第二章 女神の依頼

村は、草原を半刻ほど歩いた先にあった。

 半刻。

 その時間の感覚自体が、もう元の世界とは違っていた。腕時計は消えていた。スマートフォンも、財布も、何もない。ただ、身につけていた私服——ジーンズとシャツだけが残っていた。

 村の入り口に立ったとき、真琴は自分の視界に起きている変化に気づいた。

 木造の門。その脇に立つ見張り番らしき男。

 男の頭上に、薄い文字が浮かんでいる。


 【生命力:142/150】

 【状態:疲労(軽度)】


 目を凝らさなくても見える。かといって、常に視界を妨げるほど主張するわけでもない。意識を向けたときだけ、情報が浮かび上がる感じだ。

「これが……精算眼」

 真琴は呟いた。

 見張りの男が、怪訝そうな顔でこちらを見た。

「おい、あんた。どこから来た?」

 男の言葉は、日本語ではなかった。少なくとも、日本語として発音されてはいなかった。しかし不思議と、意味は理解できた。脳の奥で、自動的に翻訳されているような感覚。

「東の……草原から」

 真琴は、どう答えるべきか迷いながら言った。

「東? あっちは何もないはずだが……まあいい。見たところ魔物でも盗賊でもなさそうだ。入りな」

 男は、興味を失ったように視線を外した。

 真琴は、門をくぐった。


 村は、小さかった。

 石畳の道沿いに、木造の家が二十軒ほど並んでいる。中央には井戸があり、その周りで女性たちが水を汲んでいる。子供が走り回り、犬が吠え、どこかで鶏が鳴いている。

 中世ヨーロッパの農村、という表現が頭に浮かんだ。映画やゲームで見たことのある光景。しかし、匂いと音と空気の感触は、画面越しに見るのとは全く違った。

 精算眼が、自動的に情報を拾い上げていく。

 井戸の水を汲む女性——【生命力:98/120】【状態:栄養不足】

 走り回る子供——【生命力:67/70】【状態:健康】

 家の軒先で座り込む老人——【生命力:41/100】【状態:衰弱】

 誰もが、どこか疲れて見えた。生命力の数値が、最大値に達している者がほとんどいない。

「病気……?」

 真琴は、周囲を見回した。

 視界の隅に、赤い警告のような数字が点滅した。

 井戸だ。

 井戸に意識を向けると、新たな情報が浮かび上がった。


 【水源:汚染度+89】

 【原因:上流域の異物】

 【影響範囲:半径200メートル】


 汚染度、プラス89。

 本来あるべき数値がゼロだとすれば、89という数字は異常だ。それがこの村の住人たちの体調不良の原因なのだろう。

「あの、すみません」

 真琴は、近くにいた中年の女性に声をかけた。

 女性は、警戒するような目でこちらを見た。

「なんだい、あんた。見ない顔だね」

「旅の者です。あの井戸の水を飲んでいる人が多いようですが……」

「ああ、村で唯一の水源だからね。最近、みんな体調が悪くて困ってるんだよ。何か悪い病気でも流行ってるのかねえ」

 女性の頭上にも、数字が浮かんでいた。【生命力:77/110】【状態:微熱、倦怠感】

「この井戸の水、上流で何か問題が起きているかもしれません」

「上流? 山の方かい?」

「はい。何か……死骸のようなものが落ちているとか」

 女性は、眉をひそめた。

「どうしてそんなことがわかるんだい?」

 真琴は、言葉に詰まった。「精算眼という能力で見えました」と言って、信じてもらえるだろうか。

「……勘、です。旅をしていると、水の匂いで大体わかるようになるんです」

 嘘だった。でも、他に説明のしようがなかった。

 女性は、半信半疑の顔をしていた。しかし、真琴の言葉に嘘がないことは、どこかで感じ取ったのかもしれない。

「村長に話してみるよ。あんた、しばらくここにいるかい?」

「はい。できれば」


 一時間後、真琴は村の若者二人と共に、井戸の上流へ向かっていた。

 村長は、最初は真琴の話を疑っていた。しかし、村中で体調不良者が続出している現状を考えれば、原因を調べる価値はあると判断したようだ。

 川沿いの小道を、山に向かって登っていく。

 木々の間から差し込む光が、緑色に染まっている。土の匂い、苔の匂い、水の匂いが混ざり合う。

 歩きながら、真琴は自分の体の変化を確かめていた。

 元の世界では、こんなに長く歩いたら息が切れていたはずだ。しかし今は、足取りが軽い。疲労を感じない。

 これも、転生の影響なのだろうか。

「あ」

 先頭を歩いていた若者の一人が、声を上げた。

「なんだ、あれ」

 指さす先に、何かが横たわっていた。

 近づいてみると、それは巨大な獣の死骸だった。狼のような、しかし狼よりも遥かに大きい——肩までの高さが二メートルはありそうな獣。その体は既に腐敗が始まっており、腹部が裂けて内臓が露出していた。

 精算眼が、自動的に情報を表示する。


 【死骸:魔狼(変異種)】

 【死因:未特定】

 【毒素放出:進行中】

 【汚染範囲:下流域に拡散】


「魔狼だ……」

 若者の一人が、顔を青ざめさせた。

「こんなでかいの、見たことねえ」

「死んでるみたいだけど……」

「誰が殺したんだ?」

 二人は、恐る恐る死骸に近づこうとした。

「待ってください」

 真琴は、二人を止めた。

「近づかない方がいい。この死骸から、毒が出ています。水に溶けて、下流に流れている」

「毒?」

「だから村の人たちが体調を崩しているんです。この死骸を——」

 真琴は、周囲を見回した。

 川の流れを変えることはできない。死骸を動かすにしても、腐敗が進みすぎていて、触れるのは危険だ。

 どうすればいい?

 精算眼に、意識を集中させてみた。

 死骸の情報が、より詳細に表示される。


 【精算可能項目】

 → 毒素:中和処理(精算コスト:微)

 → 死骸:分解促進(精算コスト:小)

 → 汚染水域:浄化(精算コスト:中)


 精算、という言葉が光って見えた。

 これは——修正できる、ということか。

 真琴は、【毒素:中和処理】に意識を向けた。

 瞬間、体の奥から何かが引き出される感覚があった。熱くもなく、冷たくもない、エネルギーとしか呼びようのない何かが、真琴の中から死骸へと流れていく。

 死骸の周囲の空気が、わずかに歪んだ。

 そして——精算眼の表示が切り替わった。


 【毒素:中和完了】

 【残存汚染:0】


「できた……」

 真琴は、自分でも驚いていた。

 毒を「中和」した。物理的に何かをしたわけではない。ただ意識を向け、「精算」を実行しただけだ。それだけで、本来あるべき状態——毒素ゼロ——に戻った。

「お、おい。何をした?」

 若者たちが、怪訝な顔でこちらを見ている。

「えっと……浄化の、魔法? のようなものです」

 自分でも何を言っているのかわからなかった。しかし、魔法という言葉は、この世界では通じるようだった。

「魔法使いだったのか、あんた」

「まあ、そんなところです」

 死骸の処理も済ませた方がいいだろう。真琴は【死骸:分解促進】を実行した。

 体から、さっきより少し多くのエネルギーが抜けていく感覚。死骸の輪郭が、ゆっくりとぼやけていった。土に還っていくように、形が崩れ、溶け、消えていく。

 一分もしないうちに、死骸は跡形もなくなっていた。

「す、すげえ……」

 若者たちが、呆然とした顔で真琴を見ていた。

「これで、井戸の水は大丈夫だと思います。念のため、数日は沸かしてから飲んだ方がいいかもしれませんが」

 真琴は、できるだけ平静を装って言った。

 しかし内心では、自分でも信じられない気持ちだった。

 こんなことが、できるのか。自分に。

 レジ打ちしかできないと思っていた自分に。


 村に戻ると、真琴は英雄のように迎えられた。

 井戸の水を調べた村人たちが、匂いや色が改善していることに気づいたのだ。そして、真琴と若者たちの話を聞いた村長が、事情を理解した。

「あんたのおかげで、村が救われた」

 村長——白髪の老人——は、真琴の手を握った。

「どう礼をすればいいかわからん。金はないが、食事と寝床くらいは提供できる」

「いえ、そんな……」

「遠慮するな。それと——」

 村長は、真琴をじっと見た。

「あんた、これからどうするつもりだ?」

 真琴は、答えに詰まった。

 これから、どうするか。

 女神は「違算を解消しろ」と言った。しかし、具体的にどこへ行き、何をすればいいのかは教えてもらっていない。

「正直、まだ決まっていません」

「なら、街に行くといい。ここから東に半日歩いたところに、レイブリッジという街がある。冒険者ギルドもあるから、あんたの力があれば仕事には困らんだろう」

「冒険者ギルド……」

「魔物退治や護衛、探索——いろんな依頼を斡旋してくれる組織だ。腕に覚えがあるなら、登録しておいて損はない」

 冒険者ギルド。

 ゲームや小説で聞いたことのある言葉だ。まさか本当に存在するとは思わなかったが——この世界では、それが現実なのだろう。

「ありがとうございます。街に行ってみます」

「ああ。道中、気をつけてな」


 その夜、真琴は村長の家の一室を借りて眠った。

 木のベッドに、藁の詰まったマットレス。枕は布袋に干し草を詰めただけのもの。元の世界のベッドとは比べ物にならない粗末さだったが、不思議と心地よかった。

 天井を見上げながら、真琴はこの一日を振り返っていた。

 死んだ。

 転生した。

 異世界に来た。

 能力をもらった。

 村を救った。

 たった一日で、人生が完全に変わってしまった。

 いや——死んだ時点で、「人生」という言葉が正しいのかどうかもわからない。今の自分は、生きているのだろうか。それとも、死後の世界にいるのだろうか。

 考えても、答えは出ない。

 ただ一つ、確かなことがあった。

 今の自分には、力がある。

 五年間、何の取り柄もないと思っていた自分に、初めて意味のある力が与えられた。

 「違算」を見つけ、修正する力。

 元の世界では、レジの現金を合わせることしかできなかった。しかしこの世界では、その能力がもっと大きなことに使える。

 村の井戸を浄化できた。

 もっと大きな違算も、修正できるかもしれない。

 女神の言葉が、頭に蘇った。

 『あなたは五年間、誰にも認められず、報われず、それでも毎日、完璧に数を合わせ続けてきた。その愚直さこそが、この世界を救う鍵なのです』

 救う、か。

 大げさな言葉だと思った。

 でも——試してみる価値はある。

 元の世界に帰る方法があるのかどうかはわからない。しかし、ここでできることがあるなら、やってみるしかない。

 何もできないまま、何者にもなれないまま、消えていくよりは。

 真琴は、目を閉じた。

 明日は、街へ向かう。

 新しい世界での、本当の一歩を踏み出すために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る