鋼の叛逆者(はがねのはんぎゃくしゃ)

sora_op

第1話「灰色の王国」

― 父はなぜ、日本中を敵に回したのか




**本作はフィクションです。**


登場人物・企業・団体は架空のものであり、実在の人物・組織とは一切関係ありません。

1990年代〜2000年代の日本経済を背景にしていますが、物語の展開は著者の創作です。


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# 第1話「灰色の王国」


## 1


一九九七年、十一月。


東京の空は、灰色だった。


神谷誠一は、大手証券会社・東洋證券の本社ビルを見上げた。二十八歳。入社六年目。このビルに出入りすることにも、もう慣れた。


だが今日は、いつもと空気が違った。


受付の女性たちの表情が硬い。エレベーターホールで待つ社員たちが、誰も目を合わせようとしない。


昨夜のニュースを、神谷も見ていた。


高山證券、自主廃業へ。


創業百年を超える名門証券会社が、消える。社員は七千人。その全員が、職を失う。


テレビ画面の中で、社長が泣いていた。「社員は悪くありませんから」と、声を震わせていた。


神谷は、その涙を見ながら思った。


(泣いている場合か)


社員が悪くないなら、誰が悪いのか。この会社を経営してきた人間ではないのか。何千億円もの損失を隠し、「飛ばし」と呼ばれる粉飾で株主を欺いてきた人間ではないのか。


エレベーターが開いた。神谷は無言で乗り込んだ。


---


## 2


三十二階、企画部のフロア。


神谷のデスクは、窓際から三列目にあった。


パソコンの電源を入れる。メールを確認する。いつもの朝のルーティン。だが、フロア全体を覆う沈黙が、いつもと違うことを告げていた。


「神谷」


声をかけてきたのは、同期の村井だった。企画部では一番の出世頭で、すでに課長補佐のポストについている。


「午後一時から、会議室Aで臨時ミーティングだ。部長から直接指示があった」


「議題は?」


「分からん。だが、高山の件だろう。うちも無関係じゃないからな」


村井は声を落とした。


「神谷、あまり余計なことは言うなよ。今はみんな神経質になってる」


神谷は何も答えなかった。


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## 3


午後一時。会議室A。


長いテーブルを囲んで、企画部の幹部たちが座っていた。部長の梶原、副部長の田所、課長の三田村。そして、法務部から来た顧問弁護士の姿もあった。


神谷は末席に座った。若手は神谷を含めて三人だけ。あとは全員、四十代以上の管理職だった。


部長の梶原が、咳払いをした。


「高山の件は、皆も知っての通りだ。我々にとっても、対岸の火事ではない」


梶原は五十代半ば。銀縁眼鏡の奥の目は、いつも表情を読ませない。東大法学部卒、旧大蔵省出身。この会社では「殿上人」と呼ばれる存在だった。


「本日は、我が社のリスク管理について、改めて確認したい。田所君」


副部長の田所が立ち上がり、ホワイトボードに向かった。


「現在、弊社には複数の子会社・関連会社があります。そのうち、いくつかの投資案件において、含み損が発生しています」


田所は数字を書き並べた。神谷は、その数字を見て息を呑んだ。


三百億円。


「この含み損は、連結決算には反映されていません。理由は、関連会社との取引形態にあります」


田所の説明は、淡々としていた。要するに「飛ばし」だった。損失を本体の帳簿から切り離し、子会社や関連会社に移し替える。決算上は損失が「消える」。違法すれすれのグレーゾーン。


高山證券が、同じ手法で破綻した。


「この処理は、法的に問題があるのでしょうか」


若手の一人が質問した。神谷ではない。隣に座っていた岡田という男だった。


顧問弁護士が答えた。


「現行法の範囲内では、直ちに違法とは言えません。ただし、今後の法改正や、当局の判断次第では、リスクが生じる可能性はあります」


梶原部長が頷いた。


「つまり、今のところは問題ない、ということだ。我々は引き続き、この方針で進める」


会議室に、沈黙が落ちた。


神谷は、自分の心臓が鳴っているのを感じた。


---


## 4


「質問があります」


神谷は、自分でも驚くほど静かな声で言った。


全員の視線が、神谷に集まった。


「これは、株主への背任にはならないのでしょうか」


空気が凍った。


梶原部長の目が、神谷を捉えた。


「神谷くん、だったかな」


「はい」


「君は、入社何年目だ」


「六年目です」


「六年目、か」


梶原は眼鏡を外し、ゆっくりと拭いた。その仕草には、苛立ちを押し殺しているような緊張があった。


「君の質問に答えよう。これは背任ではない。なぜなら、我々は会社を守っているからだ」


「しかし、株主には損失が開示されていません。株主は、会社の本当の状態を知らないまま、株を持ち続けています」


「株主は、我々を信頼して金を預けている。その信頼に応えるために、我々は会社を安定させる義務がある」


「安定と、欺瞞は違います」


会議室の温度が、さらに下がった。


「神谷くん」


梶原の声は、静かだった。だが、その静けさには、剃刀のような鋭さがあった。


「君は優秀だと聞いている。だが、優秀さと、現実を知っていることは、別だ」


梶原は眼鏡をかけ直した。


「この国では、会社は株主のものではない。社員のものであり、取引先のものであり、社会のものだ。君が言う『株主』とは、誰のことだ? 外国のハゲタカファンドか? デイトレーダーか? 彼らのために、我々は社員を路頭に迷わせるべきだと言うのか」


神谷は答えなかった。


答えられなかったのではない。答えが、言葉にならなかったのだ。


「法律と、現実は違う。君もそのうち分かる」


梶原は立ち上がった。


「本日の会議は以上だ。神谷くん、あとで私の部屋に来なさい」


---


## 5


部長室。


梶原は、窓際に立っていた。窓の外には、東京のビル群が広がっている。


「神谷くん、座りなさい」


神谷は、革張りのソファに腰を下ろした。


梶原は振り返らないまま、語り始めた。


「君は、高山の破綻をどう見ている」


「経営の失敗だと思います」


「それだけか」


「……それだけではありません」


「続けなさい」


神谷は、言葉を選んだ。


「高山は、嘘をつき続けました。損失を隠し、株主を欺き、社員にも本当のことを言わなかった。その嘘が、限界に達したのだと思います」


「なるほど」


梶原は、ようやく振り返った。


「君は、我が社も同じ道を辿ると思うか」


「……分かりません」


「正直だな」


梶原は、デスクに歩み寄り、椅子に座った。


「神谷くん、私は君を買っている。君の分析力、論理的思考、そして度胸。この会社には珍しい人材だ」


「ありがとうございます」


「だが、君には決定的に欠けているものがある」


「何でしょうか」


「分別だ」


梶原の目が、神谷を射抜いた。


「この国では、正しいことを言う人間は出世できない。分かるね?」


神谷は黙っていた。


「君が会議で言ったことは、論理的には正しい。だが、論理だけでは組織は動かない。人は、正しさよりも、安心を求める生き物だ」


梶原は、デスクの上の書類に目を落とした。


「君には二つの道がある。一つは、今日のことを忘れ、優秀な社員として出世の階段を登ること。もう一つは——」


「辞めろ、ということですか」


梶原は顔を上げた。その目には、何かしらの感情があった。憐れみか、それとも——


「私は何も言っていない。君が選ぶことだ」


---


## 6


神谷は、部長室を出た。


廊下を歩きながら、考えていた。


梶原の言葉は、正しいのかもしれない。この国では、正しいことを言う人間は出世できない。それは、神谷も分かっていた。


だが、だからどうした、と思う自分もいた。


(俺は、嘘をつき続けるために、この会社に入ったのか?)


エレベーターホールで、村井とすれ違った。


「神谷、大丈夫か? 部長室に呼ばれたって聞いたけど」


「大丈夫だ」


「何を言ったんだ、会議で」


「当たり前のことを聞いただけだ」


村井は、苦笑した。


「お前な……当たり前のことを聞くのが、一番危険なんだよ、この会社では」


「知ってる」


「知っててやったのか」


神谷は答えなかった。


村井は、神谷の肩を叩いた。


「まあ、お前らしいよ。でも、気をつけろよ。今は、みんな疑心暗鬼になってる。高山の次は、うちかもしれないって」


「そうかもな」


神谷は、エレベーターに乗り込んだ。


---


## 7


午後八時。


神谷は、新宿の居酒屋にいた。


カウンター席で、一人で焼酎を飲んでいた。安い店だ。サラリーマンが多い。隣の席では、中年の男たちが、高山の話をしていた。


「高山、潰れたんだってな」


「七千人だろ? 全員クビだよ」


「俺たちも、明日はどうなるか分からんな」


「やめろよ、縁起でもない」


神谷は、焼酎を一気に飲み干した。


(この国は、どうなっているんだ)


バブルが弾けて、もう七年。不良債権は膨らみ続け、銀行は潰れ、証券会社は潰れ、企業は「リストラ」という名の首切りを続けている。


なのに、誰も責任を取らない。


経営者は「不可抗力だ」と言い、政治家は「構造改革が必要だ」と言い、官僚は「適切に対応している」と言う。


(嘘ばかりだ)


神谷は、もう一杯、焼酎を注文した。


---


## 8


午後十一時。


神谷は、小田急線の最終電車に揺られていた。


狛江の駅で降り、十分ほど歩くと、小さなアパートに着く。築二十年の2DK。新婚には十分な広さだった。


玄関を開けると、明かりがついていた。


「おかえり」


美咲が、リビングから顔を出した。


神谷の妻。二十六歳。大学の同級生で、神谷より二年後に卒業し、メーカーで事務職をしていた。今は産休中。


「まだ起きてたのか」


「待ってた」


美咲の腹は、大きく膨らんでいた。妊娠八ヶ月。


「ご飯、温める?」


「いや、いい。外で食べた」


「そう。お酒?」


「……飲んできた」


美咲は、神谷の顔を見た。


「何かあった?」


神谷は、ソファに座った。


「……会議で、余計なことを言った」


「余計なこと?」


「当たり前のことを聞いただけだ。でも、この会社では、当たり前のことは聞いちゃいけないらしい」


美咲は、神谷の隣に座った。


「どんなこと聞いたの?」


神谷は、今日の会議のことを話した。含み損のこと、飛ばしのこと、梶原部長とのやり取り。


美咲は、黙って聞いていた。


「……つまり、会社がインチキしてて、あなたはそれを指摘した、ってこと?」


「まあ、そういうことだ」


「それで、クビになるの?」


「分からない。たぶん、ならない。でも、出世はできないだろうな」


美咲は、神谷の手を握った。


「あなたは、間違ったことはしてないと思う」


「……そうかな」


「うん。当たり前のことを聞いただけでしょ? それで怒られるのがおかしいんだよ」


神谷は、美咲の顔を見た。


美咲は、笑っていた。穏やかな、優しい笑顔だった。


「でも、これからどうするの?」


「分からない」


「辞める?」


「……考えてる」


美咲は、驚かなかった。


「そう」


「怖くないのか。俺が辞めたら、収入がなくなる」


「怖いよ。でも、あなたがあの会社で腐っていく方がもっと怖い」


神谷は、美咲を見つめた。


「……お前は、強いな」


「強くないよ。ただ、あなたのこと、信じてるだけ」


神谷は、美咲の腹に手を当てた。


中で、何かが動いた。


「蹴った」


「うん。最近、よく動くの」


神谷は、目を閉じた。


この子が生まれてくる世界は、どうなっているのだろう。自分の父親は、嘘つきの会社で働いている。それでいいのだろうか。


「……辞めようかな」


「うん」


「怒らないのか」


「だって、あなた、もう決めてるでしょ。いつも、相談するときは、もう決まってるんだから」


神谷は、苦笑した。


「……バレてたか」


「当たり前でしょ」


美咲は、神谷の肩にもたれかかった。


「辞めて、どうするの?」


「自分でやる」


「何を?」


「投資だ。この国の会社を、まともにする」


「できるの?」


「分からない。でも、やってみなきゃ分からない」


美咲は、しばらく黙っていた。


「……大変そうだね」


「ああ、大変だろうな」


「でも、あなたらしい」


「そうか?」


「うん。文句言うだけじゃなくて、自分でやろうとするところ。昔から、そうだった」


神谷は、美咲の手を握り返した。


「付き合ってくれるか」


「もちろん。家族でしょ」


窓の外では、雨が降り始めていた。


---


## 9


翌朝。


神谷は、人事部に向かった。


辞表を提出する。それだけのことだ。


人事部長は、怪訝な顔をした。


「辞表? 君、何かあったのか?」


「いえ、自己都合です」


「待ってくれ、六年目だろう? もったいない。君は優秀だと聞いている」


「ありがとうございます。でも、決めました」


人事部長は、辞表を手に取り、しばらく眺めた。


「引き止めても、無駄か」


「はい」


「……そうか。まあ、君の人生だ。好きにしろ」


手続きは、あっけなく終わった。


---


## 10


最終出社日。


神谷は、段ボール箱を一つ抱えて、エレベーターホールに立っていた。


私物は少なかった。本が数冊、文房具、そして、入社時にもらった社員証。


エレベーターを待っていると、後ろから声がかかった。


「神谷」


振り返ると、梶原部長が立っていた。


「辞めるそうだな」


「はい」


「引き止めはしない。君の判断だ」


「ありがとうございます」


梶原は、神谷の顔をじっと見た。


「一つだけ聞いていいか」


「何でしょう」


「辞めて、どうするつもりだ」


「自分で投資会社を作ります」


「投資会社?」


「はい。株を買って、会社に意見を言う。経営者に、ちゃんと仕事をさせる」


梶原は、しばらく黙っていた。


そして、小さく笑った。


「面白い。だが、無理だな」


「なぜですか」


「この国では、そういう人間は生きていけない。会社は仲間内で守り合うものだ。外から意見を言う人間は、排除される」


「それでも、やります」


「なぜだ」


神谷は、答えた。


「子供が、生まれるんです」


梶原の表情が、わずかに変わった。


「その子が大人になる頃、日本はどうなっているか分からない。でも、せめて、胸を張れる国であってほしい。嘘をつかなくても生きていける国であってほしい。そのために、俺は俺にできることをやります」


梶原は、何も言わなかった。


エレベーターが到着した。


神谷は、箱を抱えて乗り込んだ。


「部長。お世話になりました」


扉が閉まる直前、梶原が言った。


「神谷」


「はい」


「……失敗しても、戻ってくるなよ。この世界は、一度落ちた人間には厳しい」


「分かっています」


扉が閉まった。


神谷は、一人、下降するエレベーターの中で、灰色の空を見上げた。


(灰色の王国を、俺が変える)


それが、始まりだった。


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# 〖第1話 注釈〗やさしい用語解説


**飛ばし**:

会社の損失を、子会社や関連会社に移し替えて隠すこと。バブル崩壊後、多くの金融機関がこの手法で損失を隠していた。


**含み損**:

持っている株や不動産が、買った時より値下がりして損をしている状態。まだ売っていないので、帳簿上は損失として計上されていない「隠れた借金」のようなもの。


**背任**:

会社から任された仕事で、わざと会社や株主に損をさせること。重大な場合は犯罪になる。


**株主**:

会社にお金を出している人。本来は会社の「持ち主」。配当を受け取る権利や、経営に意見を言う権利がある。

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