第1話 実地
放課後の教室。窓から差し込む夕日は私たちをオレンジ色に輝かせる。亜麻色の髪の乙女である紀伊の髪の毛もオレンジ色に染め上げられていた。
黒板の上にかけられている時計の秒針が静寂を切り裂くように響いている。
紀伊は私の机の上に座って、足をぶらぶらさせていた。
「『のかみよ』って、ずっと怒涛の展開じゃん?」
秒針だけしかなかったこの空間に、紀伊の声が響き渡る。
「まあ、ラノベだし。展開がないと読者が脱落していくからね……」
腕を組み、背もたれに寄りかかりながら答える。
ラノベは漫画と違って、基本は活字だ。漫画なら絵で魅せる、なんてこともできるが、ラノベだとそうもいかない。文学作品のように活字を嗜むような層も少ない。 ラノベを読むような層は大抵展開を楽しんでいる。だから、綺麗な文章よりも、感情を揺さぶるカタルシスよりも、ドーパミンでも出るような気持ちのいい展開を期待している。だからご都合主義だらけの異世界モノだったり、最強チート俺TUEEEEみたいな所謂なろう系というようなものばかりが人気になる。
それに倣うのならば、例え百合小説であったとしてもテンポ良く常に新しい展開、気持ち良くなれる展開、を作っていく必要がある、というのが私の持論だ。
「そういうもんじゃないんじゃないかなーって私は思うんだけどねえ」
「…………?」
「百合ラノベを読んでる人の大半は、その主人公とヒロインの関係性とか、やり取りとか、そういうのを楽しんでると思うんだよね、私は」
紀伊は足をぶらぶらさせたままそう語る。それから「まあ、私は一読者に過ぎないし、プロななぎちゃんにしかわからないようなこともあるんだろうけどね」とはにかみながらフォローを入れてくれる。
「だから、『のかみよ』はもっと主人公とヒロインをイチャイチャさせるべきだと思うわけ!」
ひょいっと机から降りた紀伊はくるっと身体を反転させ、私と向かい合う。それからバンッと机を勢い良く叩いた。
「うーん……」
腕を組んだまま、私はぐぐぐと顔を上げる。学校特有の変な模様? が描かれている天井を見つめ、考え込む。
百合作品というのは、文学的な美しさ、可憐さ、そういうのが秘められている作品が非常に多い。儚さとか、尊さとか、一言で形容するのはとても難しいものだ。
あれこれ言い訳を並べていた私だが、正直、私にだってわかっている。読者からそういう作品も求められていることが。そんなの二次創作を見ていればわかる。
私にだってできるのなら、イチャイチャさせるような方向に話を振ったりしてみたい。でもできない。だからストーリーで魅せるしかない。
なにせ、
「作者が経験してないことは、作品に落とし込めないものなんだよ」
という言葉に尽きる。
生まれてこの方十六年。恋人はおろか好きな人さえできたことがない私。恋愛に近しいことと言えば、ラブコメ漫画やラノベを読んでキュンキュンしていたくらい。
「だからしないの?」
いつの間にかしゃがんで頬杖を突いていた紀伊は首を傾げる。
「そう。だからしないの」
こくこくと頷く。
経験したことはできない。できないからやらない。
ただそれだけのことだった。なーんにも難しいことじゃない。
「なら、問題ないじゃん」
「問題ない? なにが?」
「言ったじゃん。私、協力してあげるって」
「…………」
「やったことないなら、私と一緒にすればいいいじゃん。私をモデルにしてるんだから、なおさらさ!」
そう言って、パンッと手を叩く。
にまにましていた紀伊の表情は一変する。まるで緊張の糸がピンッと張ったかのように、目の前に世界を牛耳るドラゴンでも現れたかのように、表情をわかりやすく強ばらせた。
近くにあった誰も座っていない椅子を持った。そしてすたすたと私の横へやってくる。椅子をことんと隣に並べ、くっつけ、座る。
椅子をくっつけ、そこに座れば、当然距離はうんと近くなる。黒板を見ていても、視界の端っこには紀伊が見える。
肩はぶつかる。紀伊の体温が私の肌へと伝わる。
「ふぅぅぅぅ」
「ひゃっ!?」
なぜか耳元に息を吹きかけてきた。あったかい息だった。予測していない行動で、変な声が出てしまう。恥ずかしい。
流れるように私の指に指を絡める。世間一般的にはこれを手を繋ぐ、というのだろう。柔らかい指、そして硬い爪。紀伊を一々感じてしまう。
「可愛い顔するね、なぎちゃん」
「してないし」
「顔真っ赤ななぎちゃん、可愛いよ」
向かい合って、楽しそうに表情を緩めながら私のことをじーっと見つめる紀伊。
ここまで熱烈な視線を浴びて、目を合わせることは今までなかった。だから、相手が幼馴染であって親友でもある紀伊であったとしても、恥ずかしくなってしまう。
頬が火照っている感覚は猛烈にあった。だから本当は顔を手で隠したい。紀伊に見られたくない。だけれど、両手ともに紀伊の手に奪われてしまっていて、私の顔を露わにする他なかった。
穴があったら入りたい、逃げたい、と脳内で嘆いていると、紀伊はひょいっと手を離す。
自由になったと思えば、今度は私の唇に右手の人差し指をそっと置く。ぴとりと圧を感じる。それからなぞるように、唇の上をぐるっと指で撫でる。
なんだかまたキスをするような雰囲気が漂った。
心臓の鼓動がうるさい。激しい。黙って欲しい。
「資料集めだし、ここまでにしとくけどね。ど? 経験できたでしょ?」
唇から手を離す紀伊はにやりと笑った。掌で転がされているような感覚に陥る。そして心臓は今だなおうるさい。紀伊は『のかみよ』のヒロインではなくて、北山紀伊に戻ったのに、私はまだ南雲なぎさに戻れていなかった。
◆◇◆◇◆◇
その晩、創作意欲が爆発しそうなほどに溢れていた。
ノートパソコンを開いて、文書作成ソフトを起動する。
そして、キーボードを無心で叩く。
たった数時間で『のかみよ』三巻の原稿。文字数にすると十万字以上を書き上げてしまった。
窓を見ると、太陽はもう昇っていた。
だけれど、眠気はなくて、満足感と達成感に満ちていた。
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