第7話「雨の洞窟と近すぎる距離」

 ボア・タイラントの討伐後、天候が急変した。

 バケツをひっくり返したような土砂降りの雨。雷鳴が轟き、視界が白く染まる。

 本隊との合流は不可能と判断したイグニスは、ルッツを連れて近くの洞窟へと避難した。

 洞窟の中は薄暗く、雨音だけが反響している。

「濡れたな……」

 イグニスが指を鳴らすと、小さな火の玉が空中に浮かび、焚き火代わりの熱源となった。便利なものだ。

 二人は濡れた上着を脱ぎ、火のそばで乾かすことにした。

 ルッツはシャツ一枚になり、身震いした。雨に濡れたシャツが肌に張り付いている。

 ふと視線を感じて顔を上げると、イグニスがじっとこちらを見ていた。

 その瞳が、焚き火の明かりで揺れている。

「……なんだ、その体は」

 イグニスが低い声で言う。

 ルッツは自分の体を見下ろした。細身だが、鍛え上げられた筋肉がついている。無数の古傷もある。

「見苦しいものをお見せしてすみません。傷だらけで」

「違う」

 イグニスが手を伸ばし、ルッツの二の腕に触れた。熱い掌だ。

「美しいと言ったんだ。戦う者の体だ」

 イグニスの指が、傷跡をなぞる。くすぐったさと、妙な緊張感が走る。

(まずい。距離が近い)

 狭い洞窟の中、最強のαと二人きり。シチュエーションとしては最悪(あるいは最高)だ。

「ルッツ。寒くないか?」

「だ、大丈夫です。火がありますから」

「嘘をつけ。唇が青いぞ」

 イグニスは有無を言わせず、ルッツを後ろから抱きすくめた。

「!? 殿下!」

「動くな。人肌の方が温まる」

 背中にイグニスの広い胸板が密着する。心臓の音が聞こえてきそうだ。いや、聞こえているのは自分の心臓の音か。

 イグニスの体温は高く、心地よかった。

 だが、問題はそこではない。

「……匂うか?」

 イグニスが耳元で囁く。

「俺のフェロモンが。今は制御していない。雨のせいか、気が高ぶっていてな」

 実際、イグニスからは濃厚な気配が立ち上っていた。普通のΩなら、この距離で嗅がされたら一発で発情してしまうレベルだろう。

 だが、ルッツはβだ。

「……いえ、別に」

 ルッツは正直に答えた。

「少し落ち着く匂いですね。森の匂いというか」

 イグニスの腕に力がこもった。

「……お前は、本当に」

 ため息のような声。

「これほど無防備に俺の腕の中にいて、なお理性を保つのか。どれほど高潔なんだ」

 イグニスはルッツの首筋に顔を埋めた。

「俺の方が、おかしくなりそうだ」

 熱い吐息が皮膚にかかる。

 ルッツは動けなかった。イグニスの腕から逃げ出すことは造作もないはずなのに、なぜか体が動かない。

 背中から伝わる熱が、βの鈍感な体にも何かを訴えかけてくるようだった。

(なんだこれ。変な感じだ)

 胸の奥がざわつく。

 それはフェロモンによる強制的な反応ではなく、ルッツ自身の感情の揺らぎだったのかもしれない。

「ルッツ」

 イグニスが名前を呼ぶ。

「俺の番(つがい)になれ。お前以外、もう考えられない」

 真剣な声だった。王子の気まぐれではない、魂からの渇望。

 ルッツは答えられなかった。

「……雨が止んだら、考えます」

 それが精一杯の逃げ口上だった。

 イグニスは「そうか」とだけ言い、それ以上は何も強要しなかった。ただ、朝までルッツを抱きしめ続けていた。

 外の雨音は、二人の鼓動を隠すように激しく降り続いていた。

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