無重力の星
綴葉紀 琉奈
第1話 優等生症候群
昔から、甘えるのが苦手だった。
別に、我慢強い子だったわけじゃない。
痛いのも怖いのも嫌いで、泣き虫だったと思う。
ただ、泣く前に口をつぐむ癖がついただけだ。
「お姉ちゃんなんだから」
それは命令じゃなくて、説明みたいに言われた。
お姉ちゃんは、そういうもの。
妹や弟が泣いたら譲るもの。
お姉ちゃんは先に食べ終えるもの。
お姉ちゃんは、先に我慢するもの。
初めてその言葉を聞いたのがいつだったかは、覚えていない。
でも、気づいた頃には当たり前になっていた。
弟が生まれた。
小さくて、柔らかくて、熱を持った生き物。
私の後ろをちょこちょこついてきて、「おねえちゃん」と呼ぶ。
可愛かった。
本当に可愛かった。
弟が私の髪型を真似したがるのも、
私の言葉を真似して繰り返すのも、
私の膝に頭を乗せて眠るのも。
その全部が、嬉しかった。
――それなのに。
弟が泣くと、母はすぐにそちらへ行った。
弟が転べば、母は弟を抱き上げた。
弟が「おかあさん」と呼べば、母は笑った。
私は隣で立っていた。
母が私を愛していないとは思わない。
優しかったし、叱るときもちゃんと私を見ていた。
それでも、弟が生まれてから、
私が母に触れられる回数は減った気がした。
気がする、という程度のことだ。
正確に数えたわけでもない。
でも、胸の奥には小さな棘みたいなものが刺さったままだった。
その棘を見られたくなくて、私は笑った。
「大丈夫だよ」
弟を抱き上げる母に向かって、そう言った。
言わなくてもいいのに、言った。
「お姉ちゃんなんだから」
そう言われる前に、自分で言ってしまう。
先に言えば、傷つかないと思った。
そのうち、弟は成長した。
私の背中を追いかけることにも飽きて、友達と遊ぶようになった。
私はその変化に、少しだけ安堵した。
――やっと、役目が終わる。
そんな気持ちが確かにあった。
でも、役目は終わらなかった。
学校でも、私は「しっかりした子」だった。
先生に頼まれれば断れない。
班のまとめ役を押しつけられても、笑って引き受ける。
ふざけた男子にからかわれても、怒らない。
怒っても、どうせ「冗談じゃん」と言われるだけだ。
泣いたら、「そういうのめんどくさい」と言われるだけだ。
だったら、最初から笑っていた方が楽だった。
「頼りになるね」
その言葉は褒め言葉の形をしていた。
でも、私には時々、逃げ道を塞がれる音みたいに聞こえた。
頼りにされる。
だから頼られる。
だから断れない。
断らない自分を守るために、私はまた言った。
「大丈夫」
大丈夫じゃないのに。
めんどくさいな。
いじりが過剰で辛いな。
もう放っておいてほしいな。
思うだけなら自由だった。
口に出さなければ、誰も困らない。
誰も私を嫌いにならない。
そうやって、私は「期待された自分」を演じ続けた。
演じているつもりはなかった。
ただ、そうするしかなかった。
いつからか、自分の本当の気持ちがどこにあるのか、分からなくなった。
嫌だと言いたいのか、言えないだけなのか。
助けてと言いたいのか、言う価値がないと思っているのか。
毎日が、薄い紙を一枚ずつ重ねるみたいに過ぎていく。
薄いのに、重い。
その日も、帰り道の途中で、弟から連絡が来た。
『今日、迎え来れる? 雨やばい』
私はスマホを見つめた。
断りたいわけじゃない。弟が嫌いなわけでもない。
ただ、今日くらいは――と思った。
今日くらいは、誰かが私を放っておいてくれたら。
指が画面の上で止まる。
返事を打つ前に、母からも通知が来た。
『お姉ちゃんなんだから、お願いね』
胸の奥が、ひゅっと縮んだ。
お願い。
期待。
当然。
私はスマホを握りしめたまま、立ち尽くした。
雨が降り始める前の匂いがした。
空は低く、街灯が早く点きそうな色をしている。
私は、誰にも聞かれない声で言った。
「……もう」
言葉が、喉の奥から滑り落ちる。
「もう、誰も」
心の底に溜まっていたものが、形になる。
「私に、期待しないでほしい」
叫びではなかった。
祈りでもなかった。
ただの独り言。
吐き出しただけの言葉。
言ってしまってから、少しだけ安心した。
でも同時に、ひどく怖くなった。
期待されなくなったら、私は何者になるのだろう。
分からないまま、私は傘を開いた。
雨粒がひとつ、布地を叩く。
その音が、
どこか遠くの扉が閉まる音みたいに聞こえた。
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