第5話:静寂のヘッドホンと、国境の迷子
1.汚れた故郷
チャオは、パイプ椅子の端に浅く座り、膝の上で自分の指先を握りつぶすようにして話した。
言葉は少ない。だが、少ないからこそ逃げ場がない。
「僕の故郷、内モンゴル……バヤンオボの近く」
地名を口にした瞬間、彼の目が一度だけ揺れた。
「全部が、汚れている……とは、言い切れない。今は、昔より良くなった場所もある。緑を戻したって、ニュースも見た」
――それでも、と彼は続ける。
「でも…チャオは深呼吸をしてから、ヘッドホンを首にかけ直した。まるで、これから鎧を脱ぐ準備をするように。風が強い日、粉が舞う。匂いが変わる日がある。家族は『気のせいだ』って言う。でも、僕は……気のせいだと思えない」
科学者になろうとする人間の言い方だった。断定しない。だが、現実から目を逸らさない。
いずみが唇を噛んで俯いた。かれんは、いつもの派手なオーラを消して黙っている。優斗だけが、かけるべき声の置き場を探して彷徨っていた。
「僕は、日本でクリーンな技術を学びたかった。泥を、地面を、恨みたくなかった」
チャオは胸の前で手を強く握り、またほどいた。
「でも……大使館の人が、来た。『協力しろ』って」
その一言で、部屋の温度が数度下がった気がした。
文哉は、ここで『国家情報法』という法律の名前を出さなかった。言えば簡単だ。だが、記号にしてしまえば、チャオの苦しみが軽くなってしまう気がしたからだ。
代わりに彼は、現実の重さだけを口にした。
「……断れない状況、ってことか」
チャオは、頷いた。
その深く重い頷き方が、すべての答えだった。
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## 2.インシデント発生!初動(レスポンス)
大学のセキュリティチーム(部局CERT)から来た電話の指示は、とても淡々としていた。セキュリティアラーム検知のメールがセキュリティチーム、嘉門教授、史郎そして文哉に送信されたのだ。
淡々としているからこそ、そこにある経験則が透けて見える。
――端末は隔離。電源は落とさない。
――ログは保全。勝手に触らない。
――共有領域は一時ロック。権限は絞る。
文哉は、震えそうになる声を張り上げ、手順を確認した。
「LANケーブルを抜け! スクリーンショット! 時刻メモ! 関係者以外、触るな!」
優斗が弾かれたように動いた。いずみは、舌打ちひとつせず、必要なケーブルだけを無言で抜いた。かれんは手が震えながらも、ホワイトボードに「やることリスト」を書き出していく。
その一連の動きが、彼らが“ちゃんとしているチーム”であることの証明だった。
金の匂いはしない。だが、冷徹な「仕組み」の匂いがする。
チャオの端末画面の隅で、不自然な転送プロセスが淡く点滅していた。
彼の指は、キーボードの上で固まっている。
「……僕、止める」
チャオは小さく言った。
そして、キーを叩いた。
チャオの頭の中を、この数ヶ月の記憶が駆け巡った。いずみの火花。文哉の数式。かれんの泥まみれの笑顔。そして、嘉門先生の「お前はマッドメンの一員だ」という言葉。
——送れない。この人たちを、裏切れない。
Delete。
Delete。
Delete。
それは「送る(Enter)」操作ではなかった。必死に止めようとしていた。
ウイルスを、そして自分自身をここから「剥がす」操作だった。
画面の点滅が消える。転送が止まる。
しかし空気は軽くならない。軽くなるはずがない。
「……これで僕、ここにいられない」
チャオは、壊れそうな声で言った。
「僕がやったわけじゃないって言っても……踏み台になってしまった…疑いは、残る」
文哉は、頷くしかなかった。
組織の論理は、たいてい正しい。だからこそ、残酷なほど冷たい。
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## 3.教授からの電話
文哉のスマホが鳴った。嘉門からだ。
廊下に出て応答すると、受話器の向こうに風の音が混じっていた。フィールドワーク中なのだろう。
『状況、聞いた。文哉――順番を間違えるな』
嘉門の声は低い。怒鳴らない。だが、太い芯がある。
『最初に守るのは人だ。次に守るのはデータだ。最後に責めるのが仕組みだ。誰かを先に責めたら、研究室は終わる』
「先生、……戻れますか」
『今すぐは無理だ。でも電話はつながる。窓口の指示に従え。勝手に“深追い”するな』
一拍おいて、苦笑いが聞こえた。
『……やれやれ。肝心なときに地面の上だ。すまん。だが俺はそういう人間だ』
文哉は、ほんの少し笑った。
笑っていい場面じゃないのに、その不器用な“人間らしさ”が救いだった。
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## 4.無言の別れ
セキュリティ担当が来る前に、チャオは立ち上がった。
ヘッドホンを手に取り、一瞬だけ耳に当てた。再生ボタンを押す。泡の音。歓声。仲間たちの声。——それを確かめてから、そっと机に置いた。
「……サヨナラ」
それだけ言って、深く頭を下げる。
そして自分の机の上に、愛用のヘッドホンをそっと置いた。
まるで、そこに「壁」を置いていくみたいに。
優斗が一歩踏み出した。
「待てよ、チャオ!」
チャオは振り返らない。
振り返れば、戻ってしまうから。
国境は、戻り道を許さない。
バタン、とドアが閉まる音だけが、部屋に残った。
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## 5.置き土産
翌朝。
ホワイトボードの隅に、短い化学式と矢印が残っていた。
完璧な解答ではない。でも、「泥の分離(セパレーション)」における“致命的な失敗の避け方”だけは書いてある。
文哉は喉が鳴るのを感じた。
「……これは、分離工程の『落とし穴』の回避条件だ。最短ルートじゃない。けど、これなら失敗しても、死なない。」
いずみがボソリと呟く。
「あいつ、ヘッドホンして……ずっとアタシたちの研究、見ててくれたんだな」
優斗は、机に残されたヘッドホンを手に取り、恐る恐る耳に当てた。
再生ボタンを押す。
最初の数十秒、無音。
ノイズキャンセリングの圧だけが、耳を締め付ける。外界を遮断する音だ。
そのあと、ふっと音が立ち上がった。
――ボコッ、ボコボコ。
泡の音。
そして、みんなの声。
嘉門の叫び。いずみの怒鳴り。文哉の短い笑い。
そして優斗自身の、馬鹿みたいに明るい歓声。
それは、“成功の瞬間”の録音だった。
チャオは、世界の音じゃなくて、仲間が生み出した泡の音を聴いていたのだ。
優斗の目から涙が落ちた。
彼の壁の内側には、ちゃんと“僕ら”がいた。
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## 6.商社マンの底力
翌週、嘉門研究室のホワイトボードは、いつもの数式ではなく、黒々とした箇条書きで埋まっていた。
* 連絡(部局窓口/UTokyo-CERT)
* 切断(隔離)
* 保全(ログ)
* 復旧(影響範囲の確定)
* 再発防止(構成変更)
そこへ、史郎が入ってきた。
スーツはいつも通りだが、笑顔は薄い。腕には分厚い封筒が挟まっている。
「先生。UTokyo-CERTから『正式な依頼』が来ました」
史郎は封筒を机に置いた。
表紙には、インシデント番号、暫定評価、依頼事項といった硬い言葉が並ぶ。
「……『強制隔離の可能性』って、書いてあるな」
嘉門が唸る。
「部局CERT側の判断で、研究室のネットワークを一時的に切り離す可能性がある、と」
かれんが不安そうに手を挙げた。
「え、じゃあ、研究できなくなるの?」
「研究“できる形”に組み直せばいい」
史郎は淡々と言った。
「『全部つながってる研究室』だから弱いんです。……先生、やりましょう。構成を最適化します」
「金、あるのか。うちは泥の研究室だぞ」
史郎は少しだけ笑った。
「金の話は、僕がします。商社マンの底力は、ここからです」
その日の午後、史郎は会議室の隅で電話をかけ続けた。
相手は一社じゃない。機器メーカー、販売代理店、保守会社、運送の手配。
「安く」ではない。「確実に、速く、止めない」が条件だ。
「明日納品? ……結構。保守は翌営業日対応で契約を」
いずみが段ボールの山を見て、呆れたように笑った。
「……早えな。昨日の今日だぞ」
「“早い在庫”を押さえるのも仕事です。研究室は『工場』と同じだ。止めたら、みんなの心が止まる」
かれんが段ボールを見て、ぽつりと言った。
「……商社って、こういうことできるんだ」
「できます。いや、『やる』んです。政治や根回しだけが商社じゃない。現場に届く速度が、僕たちの信用ですから」
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## 7.Re: (no subject)
改修が終わり、研究室のネットワークは静かになった。
夜更け。残っているのは文哉と優斗だけ。
新しい機器のファンが、低い呼吸みたいに回っている。
ピロン。
文哉の端末に、短い通知が出た。
差出人は見慣れない形式。件名は一行だけ。
Re: (no subject)
文哉は一瞬だけ指を止めた。
こういう不審なメールは、開かない。それが、新しく叩き込まれた“正しい順番”だ。
だが、添付はない。リンクもない。
本文は、短すぎる。
まるで、息だけ残して消えたみたいに。
ありがとう
ぼくは きいている
海の音
— C
優斗が肩越しに覗き込み、息を呑んだ。
「……チャオ?」
文哉は画面を見つめたまま、首を横に振った。
肯定も否定もしない。断定は、ここではいちばん危険だ。
「……分からない。でも、これは『誰かが生きている』文章だ」
その時、別の通知が入った。史郎からだ。
短い、業務連絡みたいな文章。
『そのメール、返信するな。保存して、窓口に転送。それ以上は何もするな、みんなにも伝えろ、あいつ、俺にまでメール寄越しやがった。』
史郎は画面を見つめ、長い沈黙の後、小さく呟いた。
「……馬鹿野郎。最後まで、仲間を守りやがって…」
誰にも聞こえるはずはない。
――生きていれば、もう、それでいい。
優斗がぽつりと言った。
「……冷たいな」
文哉は静かに答えた。
「冷たいんじゃない。守ってるんだ。彼を、僕たちを」
ふたりは黙って、研究室の窓の外を見た。
闇の向こうに海は見えない。でも、どこかで泡の音は続いている気がした。
文哉はホワイトボードの端に、小さく書き足した。
“海の音は、届く”
そして、電気を消した。
研究室は暗くなる。だが、完全には真っ暗にならなかった。
ルーターの小さな緑のランプが、点滅していた。
――まるで、誰かの、呼吸みたいに。
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# 嘉門先生と優斗の「マッドメン・ラボ」
## Theme 10:ハッキングされたらどうする? ~CERTと初動~
優斗: 先生、今回出てきた「UTokyo-CERT」って、なんて読むんですか? 「サート」でいいんですか?
嘉門: その通り。読み方は「サート(CERT)」だ。
Computer Emergency Response Team(コンピュータ緊急対応チーム)の略で、言ってみれば「ネット上の消防署や救急救命室(ER)」みたいな組織だ。大学や大企業には必ず設置されているぞ。
優斗: なるほど、消防署か……。あと、文哉くんが「電源は落とすな!」って言ってましたけど、普通は怖くて消しちゃいそうです。
嘉門: そこが素人の陥りやすい罠だ。
電源をブチッと切ると、「メモリ上に残っている犯人の痕跡(ログ)」が全部消えてしまうんだ。警察が来る前に指紋を拭き取るようなもんだな。
やってはいけない: 電源を切る、再起動する(証拠が消える)。
正しい初動: ネットワークケーブルだけ抜く(隔離)、画面を写真に撮る(保全)。
優斗: 「被害を止めつつ、証拠は残す」。これが鉄則なんですね。勉強になります!
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## Theme 11:中国「国家情報法」の衝撃
優斗: チャオ君の話、怖すぎました……。法律でスパイをやらされるって本当ですか?
嘉門: 残念ながら事実だ。
2017年に中国で施行された「国家情報法」の第7条にはこうある。
『いかなる組織及び公民も、法に基づき国家情報活動に支持・協力しなければならない』
優斗: つまり、「やれ」と言われたら断れないってことですか?
嘉門: そうだ。もし断れば、本人だけでなく中国にいる家族がどうなるか分からない。
だから、どれほど善良な留学生や研究者でも、ある日突然「スパイ」にならざるを得ないリスクがある。これが、西側諸国が中国企業のハイテク機器を排除したり、研究者の受け入れを慎重にしたりする最大の理由なんだ。
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## Theme 12:レアアースの「分離」という壁
優斗: 最後にチャオ君が残した化学式、あれは何がすごいんですか?
嘉門: 泥からレアアースを取り出す(リーチング)のは簡単だが、その中身は17種類の元素が混ざった「スープ」状態だ。
そこから、ネオジムやジスプロシウムといった特定の元素だけを「分離(セパレーション)」するのが、実はめちゃくちゃ難しい。
溶媒抽出法(ようばいちゅうしゅつほう): 水と油が混ざらない性質を利用して、特定の元素だけを油の方へ移動させる技術。
嘉門: チャオは内モンゴルの現場を知っていたから、この「分離」の実践的なノウハウを持っていたんだろう。彼のヒントがなければ、我々はあと1年は足踏みしていたはずだ。
〖免責事項〗
本作はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。また、作中に登場する法律・科学技術・名称等は、物語上の演出が含まれています。
Mudmen•Blue マッドメン・ブルー sora_op @sora_op
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