第3話「最強のα、勘違いの恋に落ちる」
食堂の静寂は異常だった。食器の触れ合う音ひとつしない。誰もがイグニスの放つ圧倒的なプレッシャーに喉を詰まらせ、生存本能に従って首を垂れている。
そんな中、咀嚼音が響いた。
もぐもぐ。
イグニスの足が止まる。
鋭い視線が、食堂の隅に向けられた。そこには、一人の華奢な男がいた。黒髪に黒目、どこにでもいそうな平凡な容姿だが、その態度は不敬なほどに自然体だった。
イグニスは目を細めた。
(なんだ、あいつは?)
イグニスは幼い頃から、孤独だった。膨大すぎる魔力と、最高ランクのαとしての質。彼の前に立つ者は、恐怖に顔を歪めるか、媚びへつらって股を開くかの二択しかなかった。
自らのフェロモンは凶器だ。制御しているつもりでも、漏れ出るだけで脆弱な精神を破壊しかねない。
だというのに。
あの男は、まるで春風の中にいるかのように、平然とシチューを食べている。
イグニスは興味を引かれ、足を踏み出した。護衛たちが慌てて止めようとするが、手で制する。
コツ、コツ、コツ。
軍靴の音が近づくにつれて、周囲の騎士たちは泡を吹いて気絶しそうになっていた。圧力が増していく。意図的に出力を上げたのだ。
「……おい」
頭上から降ってきた低い声に、ルッツは顔を上げた。
「はい? 何か用ですか?」
敬語だが、そこには怯えも媚びもない。まるで近所の兄ちゃんに話しかけるような気安さだ。
周囲の時間が止まった。
イグニスは眉をピクリと動かす。
「貴様、俺の気が平気なのか?」
「気、ですか?」
ルッツは首を傾げた。
「少し香水がきついかなとは思いますが、食事の邪魔になるほどではありません」
香水。
国を揺るがすほどの覇気を、こいつは香水と言ったのか。
イグニスの喉の奥で、ククッという音が鳴った。それは次第に大きくなり、盛大な笑い声となって食堂に響き渡った。
「ハハハハハ! 香水だと! 俺のフェロモンを!」
周囲の騎士たちは絶望的な顔をしている。「終わった、あいつ殺される」という心の声が聞こえてきそうだ。
しかし、イグニスの瞳に宿っていたのは殺意ではなく、強烈な歓喜だった。
彼は身を乗り出し、ルッツの顔を覗き込んだ。至近距離。整いすぎた美貌が迫る。
そこで初めて、イグニスは鼻を鳴らした。
「匂いが……しないな」
「ええ、まあ。薬で抑えていますから」
ルッツは平然と嘘をつく。
イグニスは納得したように頷いた。
(なるほど。強烈な抑制剤を使っているのか。だが、薬だけで俺の威圧を防げるわけがない。つまり、こいつ自身の精神力が、俺の格に匹敵するほど強靭だということか)
凄まじい論理の飛躍だった。
イグニスの中で、ルッツの評価が爆上がりしていく。
ただのΩではない。自分の支配を受け付けない、気高き魂を持ったΩ。
退屈な世界に、突然現れた異物。
イグニスの胸の奥で、燻っていた狩猟本能が火を噴いた。
「名は?」
「ルッツ・アークライトです」
「ルッツか。……いい名だ」
イグニスは獰猛な笑みを浮かべ、ルッツの顎を指先でクイと持ち上げた。
「覚えておく。これほど滾(たぎ)るのは久しぶりだ」
そう言い残し、イグニスは踵(きびす)を返した。嵐のように去っていく背中を見送りながら、ルッツは首をひねった。
「……なんだったんだ?」
「お、お前ぇぇぇぇ!」
カイルが涙目で飛びついてきた。
「死ぬかと思った! なんだあの対応! 心臓がいくつあっても足りねえよ!」
「そうか? 別に普通だったろ」
「普通じゃねえよ! 殿下が笑ってたぞ! あの『氷の処刑人』が!」
ルッツは残りのパンを口に放り込みながら思った。
(やっぱり、この世界のαってのは情緒不安定なのが多いな。関わらないようにしよう)
しかし、その決意は即座に崩れ去ることになる。
翌日から、ルッツの日常は一変した。
「ルッツ、決闘だ」
朝の訓練場に、当たり前のように第一王子が現れたのである。
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