第4話​:数式の迷宮と、無謬性(むびゅうせい)

【免責事項】

本作はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。

また、作中に登場する法律・科学技術・名称等は、物語上の演出が含まれています。



◆1 完全なる破綻


 実験成功の興奮も束の間、嘉門研究室は重苦しい空気に包まれていた。


 原因は、文哉だ。


 彼はここ三日間、不眠不休でホワイトボードに向かっていた。


 ボードは数式で埋め尽くされ、消しては書き、書いては消すキュキュッという音が、神経質に響き渡る。


「……合わない。なぜだ」


 文哉が乱暴にペンを投げ捨てた。


 カラン、と乾いた音がして、インクの切れたマーカーが床を転がる。


「前回の実験データと、シミュレーションの結果が乖離している。深海6000メートル換算だと、圧力損失が跳ね上がって流量が落ちる。最悪、配管内で閉塞して差圧が立ち、継手が飛ぶ」


「計算上は、だろ?」


 いずみがカップラーメンをすすりながら言った。


「実際には流れたじゃんか。だったら計算の方が間違ってんじゃねえの?」


 その一言が、文哉の逆鱗に触れた。


「いずみと、一緒にしないでくれ!」


 文哉が怒鳴り声を上げる。普段は冷静な彼の剣幕に、優斗とかれんはビクリと肩を震わせた。


「物理法則は絶対だ。計算が間違っているんじゃない、現実のデータの取り方が雑なんだ! 君の溶接の歪みや、バルブの閉め方が適当だから、ノイズが入って計算が狂うんだよ!」


「はあ? アタシのせいかよ!」


 いずみも立ち上がる。


「アンタこそ、パソコンの前でカタカタやってるだけで、泥の『機嫌』なんて分かんのかよ!」


「機嫌だと? 非科学的な……!」


 文哉は吐き捨てるように言い、研究室を出て行った。


 バタン、と乱暴にドアが閉まる音が、痛々しく響いた。



◆2 官僚の無謬性(むびゅうせい)


 大学の屋上。


 文哉はフェンスにもたれかかり、震える手でスマホを握りしめていた。


 画面には、父からのメッセージが表示されている。


――『聞いたぞ。嘉門のプロジェクトは予算停止だそうだ』

――『泥舟からは早く降りろ。経歴に傷がつく前に、私の紹介する研究所へ移れ。そこなら間違いはない』


 文哉の父は、霞が関の省庁に勤める「技術官僚(テクノクラート)」だ。


 東大理系出身。科学技術政策の中枢にいるエリート。


 だが、文哉はその父が大嫌いだった。


(……間違いはない、か。相変わらずだな)


 父の口癖は「官僚の無謬性(むびゅうせい)」だ。


 官僚は決して間違えない。政策が失敗しても、それは「想定外の環境変化」のせいであり、自分たちの設計ミスではない。そうやって責任を回避し、安全圏から数字だけをいじくり回す。


 文哉が最も軽蔑する、腐った大人の姿だ。


(誰の金で大学院に行けてるんだ、と言われたあの日のことは忘れない)


 だから文哉は、父のコネも金も拒絶した。


 必死で勉強し、トップの成績で「JSPS特別研究員(国費奨学金)」をもぎ取ったのだ。


 いずみのような、本当に金を必要としていた学生が落ちることなど知らずに。ただ、「父への独立戦争」のためだけに。


 文哉にとって、嘉門先生は父の対極にいる存在だった。


 同じ東大卒でありながら、地位も名誉も捨て、泥まみれになって現場を走り回る。


「失敗してもいい。データが取れればそれは前進だ」と笑う嘉門に、文哉は、実の父には感じたことのない「真の父性」と「男としての憧れ」を抱いていた。


 だが今、その嘉門の船が沈もうとしている。


 原因は、文哉の計算が合わないからだ。


「……くそっ」


 もしこのまま失敗すれば、父は言うだろう。


『言った通りだろう。お前の冒険は無駄だった』と。


 それはつまり、文哉が軽蔑していた「安全圏の論理」に、屈服することを意味する。


「……俺は、間違ってない……。間違いたくない……!」


 父を否定するためにここに来たのに、今、自分が一番恐れているのは「間違い(エラー)を認めること」になってしまっている。


 皮肉にも、追い詰められた自分の思考回路が、あの嫌いな父の「無謬性」に似てきていることに、文哉は吐き気を催していた。



◆3 鏡に映る顔


 深夜、研究室。


 文哉が戻ると、電気は消え、誰もいなくなっていた。


 ……いや、一人だけいた。


 優斗だ。彼は文哉のデスクで、突っ伏して寝ていた。


 文哉が近づくと、優斗がむくりと起きた。


「あ、文哉くん。おかえり」


「……何をしている。君には関係ないだろう」


 優斗は寝癖のついた頭をかきながら、コンビニのおにぎりを差し出した。


「腹減ってない? 脳みそ使うとカロリー要るんでしょ?」


 文哉は無視して席に座ろうとしたが、優斗の言葉に足を止めた。


「ねえ、文哉くん。……数式解いてる時さ、すげえ楽しそうな顔するよね」


「……は?」


 文哉は振り返った。


「楽しい? 馬鹿を言うな。僕は苦しんでるんだ。完璧な解を出さなきゃいけないというプレッシャーで……」


「いや、俺にはそう見えないけどな」


 優斗は素っ頓狂な声で言った。


「なんかこう、難しいゲームを攻略してる子供みたいに、ニヤニヤしてるよ。俺、数学のこと全然わかんないけど、文哉くんがホワイトボードに向かってる背中、結構好きなんだよね。『あ、マジでこれ好きなんだなー』って」


 文哉は絶句した。


 父は、成果しか見なかった。「苦しんででも何をしてでも、一番になれ」と言った。


 だが、この何も知らない素人は、自分の中に「喜び」を見ていたのか。


 ふと、窓ガラスに映る自分の顔を見た。


「そうか……! 僕は泥を『一定の粘度を持つ液体』として計算していた。だが実際は、流れによって粘度が変化する『非ニュートン流体』だったんだ!」


 いずみの言う「機嫌」とは、物理学で言う「チキソトロピー(揺変性)」のことだった。


 文哉の数式に、いずみの直感が組み込まれていく。


 完璧だったはずの冷徹な式に、「現場のノイズ」という変数が加わり、それは「生きた数式」へと進化した。


「……出た」


 数時間後。


 文哉がペンを置いた。


「パイプの中に、“ねじれた羽根”を差し込む。流れをわざとクルクル回して、泥をこすってほぐすんだ。削るんじゃない。入れるだけだから、――現場でもできる」


 研究室に歓声が上がった。


 いずみが文哉の背中をバンと叩く。


「へっ! やりゃできんじゃんか、頭でっかち!」


「……痛いな。君のおかげだとは言わないが……」


 文哉は眼鏡を押し上げ、照れ隠しのように言った。


「君の直感も、統計的に有意なデータとして認めてやる。……少しだけ、使えそうだ」


「“機嫌”ってのは、せん断が入ると粘度が落ちるってことだ! つまりは…なっ…」


「上から目線だな! ま、許してやるよ」


 チャオが、小さく微笑んだ。誰ひとり気づいていないだろうが、それは彼がこの研究室で見せた、初めての笑顔だったかもしれない。



◆4 エピローグ:チームの形


 その様子を、嘉門先生と優斗が微笑ましく見ていた。


「先生。文哉くん、いい顔してますね」


「ああ。……あいつに必要なのは、親父さんのような『完璧な手本』じゃなくて、自分の未熟さを映してくれる『鏡』と、喧嘩できる『異物』だったんだな」


 チーム・マッドメン。


 凸凹で、噛み合わなくて、泥だらけの集団。


 だが、その歪(いびつ)さこそが、最強の武器になりつつあった。


 しかし、彼らはまだ知らない。


 この数式が導き出した「最適解」が、中国という巨大な龍の尾を踏むことになることを。


 そして、スパイ容疑をかけられたチャオの身に、静かに危機が迫っていることを。



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【やさしい用語解説】

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嘉門先生と優斗の「マッドメン・ラボ」


Theme 08:泥の「機嫌」の正体 ~チキソトロピー~


優斗:

今回、いずみさんが言ってた「ケチャップと一緒」ってどういうことですか?


嘉門:

素晴らしい着眼点だ。


世の中の液体には、水のようにサラサラな「ニュートン流体」と、力を加えると硬さが変わる「非ニュートン流体」がある。


泥やケチャップ、マヨネーズなどは後者で、「チキソトロピー(揺変性)」という性質を持っているんだ。


静止している時:

構造が固まっていてドロドロ(粘度が高い)


振ったり流したりした時:

構造が壊れてサラサラになる(粘度が下がる)


優斗:

あー! だからケチャップが出ない時、瓶を叩くんですね!


嘉門:

その通り。深海の泥も同じだ。


ただ吸い上げるだけじゃ詰まるが、いずみが言ったように「振動」や「回転」を与え続けてやれば、驚くほどスムーズに流れる。


現場の職人の勘が、複雑な流体力学の核心を突いていることはよくある話だ。



Theme 09:シミュレーションと現実の乖離


優斗:

文哉くん、最初は計算が合わなくて苦しんでましたね。


嘉門:

これは現代科学の落とし穴だ。


最近はコンピュータの性能が上がって、なんでもシミュレーションで分かる気になってしまう。だが、自然界はそんなに単純じゃない。


パイプの微妙な錆び、海水の温度変化、泥の中の微生物の粘り気……。


こうした「計算機に入力しきれないカオス(混沌)」が、現場には溢れている。


優斗:

だから「実験」が必要なんですね。


嘉門:

そうだ。


「計算は完璧、現実は間違い」なんてことはない。常に現実(現場)こそが正解(アンサー)なんだよ。文哉も今回、それを学んで一皮むけたな。



【免責事項(再掲)】

本作はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。

また、作中に登場する法律・科学技術・名称等は、物語上の演出が含まれています。

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