるの?」


「ああ」


「なぜ?」


神谷は、健太の描いた絵を見た。


「この子たちのためだ。この子たちが大人になる頃、日本がまともな国であってほしい。そのために、俺は声を上げ続ける」


美咲は、何も言わなかった。


ただ、神谷の手を握った。



5


翌週。


日東経済新聞に、神谷の記事が掲載された。


「物言う株主・神谷誠一——『日本企業は変わらなければならない』」


記事は、比較的好意的なトーンで書かれていた。


神谷の経歴。投資哲学。日本企業への問題提起。


小野寺記者は、約束通り、事実に基づいて書いてくれた。


だが、記事への反応は、二極化した。


一部の読者は、神谷を支持した。


「こういう人が必要だ」


「日本企業は、確かに変わるべきだ」


「株主軽視の経営は、もう通用しない」


だが、批判の声も大きかった。


「外資の手先」


「日本を売り渡す売国奴」


「金の亡者」


「ハゲタカ」


インターネットの掲示板には、神谷への誹謗中傷が溢れた。


神谷は、それらを黙って見ていた。



6


ある夜。


神谷が帰宅すると、健太が暗い顔で座っていた。


「どうした、健太」


「……」


「何かあったのか?」


健太は、しばらく黙っていた。


そして、小さな声で言った。


「父さん、『ハゲタカ』って何?」


神谷の心臓が、跳ねた。


「どこで聞いた」


「幼稚園で。友達が言ってた。『お前の父ちゃん、ハゲタカだろ。テレビで見た』って」


神谷は、健太の隣に座った。


「それで、どうした」


「分からなかったから、『ハゲタカって何?』って聞いたら、『死んだ動物を食べる鳥だ』って言われた」


健太は、神谷を見上げた。


「父さんは、死んだ動物を食べてるの?」


神谷は、何と答えていいか分からなかった。


「……違う。父さんは、そういうことはしていない」


「じゃあ、なんでハゲタカって言われるの?」


「それは……」


言葉が、出てこなかった。


五歳の子供に、どう説明すればいいのか。


「父さんは、会社に意見を言う仕事をしているんだ」


「意見?」


「うん。『もっと良くなれ』って言う仕事だ」


「それで、怒られるの?」


「……まあ、怒る人もいる。意見を言われるのが嫌な人もいるからな」


「なんで?」


「なんでだろうな……」


神谷は、自分でも分からなくなっていた。


「父さん」


「何だ」


「父さんは、悪い人じゃないよね?」


その言葉が、胸に刺さった。


「……ああ。父さんは、悪いことはしていない。少なくとも、そのつもりだ」


「じゃあ、なんで悪く言われるの?」


神谷は、答えられなかった。


美咲がリビングに来た。


「健太、そろそろお風呂の時間よ」


「……うん」


健太は、立ち上がった。


だが、風呂場に向かう途中で、振り返った。


「父さん。俺、父さんのこと、信じてるから」


その言葉を残して、健太は風呂場に消えた。



7


子供たちが寝た後。


神谷と美咲は、リビングで向かい合っていた。


「聞いたよ。健太が幼稚園で言われたこと」


「……ああ」


「かわいそうだった。何も悪いことしてないのに」


「俺のせいだ」


「そうは言ってない」


美咲は、神谷の顔を見た。


「でも、これからもっとひどくなるんでしょ?」


「……多分、な」


「あなたが有名になればなるほど、子供たちも巻き込まれる」


「分かってる」


「分かってて、続けるの?」


神谷は、黙っていた。


美咲は、ため息をついた。


「私は、あなたを止めない。あなたが正しいと思うことをしてるのは分かってるから。でも、子供たちのことも考えて」


「考えてる」


「本当に?」


美咲の目が、神谷を見据えた。


「あなたは『子供たちの未来のため』って言うけど、今の子供たちのことは見えてる?」


「……」


「健太は、父さんのことを信じてるって言った。でも、それって、すごく重い言葉だよ。五歳の子供が、父親を信じてるって、わざわざ言わなきゃいけない状況って、おかしくない?」


神谷は、何も言えなかった。


「私は、あなたを責めてるんじゃない。ただ、心配してるの。あなたも、子供たちも」


美咲は、立ち上がった。


「私、先に寝るね。明日も早いから」


「ああ……おやすみ」


美咲が去った後、神谷は一人、リビングに残った。


健太の描いた絵が、壁に貼ってあった。


五人の家族が、手をつないで笑っている絵。


(俺は、何のために戦っているんだ)


(子供たちの未来のためだ)


(だが、今の子供たちは、どうなんだ)


答えは、出なかった。



8


数日後。


神谷は、ある経済誌の取材を受けた。


「週刊経済フォーラム」。財界寄りの論調で知られる雑誌だった。


取材に来たのは、ベテラン記者だった。五十代。名前は、藤本。


「神谷さん。あなたの活動について、賛否両論がありますね」


「承知しています」


「あなたは、ご自身を『改革者』だと思っていますか」


「レッテルには興味がありません。私は、当たり前のことを言っているだけです」


「当たり前のこと、とは」


「株主は会社の所有者である。経営者は、株主の代理人として、会社を経営する責任がある。その責任を果たしていないなら、声を上げるのは当然だ」


「しかし、日本では『会社はみんなのもの』という考え方が根強い」


「それは建前です。実際には、会社は経営者のものになっている。『みんなのため』という言葉で、経営者が自分の地位を守っている」


藤本は、メモを取った。


「厳しいお言葉ですね」


「事実を言っているだけです」


「では、あなたの『正義』が、企業を混乱させているという批判についてはどうお考えですか」


「混乱ではなく、正常化です。異常な状態を正常に戻そうとしているだけです」


「異常な状態、とは」


「経営者が責任を取らない。株主が軽視される。問題があっても、誰も声を上げない。それが異常です」


藤本は、ペンを置いた。


「神谷さん。オフレコでお聞きしていいですか」


「どうぞ」


「あなたには、敵が多い。財界の重鎮たち、官僚たち、政治家たち。彼らは、あなたを潰そうとしています」


「知っています」


「怖くないのですか」


神谷は、少し考えた。


「怖くないと言えば、嘘になります。でも、怖がっていても仕方がない。誰かが始めなければ、何も変わらない」


「なぜ、そこまでするのですか。あなたほどの頭脳があれば、もっと楽に稼げる方法があるでしょう」


「金のためにやっているわけではありません」


「では、何のために」


「子供たちのためです」


「子供?」


「私には、三人の子供がいます。彼らが大人になる頃、日本がまともな国であってほしい。そのために、私は声を上げ続けます」


藤本は、何も言わなかった。


しばらくして、立ち上がった。


「神谷さん。一つだけ、忠告させてください」


「何でしょう」


「あなたは、正しいのかもしれない。でも、この国では、正しいだけでは生き残れない。気をつけてください」


藤本は、そのまま去っていった。



9


記事は、翌週発売の「週刊経済フォーラム」に掲載された。


タイトルは——


「『ハゲタカ』神谷誠一の正体——日本企業を食い荒らす男」


神谷は、その見出しを見て、苦笑した。


予想通りだった。


記事の内容は、神谷の発言を歪曲し、批判的な論調で書かれていた。


「傲慢な元官僚」


「株主の名を借りた企業恐喝」


「日本的経営の破壊者」


インタビューで語ったことの半分は、都合よくカットされていた。


代わりに、「金の亡者」「企業の敵」というイメージが強調されていた。


美咲が、その雑誌を見て言った。


「ひどいね、これ」


「まあ、予想通りだ」


「悔しくないの?」


「悔しいさ。でも、仕方がない。これが、今の日本のメディアだ」


「反論しないの?」


「しても無駄だ。彼らは、最初から結論を決めて書いている。反論しても、また歪曲されるだけだ」


神谷は、雑誌を閉じた。


「俺は、俺のやるべきことをやる。それだけだ」



10


その夜。


神谷は、書斎で一人、考えていた。


黒田の言葉。


「正しいだけでは、人は動かない。正しさは、時として暴力になる」


藤本の言葉。


「この国では、正しいだけでは生き残れない」


そして、健太の言葉。


「父さんは、悪い人じゃないよね?」


俺は、何をしているのだろう。


正しいことをしているつもりだった。


株主の権利を守る。経営者に責任を取らせる。日本企業を変える。


それは、論理的に正しい。


だが、その「正しさ」のために、子供が傷ついている。


家族が巻き込まれている。


これでいいのだろうか。


神谷は、窓の外を見た。


夜空には、星が見えなかった。


東京の空は、いつも曇っている。


(俺は、この灰色の空を変えたかった)


(だが、変えるために、何かを犠牲にしていないか)


答えは、まだ見つからなかった。


だが、神谷は知っていた。


ここで止まるわけにはいかない。


止まれば、何も変わらない。


(俺が憎まれても構わない。この国を変えるためなら、泥をかぶる覚悟はある)


神谷は、パソコンに向かった。


次のターゲットを探すために。



――――――――――――――――――


〖第3話 注釈〗やさしい用語解説


・経団連:

 日本経済団体連合会の略。日本の大企業の社長たちが集まる団体で、経済界の「代表」のような存在。政治家や官僚とも深いつながりがある。


・ゾンビ企業:

 本来なら経営破綻するはずなのに、銀行の支援や政府の補助金で生き延びている企業のこと。非効率な企業が市場に残り続けることで、新しい企業の成長が妨げられるとも言われる。


・オフレコ:

 「記録しない」という意味。取材で、「この話は記事にしないでください」という約束のもとで話すこと。ただし、必ずしも守られるとは限らない。


・企業恐喝:

 会社を脅して金を巻き上げること。神谷のような「物言う株主」は、正当な株主活動をしているだけだが、敵対する側からはこのように批判されることがあった。

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