第2話 「小さな城」

1


一九九八年、二月。


神谷誠一の長男・健太が生まれた。


三千二百グラム。母子ともに健康。


分娩室から出てきた美咲は、疲れ切った顔で笑っていた。


「見て。あなたに似てる」


神谷は、小さな命を抱いた。


赤ん坊は、目を閉じたまま、かすかに唇を動かしていた。


「……小さいな」


「当たり前でしょ、生まれたばかりなんだから」


神谷は、健太の顔をじっと見つめた。


この子が大人になる頃、日本はどうなっているのだろう。


バブルが崩壊して八年。銀行は不良債権を抱え、企業は「リストラ」の名のもとに社員を切り捨て、若者は就職難にあえいでいる。


(この子に、どんな国を残してやれるのか)


「ねえ」


美咲の声で、神谷は我に返った。


「何、難しい顔してるの。生まれたばかりなんだから、もっと喜んでよ」


「……ああ、そうだな。すまない」


神谷は、ぎこちなく笑った。


「でも、あなたらしいね」


「何が」


「生まれたばかりの子供を抱きながら、日本の将来のこと考えてたでしょ」


神谷は、何も言えなかった。


美咲は、笑いながら目を閉じた。


「まあいいけど。その心配性なところ、嫌いじゃないから」


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### 2


神谷がファンドを立ち上げたのは、健太が生まれてから三ヶ月後のことだった。


名前は「誠志(せいし)キャピタル」。


資本金は三千万円。自己資金と、知人からの出資をかき集めた。


オフィスは、狛江のアパートの一室。ダイニングテーブルがデスク代わり。パソコンは一台。電話は一本。


「これが会社?」


美咲が、呆れた顔で言った。


「最初はこれでいい。実績を出せば、金は集まる」


「楽観的ね」


「楽観的じゃない。計算だ」


神谷は、パソコンの画面を見ながら言った。


「日本の企業は、価値を正しく評価されていない。株価が低すぎる会社がたくさんある。経営者が無能なせいで、本来の価値を発揮できていない会社が」


「だから、その会社の株を買うの?」


「そうだ。株を買って、経営者に意見を言う。ちゃんと仕事をしろ、と」


「それで、うまくいくの?」


「分からない。でも、やらなきゃ分からない」


美咲は、健太を抱きながら、神谷の背中を見た。


「ねえ」


「何だ」


「あなた、昔から変わらないね」


「何が」


「自分が正しいと思ったことは、絶対に曲げないところ」


神谷は、振り返らなかった。


「それしか取り柄がないからな」


---


### 3


夜。


健太を寝かしつけた後、神谷は居間で資料を読んでいた。


企業の財務諸表。有価証券報告書。業界レポート。


美咲がコーヒーを持ってきた。


「まだやってるの」


「ああ」


「少し休んだら? 体壊すよ」


「大丈夫だ」


美咲は、神谷の隣に座った。


「ねえ、聞いてもいい?」


「何だ」


「あなた、なんで証券会社に転職したの?」


神谷は、手を止めた。


「前にも話しただろう」


「ちゃんとは聞いてない。官僚辞めて証券会社って、普通じゃないでしょ」


神谷は、しばらく黙っていた。


そして、ゆっくりと話し始めた。


「俺は、東大を出て、通産省に入った」


「うん、それは知ってる」


「十年、働いた。産業政策局、通商政策局、いろんな部署を回った」


「エリートコースってやつ?」


「そうかもしれない。でも、俺が見たのは、腐った現実だった」


神谷は、コーヒーを一口飲んだ。


「通産省は、日本の産業を育てる役所だ。だが、実際にやっていたのは、ダメな企業を延命させることだった」


「延命?」


「競争力のない企業に補助金を出し、規制で守り、潰れそうになったら税金で救済する。そうやって、ゾンビみたいな企業を生かし続けていた」


「それで?」


「俺は、変えようとした。省内で、『このままじゃダメだ』と言い続けた。非効率な企業は退場させ、新しい企業が生まれる環境を作るべきだ、と」


「聞いてもらえたの?」


神谷は、苦笑した。


「聞いてもらえるわけがない。俺の上司は言った。『神谷、正論だ。だが、正論では省庁は動かない。政治家が怒る。業界団体が怒る。お前の言っていることは正しいが、誰も得をしない』」


美咲は、黙って聞いていた。


「それで、俺は悟った。内側からは変えられない。だったら、外から変えるしかない」


「それで、証券会社に?」


「ああ。株主として、外から経営者に意見を言う。それが、俺にできる唯一の方法だと思った」


「でも、証券会社も辞めちゃったじゃない」


「あそこも同じだった。結局、日本の会社はどこも同じだ。変化を拒み、責任を回避し、嘘をついて生き延びようとする」


神谷は、資料に目を戻した。


「だから、自分でやることにした。誰にも邪魔されずに、俺の信じるやり方で」


美咲は、神谷の横顔を見つめた。


「……すごいね、あなた」


「何が」


「普通、そこまで考えないよ。仕事して、給料もらって、それで満足するのが普通でしょ」


「俺は普通じゃないからな」


「うん、知ってる」


美咲は、立ち上がった。


「でも、たまには健太のことも見てあげてね。あなたの子供なんだから」


「分かってる」


「分かってるって言って、分かってないのがあなたでしょ」


神谷は、何も言えなかった。


---


### 4


一九九九年。


誠志キャピタルの運用資産は、十億円に達した。


神谷の投資手法は、シンプルだった。


割安に放置されている企業を見つける。株を買う。株主総会に出席し、経営陣に質問する。


「なぜ、これだけの現金を抱えているのに、配当を増やさないのですか」


「なぜ、不採算事業を続けているのですか」


「なぜ、株主に情報を開示しないのですか」


当たり前の質問だった。


だが、日本の株主総会で、そんな質問をする人間はほとんどいなかった。


株主総会は、シャンシャンと終わるのが「常識」だった。経営陣が用意した議案に、株主は黙って賛成する。質問があっても、当たり障りのないものばかり。


神谷は、その「常識」を壊した。


最初のターゲットは、地方の中堅機械メーカーだった。


「大東機械工業」。時価総額八十億円。だが、保有する不動産と現金を合わせると、百五十億円以上の価値があった。


株主総会で、神谷は質問に立った。


「御社の保有現金は、総資産の四十パーセントを超えています。この資金の使途を教えてください」


経営陣は、狼狽した。


「長期的な設備投資のために……」


「具体的な投資計画はありますか」


「現在、検討中です」


「検討中とは、いつから検討しているのですか。御社のキャッシュポジションは、十年前から同じ水準です」


会場がざわめいた。


他の株主たちが、神谷を見ていた。


こんな質問をする人間を、初めて見たという顔で。


---


### 5


株主総会の翌日。


神谷のもとに、一本の電話がかかってきた。


「誠志キャピタルの神谷さんですか」


「はい」


「私、日東経済新聞の記者をしております。矢島と申します」


「何のご用ですか」


「昨日の大東機械の株主総会、取材させていただいていました。神谷さんの質問、大変興味深く拝見しました」


「それはどうも」


「もしよろしければ、インタビューをさせていただけませんか。新しいタイプの投資家として」


神谷は、少し考えた。


「何を聞きたいんですか」


「神谷さんの投資哲学、日本の企業に対するお考え、そういったことを」


「……分かりました。ただし、曲げて書かれるのは困ります」


「もちろんです」


---


### 6


インタビューは、狛江のアパートで行われた。


矢島は、三十代半ばの男だった。眼鏡をかけ、ノートを手に、熱心にメモを取った。


「神谷さんは、なぜこのような投資スタイルを選んだのですか」


「日本の企業は、株主を軽視しています。経営者は、自分たちの地位を守ることしか考えていない。本来、会社は株主のものです。経営者は、株主から会社を預かっているだけだ。その当たり前のことを、日本の経営者は忘れている」


「しかし、日本では『会社は社員のもの』という考え方が根強いですね」


「それは建前です。実際には、『会社は経営者のもの』になっている。社員のため、と言いながら、経営者が自分の地位を守るための口実に使われている」


「厳しいお言葉ですね」


「事実を言っているだけです」


矢島は、ペンを止めた。


「神谷さん、一つ聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「あなたは、元官僚だと聞きました。通産省のご出身だと」


神谷の目が、わずかに動いた。


「どこで聞いたんですか」


「取材先で。『神谷という男は、通産省のエリートだったらしい』と」


「……ああ、そうです。十年ほど、通産省にいました」


「なぜ辞めたのですか」


神谷は、しばらく黙っていた。


「内側からは、変えられなかったからです」


「変える? 何をですか」


「日本の産業構造を。非効率な企業を延命させる政策を。官僚は、自分たちの権限を守ることしか考えていない。本当に日本の産業を強くしたいなら、ダメな企業は退場させ、新しい企業に道を譲るべきだ。でも、そんなことを言っても、誰も聞かなかった」


「それで、外から変えようと」


「そうです。株主として、外から経営者にプレッシャーをかける。それが、俺にできる唯一の方法だと思った」


矢島は、メモを取りながら言った。


「神谷さん。あなたは、日本の経済界から見れば、異端者です。敵も多くなるでしょう」


「分かっています」


「それでも、続けるのですか」


「ええ」


「なぜですか」


神谷は、窓の外を見た。


隣の部屋から、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。健太だ。


「……子供がいるんです。去年、生まれました」


「おめでとうございます」


「ありがとう。その子が大人になる頃、日本がまともな国であってほしい。嘘をつかなくても生きていける国であってほしい。そのために、俺は俺にできることをやります」


矢島は、ペンを置いた。


「神谷さん。あなたの言っていることは、正論です。でも、正論が通る国じゃないですよ、日本は」


「知っています」


「知っていて、やるんですか」


「ええ。誰かが始めなければ、何も変わらないでしょう」


---


### 7


インタビュー記事は、日東経済新聞の週末版に掲載された。


「新世代の投資家、神谷誠一——『会社は株主のもの』を貫く元官僚」


反響は、神谷の予想を超えていた。


電話が鳴り止まなかった。


「記事を読みました。ぜひ、お話を聞かせてください」


「うちの会社への投資を検討していただけませんか」


「あなたの考え方に共感しました。資金を預けたいのですが」


美咲は、鳴り続ける電話を見ながら言った。


「すごいね。有名人になっちゃったじゃない」


「まだまだだ。これからだよ」


「でも、敵も増えるんでしょ?」


「ああ、増えるだろうな」


「怖くないの?」


神谷は、少し考えた。


「怖くないと言えば嘘になる。でも、怖がっていても仕方がない。やるしかないんだ」


---


### 8


二〇〇〇年。


神谷誠一の長女・美優が生まれた。


二〇〇二年。


次男・翔が生まれた。


三人の子供。狛江のアパートは手狭になり、神谷一家は世田谷の一軒家に引っ越した。


誠志キャピタルの運用資産は、五十億円を超えた。


神谷の名前は、少しずつ、経済界に知られるようになっていた。


「物言う株主」


「日本のアクティビスト」


「企業の敵」


呼び方は様々だった。


だが、神谷は気にしなかった。


毎朝、子供たちを保育園に送り、夜はできるだけ早く帰って、一緒に風呂に入る。


「父さん、今日は何したの?」


健太が、風呂の中で聞く。


「仕事だよ」


「どんな仕事?」


「会社の人たちと、お話をする仕事だ」


「楽しい?」


「……うん、楽しいよ」


嘘だった。


楽しいわけがない。株主総会で経営者と対峙し、メディアに叩かれ、業界から白い目で見られる。


だが、神谷は嘘をついた。


子供に、父親の仕事は楽しいものだと思わせたかった。


---


### 9


ある夜。


神谷は、書斎で資料を読んでいた。


美咲がコーヒーを持ってきた。


「ねえ、聞いてもいい?」


「何だ」


「あなた、最近、帰りが遅いね」


「仕事が忙しいんだ」


「それは分かってる。でも、子供たち、待ってるよ」


神谷は、手を止めた。


「分かってる」


「分かってるって言って、分かってないでしょ」


「……すまない」


美咲は、神谷の隣に座った。


「ねえ、あなたは何のために働いてるの?」


「子供たちの未来のためだ」


「それは分かってる。でも、今の子供たちは? 今のあなたを、見てるんだよ」


神谷は、何も言えなかった。


「私ね、あなたが正しいことをしようとしてるのは分かってる。日本を変えたいって思ってるのも分かってる。でも、たまには、目の前の子供たちのことも見てほしいの」


「……努力する」


「努力する、って言って、しないのがあなたでしょ」


神谷は、苦笑した。


「バレてるな」


「当たり前でしょ。何年一緒にいると思ってるの」


美咲は、立ち上がった。


「明日は、健太の保育園の運動会だからね。忘れないでよ」


「分かった」


「本当に?」


「本当に」


神谷は、資料を閉じた。


「……明日は、必ず行く」


---


### 10


翌日。


神谷は、保育園の運動会に参加した。


園庭は、親子連れでいっぱいだった。


健太が、かけっこに出場する。


「父さん、見ててね」


「ああ、見てるよ」


スタートの合図。


健太は、一生懸命走った。結果は三位。


悔しそうな顔で戻ってきた健太に、神谷は言った。


「よく頑張ったな」


「でも、三位だよ」


「三位でもいいんだ。最後まで走りきったことが、偉い」


健太の顔が、少し明るくなった。


「父さん」


「何だ」


「また来てね」


「ああ、また来るよ」


神谷は、健太の頭を撫でた。


(この子のために、俺は働いている)


(この子が大人になる頃、日本がまともな国であるように)


それは、神谷の原動力だった。


だが、同時に、神谷は気づいていなかった。


「この子のため」という言葉が、いつしか「今のこの子」ではなく、「未来のこの子」にばかり向けられていることに。


---


# 〖第2話 注釈〗やさしい用語解説


**通商産業省(通産省)**:

日本の産業や貿易を担当する役所。2001年に「経済産業省」に改名された。エリート官僚が集まる省庁として知られ、「官庁の中の官庁」とも呼ばれた。


**運用資産**:

ファンドが投資家から預かっているお金の合計。この金額が大きいほど、ファンドの影響力も大きくなる。


**株主総会**:

年に一度、会社の持ち主(株主)が集まって、会社の方針を決める会議。日本では、経営陣の提案にそのまま賛成することが多く、「シャンシャン総会」と呼ばれていた。


**アクティビスト**:

会社の株を買って、経営陣に積極的に意見を言う投資家。「物言う株主」とも呼ばれる。日本では長く「ハゲタカ」と批判されることが多かった。


**ゾンビ企業**:

本来は潰れるべきなのに、銀行の支援や政府の補助金で生き延びている非効率な企業のこと。


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