第8話「月下のダンスと罪悪感の味」

 王都が一年で最も華やぐ季節がやってきた。建国記念祭だ。街は極彩色の旗で飾られ、屋台からはスパイスと砂糖の甘い香りが漂っている。

 騎士団もこの日は礼装に身を包み、王城での舞踏会に参加するのが通例だった。

「ルッツ、似合わないな」

「うるさいよ、カイル」

 ルッツは窮屈な礼服の襟元を引っ張った。白を基調とした騎士の正装は、ルッツの細身の体には少し大きすぎたが、それが逆に「育ちの良い少年のようだ」と周囲の貴婦人たちからは好評だった。

 大広間には、着飾った貴族たちや騎士たちが溢れている。

 シャンデリアの光が降り注ぐ中、楽団が優雅なワルツを奏で始めた。

「……見ろ、殿下だ」

 ざわめきが広がる。大階段の上から、イグニスが現れた。

 漆黒の礼服に、深紅のマント。その姿は夜の闇と炎を凝縮したようで、あまりの美しさと覇気に、会場の空気が一瞬にして真空になったかのように静まり返る。

 イグニスは真っ直ぐにフロアを歩き出した。貴族の令嬢たちが扇子で顔を隠しながら熱い視線を送るが、彼は脇目も振らない。

 その足が、ルッツの前で止まった。

「ルッツ」

 イグニスが手を差し出す。

「一曲、願えるか」

 会場中が息を呑んだ。第一王子が、新入りの騎士(しかもΩと噂されている男)にダンスを申し込んだのだ。

 ルッツは冷や汗をかいた。

「殿下、俺は男ですし、身分も……」

「関係ない。俺が踊りたいのはお前だ」

 イグニスの瞳は真剣そのものだった。拒否権など最初からない。

 ルッツは観念して、その手を取った。

「……足を踏んでも怒らないでくださいよ」

「構わん。お前になら踏み抜かれてもいい」

 イグニスの手がルッツの腰に回される。引き寄せられ、体が密着する。

 音楽に合わせて二人は踊り出した。

 意外なことに、イグニスのリードは完璧だった。ルッツの拙いステップを優しくカバーし、まるで流れる水のようにフロアを回る。

「……上手いですね」

「王族の嗜みだ。だが、心から楽しめたのは今が初めてだ」

 イグニスがルッツを見つめる。その瞳には、隠しようのない愛おしさが溢れていた。

「ルッツ。祭りが終わったら、話がある」

「話?」

「俺の将来についてだ。そして、お前の将来についても」

 それは実質的なプロポーズの予告だった。

 ルッツの心臓が早鐘を打つ。

 嬉しい、と思ってしまった自分がいる。けれど、それ以上に胸を締め付けるのは罪悪感だった。

(俺は、この人を騙している)

 イグニスが愛しているのは、「強くて気高いΩのルッツ」だ。βである自分ではない。

 真実を知れば、彼は失望するだろうか。それとも、騙されたことに激怒するだろうか。

 煌びやかな光の中で、ルッツの心だけが暗い影を落としていた。

 ポケットの中の抑制剤(ラムネ)の小瓶が、カチリと音を立てた気がした。

 それはまるで、終わりのカウントダウンのようだった。

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