第9話「崩れ落ちた嘘とラムネ菓子」

 祭りの喧騒から数日後。ルッツは焦っていた。

 日課の抑制剤(ラムネ)が底をついたのだ。あれは街の特定の駄菓子屋でしか売っていない、マイナーな商品だった。

「買いに行かないと……」

 非番の日、ルッツは私服に着替え、こそこそと寮を抜け出した。

 街へ降り、裏路地にある小さな店へ急ぐ。

「おばちゃん、いつものやつ、あるだけ頂戴!」

「あらルッツちゃん、また来たの。はいよ、ビタミン入りラムネね」

 大量の小瓶を受け取り、紙袋に詰め込む。これでしばらくは安泰だ。

 ホッとして店を出た瞬間だった。

「……ルッツ?」

 心臓が止まるかと思った。

 目の前に、変装用の伊達眼鏡をかけたイグニスが立っていた。

「で、殿下!? なぜここに!」

「お忍びで視察だ。お前こそ、何をそんなに買い込んだんだ?」

 イグニスが紙袋を覗き込もうとする。

「い、いや! これは個人的なもので!」

 ルッツは慌てて袋を背中に隠そうとした。

 だが、焦りが手元を狂わせた。

 ガシャッ!

 紙袋の底が抜け、大量の小瓶が石畳に散乱した。

 小瓶が割れ、中からカラフルな錠剤が転がり出る。

 甘酸っぱい、チープな香りが漂った。

「……これは」

 イグニスが一つを拾い上げる。

「抑制剤、か? にしては、随分と色が……」

 イグニスは怪訝そうに錠剤を鼻に近づけ、そして躊躇いなく口に放り込んだ。

「あっ!」

 止める間もなかった。

 イグニスがボリボリと噛み砕く。

 沈黙が流れた。

 イグニスの表情が固まる。

「……甘い。酸味がある。これは……砂糖菓子か?」

 逃げ場はなかった。

 ルッツは観念して、深く息を吐いた。

「……はい。ラムネです」

「ラムネ? なぜ抑制剤の代わりに菓子を?」

 イグニスの黄金の瞳が、ルッツを射抜く。そこにあるのは怒りではなく、純粋な疑問だった。

 ルッツは拳を握りしめ、顔を上げた。もう、隠し通せない。

「抑制剤なんて、必要ないからです」

「どういうことだ」

「俺はΩじゃありません」

 ルッツははっきりと言った。

「俺はβ(ベータ)です。フェロモンも出ないし、発情もしない。だから、殿下の威圧も効かなかったんです」

 イグニスは瞬きもせず、ルッツを見つめていた。

「……βだと?」

「はい。入団するために嘘をつきました。Ωでも強いと証明したかった。でも、本当はただの小賢しいβなんです」

 ルッツは視線を落とした。

「騙していて、すみませんでした。処罰なら受けます」

 これで終わりだ。きっと軽蔑される。

 そう覚悟して、ルッツはイグニスの言葉を待った。

 だが、返ってきたのは意外な反応だった。

「……そうか」

 イグニスは静かに呟いた。

「では、あの時……雨の洞窟で、俺の腕の中で震えていなかったのも、薬のおかげではなく、お前がβだったからか」

「……そうです」

「俺が『運命』だと感じたあの強靭な精神力も、単に種族的な特性だったと?」

「……はい。がっかりしましたか?」

 イグニスは長い間、沈黙した。

 そして、背を向けた。

「……頭を冷やす」

 それだけ言い残し、イグニスは去っていった。

 残されたルッツは、散らばったラムネの中に立ち尽くしていた。

 甘酸っぱい匂いが、今はひどく苦く感じられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る