レジスタッフ異世界転生_違算の勇者 ~レジ打ちスキルで異世界の帳尻を合わせます~
もしもノベリスト
第一章 閉店後の光
午後九時五十八分。蛍光灯の白い光が、無人のレジカウンターを照らしている。
帳尻真琴は、自動釣銭機のドロアを引き出しながら、今日という一日の終わりを噛みしめていた。
閉店のアナウンスが流れてから、もう三十分が経つ。最後の客——値引きシールの貼られた惣菜を山ほど抱えた中年女性——が出ていったのは、その十五分後のことだった。
「レジ締め、お願いしますね」
チェッカー長の桐島さんは、そう言い残して事務室へ消えていった。いつものことだ。金曜日の夜、閉店後のレジ締めは真琴の担当と決まっていた。
ドロアの中から千円札の束を取り出す。十枚ずつ扇状に広げ、指先で数える。ピッ、ピッ、ピッ——。計数機に通すまでもない。五年もやっていれば、紙幣の厚みだけで枚数がわかるようになる。
三十二枚。
POSの画面を確認する。現金売上から釣銭準備金を差し引いた理論値は——三万二千円。
合っている。
真琴は小さく息を吐いた。今日も違算ゼロだ。
違算。
レジ締め時に発生する現金の過不足のことを、業界ではそう呼ぶ。百円の違算でも始末書、千円を超えれば厳重注意。真琴が契約社員として五年間働いてきた「マルエイ」では、それが常識だった。
五年。
気づけば、もうそんなに経っていた。
大学を出て、就職氷河期の最後尾に引っかかった真琴は、「とりあえず」のつもりでこのスーパーマーケットの求人に応募した。正社員登用制度あり。その一文に、かすかな希望を見出したのだ。
三回、落ちた。
正社員登用試験に、三回。
一回目は「経験不足」、二回目は「リーダーシップの欠如」、三回目は——理由すら教えてもらえなかった。ただ「今回は見送り」という、感情のこもらない通知文が届いただけだ。
今年で二十八歳になる。
同い年の友人たちは、結婚したり、転職したり、海外に行ったりしている。SNSを開けば、誰かの幸せそうな写真が流れてくる。新居の鍵を手にした笑顔。生まれたばかりの赤ん坊を抱く腕。異国の青い海をバックにしたピースサイン。
真琴はいつからか、SNSを見なくなった。
五百円玉を数える。コイントレーの上で、銀色の硬貨が乾いた音を立てる。二十三枚。理論値と一致。
次は百円玉。
四十七枚——。
「おい、帳尻」
背後から声がかかった。
振り向かなくても、誰だかわかる。この声を聞くと、胃の奥がきゅっと縮む感覚がある。五年かけて身についた、条件反射のようなものだ。
金城剛志。
真琴より三つ年上の、正社員。入社は真琴より二年遅いが、中途採用で最初から正社員だった。元は別の小売チェーンで店長をやっていたらしい。その経歴を盾に、パートやアルバイト、そして真琴のような契約社員を顎で使うのが、彼の流儀だった。
「明日のシフト、俺の代わりに入れよ」
金城は、真琴の返事を待たずに言った。
「明日は——」
「休みだろ? 知ってる」
金城の口元が、わずかに歪む。笑っているのか、嘲っているのか、その中間のような表情だ。
「急用ができたんだよ。お前、暇だろ?」
暇じゃない、と言いたかった。明日は久しぶりに実家に帰る予定だった。母親が体調を崩したという連絡を受けて、見舞いに行くつもりだったのだ。
でも、その言葉は喉の奥で詰まった。
「……わかりました」
真琴は、自分の声が平坦なことに気づいた。怒りも、悲しみも、諦めも、何も混じっていない。ただ事実を受け入れるだけの、空っぽの返事。
「おう、助かるわ」
金城は、それだけ言って背を向けた。足音が遠ざかっていく。事務室のドアが開き、閉まる音。
真琴は、手元の百円玉に視線を戻した。
四十七枚。
数え直す必要はない。一度数えたものは、絶対に間違えない。それが真琴の——レジ打ちとしての、唯一の誇りだった。
レジ締めの作業を終え、売上金を金庫に納めたのは、午後十時半を回った頃だった。
真琴は従業員用の更衣室で制服を脱ぎ、私服に着替えた。ロッカーの扉に貼られた小さな鏡に、自分の顔が映る。
疲れた顔だ、と思った。
目の下に薄い隈ができている。頬はこけ、肌には張りがない。大学時代の写真と見比べたら、同一人物だと気づかないかもしれない。
ロッカーを閉め、バックヤードを通って店の裏口に向かう。
通路の途中で、ふと足が止まった。
売り場の奥——青果コーナーの方から、かすかな光が漏れている。
閉店後の店内は、防犯用の最低限の照明しかついていないはずだ。あんなに明るい光源があるはずがない。
電気の消し忘れか?
真琴は、確認のために足を向けた。
青果コーナーに近づくにつれ、光は強くなっていった。白というより、銀に近い。冷たいのに、どこか温かみを感じる不思議な光だ。
野菜の陳列棚の向こう側。
そこに、光源があった。
真琴は、自分の目を疑った。
光は、空中に浮かんでいた。
直径は五十センチほど。完全な球形で、脈打つように明滅を繰り返している。まるで——心臓のように。
「なん、だ……これ……」
声が震えた。
足が動かない。逃げなければ、という本能と、目を離せない、という好奇心が、真琴の中でせめぎ合っていた。
光球が、ゆっくりと膨張し始めた。
五十センチが、一メートルに。一メートルが、二メートルに。
逃げろ。
頭の中で、誰かが叫んでいた。
でも、足は動かなかった。
光が、真琴を包み込んだ。
視界が白に染まる。音が消える。重力が消える。
自分の体が、溶けていくような感覚があった。
最後に浮かんだのは、奇妙なほど冷静な思考だった。
——明日のシフト、どうしよう。
そして、意識が途切れた。
◇
最初に感じたのは、草の匂いだった。
青くて、瑞々しくて、どこか甘い。子供の頃、祖父母の家の裏にあった野原を思い出す匂い。
次に感じたのは、風だった。頬を撫でる、柔らかな空気の流れ。エアコンの人工的な風とは違う、生きている風。
真琴は、ゆっくりと目を開けた。
青い空が、視界いっぱいに広がっていた。
雲一つない、抜けるような青。見たことのない——いや、見たことはあるはずなのに、こんなに鮮やかだったかと驚くような青。
体を起こす。
草原だった。
見渡す限りの緑。遠くに山脈が見える。手前には小さな川が流れ、その向こうに森がある。
スーパーマーケットの売り場は、どこにもなかった。
「は……?」
真琴は、自分の手を見た。
見慣れた自分の手だ。でも、どこか違う。指先が妙にくっきりと見える。視界全体の解像度が上がったような、不思議な感覚。
立ち上がろうとして、足がもつれた。
膝をつく。草の感触が、やけにリアルだった。一本一本の葉の形が、触覚を通じて脳に伝わってくる。
夢じゃない。
そう確信した瞬間、頭の中に声が響いた。
『お目覚めですね、帳尻真琴』
女性の声だった。
穏やかで、優しくて、それでいてどこか超然とした響き。人間の声のようで、人間の声ではないような——。
「誰だ」
真琴は、周囲を見回した。
誰もいない。草原に、自分一人だ。
『こちらです』
声と同時に、目の前の空間が歪んだ。
光が集まり、形を成していく。人の形——女性の形。
白いローブを纏った、長い銀髪の女性が、真琴の前に立っていた。
美しい、という言葉では足りなかった。人間の造形の限界を超えた、完璧すぎる美。目が合った瞬間、真琴は本能的に悟った。
これは、人間ではない。
「私の名はアカウンティア」
女性——いや、女神は、微笑んだ。
「この世界の均衡を司る者です」
「均衡……?」
「ええ。数と量、入と出、生と死。あらゆるものには釣り合いがあります。それを管理するのが、私の役目」
真琴は、言葉の意味を理解しようとした。でも、頭が追いつかない。
「俺は——俺は、どうしてここに?」
「残念ながら、あなたは死にました」
女神の言葉は、あまりにも軽かった。
「死……?」
「あの光に触れた瞬間、あなたの肉体は消滅しました。本来であれば、魂も輪廻の輪に戻るはずでした。しかし——」
アカウンティアは、真琴をじっと見つめた。その瞳は、星空のように深かった。
「あなたの魂には、特別な適性がありました」
「適性?」
「数に対する、異常なまでの感度。誤差を許さない精神。一つの狂いも見逃さない集中力。あなたはこの五年間、一度も違算を出さなかったそうですね」
真琴は、息を呑んだ。
どうしてそれを知っている、という疑問は、浮かばなかった。この存在は、自分の全てを知っているのだと、なぜか確信できた。
「それが、何の役に——」
「この世界には、違算が生じています」
女神の声が、わずかに硬くなった。
「違算……?」
「命の総量、魔力の総量、資源の総量。あらゆるものは、世界帳簿と呼ばれる記録によって管理されています。しかし今、その帳簿に原因不明の過不足が発生しているのです」
世界帳簿。
違算。
レジ締めの作業で、毎日のように聞いていた言葉だ。しかしここでは、まるで違う意味を持っているように聞こえた。
「過不足が生じるとどうなるの?」
「世界が歪みます。本来存在しないはずの魔物が現れる。病が蔓延する。天変地異が起きる。そして——最悪の場合、世界そのものが崩壊します」
真琴は、唾を飲み込んだ。
「それを、俺にどうしろと……?」
「あなたには、能力を授けます」
アカウンティアが、右手を差し出した。その掌に、小さな光の玉が浮かんでいる。
「精算眼。あらゆる物事の『本来あるべき数値』と『現在の数値』の差異を見抜く力。そして——それを修正する力」
「修正……」
「この世界の違算を、一つずつ解消してほしいのです。それができるのは、数の狂いに敏感なあなただけ」
光の玉が、真琴の胸に吸い込まれていく。
温かい。
何かが、体の奥で目覚めるような感覚があった。
「俺に、そんなことが……」
「できます」
アカウンティアは、穏やかに断言した。
「あなたは五年間、誰にも認められず、報われず、それでも毎日、完璧に数を合わせ続けてきた。その愚直さこそが、この世界を救う鍵なのです」
真琴は、自分の手を見下ろした。
何も変わっていないように見える。でも、視界の端に——何か、数字のようなものがちらつくのを感じた。
「この先の村に向かいなさい。そこから、あなたの新しい人生が始まります」
アカウンティアの姿が、薄れ始めた。
「待ってくれ。俺は——俺は、元の世界に戻れるのか?」
『それは、あなた次第です』
声だけが、風に乗って響いた。
『違算を全て解消したとき、道は開かれるかもしれません。あるいは——その頃には、帰りたいと思わなくなっているかもしれませんね』
光が消えた。
草原に、真琴は一人取り残された。
風が吹いている。草がさざめいている。遠くで、鳥が鳴いている。
真琴は、深く息を吸い込んだ。
草の匂い。土の匂い。水の匂い。
生きている、と思った。
死んだはずなのに、生きている。
新しい世界で、新しい体で、新しい力を持って。
「……とりあえず、村に行くか」
真琴は、歩き出した。
足元の草を踏む感触を、一歩一歩、確かめるように。
背後で、何かが光った気がした。
振り返る。
何もない。ただ、草原が風に揺れているだけだ。
気のせいか。
真琴は、再び前を向いた。
彼は知らなかった。
同じ頃、遥か北の大地にも、もう一つの光が落ちていたことを。
その光に包まれて、もう一人の人間がこの世界に降り立っていたことを。
その人間が、かつて自分を苦しめ続けた男——金城剛志であったことを。
二人の転生者の運命が交錯するのは、まだ少し先の話である。
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