第九章 敵国の影

王宮での生活が始まって、三週間が経った。

 真琴は帳簿管理官として、王都各所の違算調査を続けていた。シルヴィアと共に貴族の屋敷を訪れ、商会の倉庫を検査し、時には下町の井戸水まで調べた。

 結果は、予想以上に深刻だった。

 王都全体で、大小合わせて三百を超える違算が発見された。

 その多くは軽微なものだった。在庫の数が数個合わない、建物の耐久度がわずかに低下している、といった程度の。しかし、中には放置すれば重大な被害を引き起こすものもあった。

 真琴は、それらを一つ一つ精算していった。

 体への負担は大きかったが、やり遂げた後の達成感は何物にも代えがたかった。

 「違算ゼロ」

 その言葉を口にするたび、かつてのレジ締め作業を思い出す。毎日、閉店後に現金を数え、帳簿と照合し、一円の狂いもないことを確認する——あの地味な作業が、今では世界を救う力になっている。

 不思議なものだ、と真琴は思った。


 しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。


 ある日の夕刻、真琴は王宮の会議室に呼び出された。

 そこには、国王、宰相、シルヴィア、そして数名の将軍たちが集まっていた。

 空気が、重い。

 「帳尻殿、入りたまえ」

 国王の声に、真琴は部屋に足を踏み入れた。

 テーブルの上には、大きな地図が広げられている。地図の北側には、赤い旗が何本も刺さっていた。

 「状況を説明しよう」

 国王は、地図を指さした。

 「北の大国、ヴァルディア帝国。そなたも名前くらいは聞いたことがあるだろう」

 「はい。シルヴィアから、少しだけ」

 「帝国は、我が王国の三倍の国土と、五倍の軍事力を持つ。長年、不可侵条約を結んでいたが——」

 国王の表情が、曇った。

 「最近、帝国の動きがおかしい。国境付近に軍を集結させ、各地で挑発行為を繰り返している」

 「戦争の準備、ですか」

 「その可能性が高い」

 宰相が、口を開いた。

 「帝国側の主張によれば、彼らの国内で深刻な問題が発生しているそうです。資源の枯渇、食糧不足、人口の急激な減少——」

 真琴は、眉をひそめた。

 「人口の減少?」

 「ええ。原因は不明ですが、この半年で帝国の人口が一割以上減少したという報告があります。帝国は、これを『隣国による呪い』だと主張し、我が国に賠償を求めています」

 「呪いなんて——」

 「無論、そんな呪いなど存在しません。しかし、帝国がそう信じている——あるいは、そう信じさせたい勢力がいるのは、事実のようです」

 真琴は、精算眼を発動させた。

 地図上の帝国領土に、意識を向ける。

 直接見ることはできないが、何か——遠くにある巨大な違算の気配を、かすかに感じた。


 【遠隔検知】

 【ヴァルディア帝国領域】

 【違算レベル:極大(複数)】

 【詳細:距離により不明】


 「……帝国にも、違算が発生しています」

 真琴の言葉に、全員が注目した。

 「大規模な違算が、複数。詳細は遠すぎてわかりませんが——資源の減少や人口減少は、その影響かもしれません」

 「ということは——」

 シルヴィアが、何かを悟ったような顔をした。

 「帝国の違算と、我が国の違算は——連動している?」

 「可能性はあります」

 真琴は、頷いた。

 「違算とは、『本来あるべき状態』からの逸脱です。どこかで『余剰』が発生すれば、別のどこかで『不足』が生じる。世界全体でバランスを取ろうとするのかもしれません」

 会議室に、沈黙が落ちた。

 国王が、深い溜息をついた。

 「つまり——帝国の資源不足は、どこか別の場所で資源が『余って』いることの裏返し、というわけか」

 「そう考えると、辻褄が合います」

 「では、その『余剰』はどこにあるのだ?」

 真琴は、答えられなかった。

 まだ、わからない。

 しかし、一つだけ確かなことがあった。

 「この問題を解決するためには、帝国側の違算も調査する必要があります。我が国だけを見ていても、根本的な解決には——」

 「無理だな」

 将軍の一人が、首を振った。

 「帝国は既に臨戦態勢だ。我が国の人間が入ることは、まず不可能だろう」

 「では、どうすれば——」

 「外交交渉しかない」

 国王が、立ち上がった。

 「来週、国境付近で帝国との会談が予定されている。そこで、状況を打開できないか探る」

 「帳尻殿」

 国王は、真琴を見据えた。

 「そなたにも、同行してもらいたい。そなたの目で、帝国側の違算を探ってくれ」

 「……わかりました」

 真琴は、頷いた。

 嫌な予感が、胸の奥で渦巻いていた。


     ◇


 会談の日まで、まだ一週間あった。

 真琴は、準備のために王宮の図書館で帝国に関する資料を調べていた。

 歴史、政治、軍事、経済——あらゆる情報を頭に叩き込む。

 「熱心だな」

 声をかけられて振り向くと、ガルドが立っていた。

 「ガルドさん。どうしてここに?」

 「シルヴィアから聞いた。帝国との会談に行くそうだな」

 「ええ」

 ガルドは、真琴の向かいに座った。

 その表情は、いつにも増して険しかった。

 「帝国には、気をつけろ」

 「……何かご存知なんですか?」

 ガルドは、しばらく沈黙していた。

 そして——口を開いた。

 「俺は、元々帝国の騎士だった」

 「え?」

 真琴は、驚いた。

 ガルドが帝国出身だとは、聞いていなかった。

 「二十年前、俺は帝国騎士団の隊長を務めていた。それなりに出世もした。将来を嘱望された——らしい」

 「らしい、って」

 「俺自身は、そんなことに興味がなかったからな」

 ガルドは、苦笑した。

 「ある日、上官の不正を見つけた。軍資金の横領だ。俺は、それを告発した」

 「それは、正しいことじゃないですか」

 「ああ、正しいことだった。だが——正しいことが、報われるとは限らない」

 ガルドの目が、遠くを見ていた。

 「上官は、帝国の有力貴族の息子だった。告発は握りつぶされ、逆に俺が反逆罪で追われることになった。家族を連れて国境を越え、この国に逃げてきた」

 「そんなことが……」

 「帝国は、そういう国だ。力と金が全て。正義は、権力者の都合で捻じ曲げられる」

 ガルドは、真琴をじっと見つめた。

 「会談には、俺も同行する。何があっても、お前を守る」

 「ガルドさん——」

 「それと、もう一つ」

 ガルドの声が、低くなった。

 「帝国に、新しい軍師が現れたという噂がある」

 「軍師?」

 「ああ。数ヶ月前に突然現れ、帝国の軍事戦略を一変させた男だという。名前も出自も不明。しかし、その能力は——異常らしい」

 真琴の中で、何かが引っかかった。

 異常な能力。突然の出現。

 まさか——

 「その軍師の特徴は、何か聞いていますか?」

 「顔を見た者は少ないが——若い男らしい。三十前後。この世界の人間とは、どこか雰囲気が違うとか」

 この世界の人間とは違う。

 真琴の心臓が、早鐘を打った。

 「ガルドさん、その軍師の名前は——」

 「カネシロ、と名乗っているそうだ」


 金城。


 その名前が、脳裏に焼きついた。

 まさか。

 まさか、あの男も——


     ◇


 その夜、真琴は眠れなかった。

 宛がわれた部屋のベッドに横たわり、天井を見つめている。

 金城剛志。

 あの、職場で真琴を苦しめ続けた男。

 もし彼も転生していたとしたら——

 「考えすぎか」

 真琴は、首を振った。

 世界には、同じような名前の人間がいくらでもいる。偶然の一致かもしれない。

 しかし——

 胸の奥の不安は、消えなかった。


 窓の外では、月が静かに輝いていた。

 遠く、北の空を見る。

 あの方角に、帝国がある。

 そして——もしかしたら、運命の再会が待っている。


 真琴は、目を閉じた。

 眠れないまま、夜は更けていった。

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