第3話:泥のドレスと、裏切りの型紙
〖免責事項〗
本作はフィクションです。
実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。
また、作中に登場する法律・科学技術・名称等は、物語上の演出が含まれています。
1.場違いなハイヒール
実験の日が来た。
場所は工学部の裏手にある、巨大な水槽実験施設。
いずみが繋ぎ合わせた廃材パイプが、水槽の中に垂直にそびえ立っている。
「これより、エアリフト揚泥(ようでい)実験を開始する」
嘉門先生の声が響く。
緊張感が走る中、コツコツと場違いな足音が響いた。
かれんだ。
彼女はこの日、純白のワンピースにブランド物のジャケット、そしてピンヒールという、およそ実験現場には似つかわしくない格好で現れた。
「……おい」
文哉が呆れたように眼鏡の位置を直す。
「君はファッションショーにでも来たのか? ここは泥を扱う現場だぞ」
かれんはフン、と鼻を鳴らして髪をかき上げた。
「私は広報担当兼マネージャーよ? 泥仕事はあなたたちの領分でしょ。私は汚れるの、無・理だから」
「おい、おい、お姫様かよ…」
いずみが作業着の袖で汗を拭いながら毒づく。
「いいから手伝えよ。バルブ閉めるくらいできんだろ」
「爪が割れるからヤダ…」
一触即発の空気。
優斗がオロオロと間に入る。
「まあまあ……かれんさんも、記録係とかやってくれるし!」
実験室の隅では、チャオがいつものようにヘッドホンをしながら、黙々と泥サンプルの重量を計測していた。
彼の記録ノートには、誰よりも細かい数値が並んでいる。
水槽の底には、南鳥島の深海を模した「模擬泥(ベントナイトなどの粘土)」が沈められている。
コンプレッサーが唸りを上げ、パイプに空気が送り込まれた。
* * *
## 2.黒い飛沫
「空気注入、圧力上昇……来ます!」
文哉がモニターを見ながら叫ぶ。
ボコッ、ボコボコッ……!
パイプの出口から、黒い泥水が勢いよく噴き出した。
「成功だ!」
嘉門先生が拳を握る。
だが、その直後だった。
ガガガガッ! という異音と共に、パイプが暴れ始めた。
「圧力が強すぎる! 危ない、固定が甘い!」
「バルブを締めろ!」
いずみが叫ぶ。
噴出した泥水が、受け皿のタンクから溢れ出しそうになる。
そのタンクの縁には、今回の実験のために採取したばかりの、貴重な「成分比較用の南鳥島サンプル(本物のレアアース泥)」の入った瓶が置かれていた。
「あっ! サンプルが!」
優斗が叫ぶ。
サンプル瓶はトレーに固定されていたが、振動でトレーごと滑った。
瓶は、排水溝(グレーチング)に向かって転がり落ちていく。
あの排水溝の下は、下水処理ラインだ。
落ちれば二度と回収できない。
「まずい!」
いずみはパイプを押さえていて動けない。
文哉は計器から目を離せない。
優斗と先生は距離が遠すぎる。
かれんは一瞬で理解した。
これが失われたら、実験は続けられても、外に示す根拠(エビデンス)が消える。
「全部なくなっちゃう!!」
瓶が、排水溝の暗闇へ吸い込まれようとした、その時――
白い影が飛んだ。
* * *
## 3.マッド・ウーマン
バシャッ!!
水音が響き、黒い飛沫が高く舞い上がった。
全員の動きが止まる。
排水溝の泥水溜まりの中に、純白のワンピースを着たかれんが、膝をついて倒れ込んでいた。
白い服は一瞬でドス黒く染まり、綺麗にセットした髪からは泥が滴り落ちている。
「……かれん? 大丈夫?」
優斗が恐る恐る声をかける。
かれんはゆっくりと体を起こした。
その手には、泥まみれのガラス瓶がしっかりと握られていた。
「……取った」
彼女は顔についた泥を手の甲で拭った。
その仕草で、さらに顔が黒く汚れる。
だが、振り返った彼女の表情は、今まで見たどの瞬間よりも美しく、そして強かった。
「何ボーッとしてんのよ! 実験は成功なんでしょ!?」
かれんが叫ぶ。
「このサンプルは守ったわよ! ……最悪、クリーニング代請求してやるんだから!」
「……ははっ」
いずみが吹き出し、ニヤリと笑った。
「やるじゃんか、お姫様。……いや、マッド・ウーマンだな」
文哉も、呆気にとられた後に小さく頷いた。
「……非合理的な行動ですが、結果は評価します」
実験室の奥から、チャオが静かに見つめていた。
ヘッドホンを少しだけずらし、何かを確かめるように。
かれんは立ち上がろうとして、ヒールが折れていることに気づいた。
彼女は迷わず両足の靴を脱ぎ捨て、裸足で泥だらけの床に立った。
「あーあ、これ高かったのに。……ま、いっか。泥の方が高いんでしょ?」
その姿を、見つめる男がいた。
史郎だ。
彼は泥まみれのかれんを見て、ふっと目を細めた。
(……根性はあるみたいだな)
* * *
## 4.報連相とトラウマ
その日の夜。
学生たちが帰った後の、静まり返った教授室。
嘉門先生がデスクで報告書を書いていると、史郎が缶コーヒーを2本持って入ってきた。
「……史郎君。昼間の実験、見たか?」
「ええ。お嬢様にしては頑張りましたね」
史郎はコーヒーを先生の机に置き、いつものように立ったまま窓の外を見た。
「先生。例の件でご報告があります」
「……チャオ君のことか」
嘉門の手が止まる。
「私がなぜ、あの留学生を執拗にマークするのか……。先生は『やりすぎだ』とおっしゃいますが、これは私の個人的な感情ではなく、リスク管理に基づく判断です」
史郎は静かに語り始めた。
「昔、私は繊維(アパレル)部門にいました。機械やエネルギーに比べれば、商社の中では地味な部署です。でも、私はそこで日本のブランドを世界に売りたかった」
嘉門は無言で先を促す。
「ある中国の工場をパートナーに選びました。彼らは熱心で、誠実に見えた。私は信頼して、日本から『型紙(パターン)』と、最高級の『生地(テキスタイル)』を送りました」
史郎が振り返り、先生を直視する。
その目には、隠しきれない怒りの炎が宿っていた。
「結果、何が起きたと思います?」
「……」
「『余り生地』です。彼らは裁断で出た端切れや、わざと多めに発注させた予備の生地を使って、私が送った『型紙』通りに製品を作った。……そして、それを日本の発売日より前に、半値以下で市場に流したんです」
嘉門が息を飲む。
「偽物じゃない、『素材も設計も本物のコピー品』です。日本側のブランドは大損害。私は全責任を負わされ、繊維部門を追われました」
史郎は、先生の机にある「レアアース泥の分析データ」と「泥の入った瓶」を指差した。
「先生。この研究データは『型紙』だ。そして南鳥島の泥は『生地』だ。……構造はあの時と同じなんですよ」
部屋の空気が重くなる。
史郎の声は、悲痛なほど冷静だった。
「性善説で『話せば分かる』なんて言ってる間に、彼らは裏で『余り生地』をポケットに入れる。……私はもう二度と、日本の国益(タカラ)を盗ませるわけにはいかないんです」
「……だから、チャオ君の、取り扱い区分を上げると?」
「守秘とアクセス権限の話です。大切な情報は、扱える人と扱えない人と区別しなくてはいけません」
「先生は泥だけ見ていてください。汚れ役は私がやりますから」
史郎は一礼して部屋を出て行った。
嘉門は残されたコーヒーを見つめ、苦渋の表情で呟いた。
「……正しいな、お前は。……正しすぎて、痛いよ」
廊下の向こうで、ふと足音が止まる気配がした。
だが、嘉門が振り返った時には、もう誰もいなかった……
* * *
## 5.エピローグ:ハンカチ
大学の中庭。
かれんが水道で、手足についた泥を洗っていた。
冷たい水でゴシゴシ擦るが、泥はなかなか落ちない。
「……落ちないし。最悪」
独り言を言っていると、横から濃いブルーのハンカチが差し出された。
「使いなよ」
顔を上げると、史郎が立っていた。
月明かりの下、スーツ姿の彼は相変わらずキザで、少し意地悪そうだ。
「……いいの? ブランド物じゃない、これ」
「使い捨てだ。……それに、君のドレスよりは安い」
かれんはハンカチを受け取った。
「見てたの?」
「ああ。……見直したよ。ただの飾り物じゃなかったんだな」
史郎はそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。
「なによ、偉そうに……」
かれんはハンカチで顔を拭いた。
ふわりと、男性用の香水の匂いがした。
その背中を見送りながら、彼女の胸の奥で、何かが小さく跳ねた気がした。
泥だらけのドレスと、一枚のハンカチ。
マッド・ウーマンの誕生と、大人の恋の予感。
しかしその裏では、非情な「排除」のカウントダウンが始まっていた。
* * *
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# 〖やさしい用語解説〗
## 嘉門先生と優斗の「マッドメン・ラボ」
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### Theme 05:奇跡の泥と、魚の骨の物語
優斗
「先生、泥がすごいのは分かったんですけど、普通の海底の土と何が違うんですか?」
嘉門
「いい質問だ。実はな、この泥の正体は、数千万年前に泳いでいた『魚の骨』なんだよ」
優斗
「ええっ!? 魚の骨!?」
嘉門
「正確には、魚の骨や歯に含まれる『リン酸塩』だ。
これが深海で気の遠くなるような時間をかけて、海水に微量に含まれるレアアースを、まるでスポンジのように吸着して濃縮していった」
嘉門
「だから、南鳥島の泥には、陸上の鉱山の数十倍〜数千倍という信じられない高濃度のレアアースが含まれているんだ」
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### Theme 06:世界中の倉庫を探して見つけた「奇跡の場所」
優斗
「でも、なんで南鳥島だけなんですか? 広い海なら他にもありそうなのに」
嘉門
「それが『奇跡』なんだ。
実は私(嘉門)は最初から海に潜ったわけじゃない。世界中の研究機関の倉庫に眠っていた、過去数十年分の海底ボーリング調査のサンプル(泥)を、片っ端から借りて分析した。数千本、数万本とな」
優斗
「地道すぎる……」
嘉門
「その結果、分かったことがある。
南鳥島の周辺には、レアアースを豊富に含んだ泥が溜まる『特殊な海流の渦』が存在した。しかも、陸地から遠すぎて余計な砂が混ざらない」
嘉門
「この条件が揃ったのは、世界でも南鳥島周辺の海域だけだったんだよ」
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### Theme 07:放射能なし! 酸で洗うだけの「超クリーン資源」
優斗
「でも、鉱山って聞くと、環境破壊とか公害が怖そうですけど……」
嘉門
「そこがこの泥の最大のメリットだ!
中国などの陸上鉱山では、レアアースと一緒に『トリウム』などの放射性物質が出てきてしまい、その処理が深刻な環境問題になっている。被曝のリスクもあるからな」
優斗
「うわ、それは怖いですね」
嘉門
「だが、深海の泥には放射性物質がほとんど含まれていない。
なぜなら放射性物質は重いから、海に溶け込まずに陸の近くで沈んでしまうからだ」
嘉門
「つまり、南鳥島の泥は『放射能フリー』で、採掘者にも環境にもめちゃくちゃ優しい」
優斗
「安全なんですね! でも、泥からレアアースを取り出すのって大変じゃないんですか?」
嘉門
「それが簡単なんだ。
『薄い酸(塩酸や硫酸)』で泥を洗うだけでいい。魚の骨(リン酸塩)は酸に溶けやすいから、常温で短時間混ぜるだけで、ほぼ100%のレアアースが抽出できる」
嘉門
「砂や粘土は溶けないから、そのまま海に返しても環境負荷が低い」
優斗
「高濃度で、安全で、簡単に取り出せる……。マジで宝の山じゃないですか! なんで今まで誰もやらなかったんですか?」
嘉門
「『深海6000メートルにある』という壁が高すぎたからだ。
だからこそ、我々のエアリフト技術が必要なんだよ」
嘉門
「私はこの発見を隠さず、論文で世界に公開した。
『情報は囲い込むより、公開して世界中の知恵を集めたほうが実用化が早まる』――それが科学者の信念だからな」
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