いい服

暇兎

いい服

11月29日——いい服の日


いい服の日だからか、普段あまり開いていない古着屋が、珍しく店を開けていた。外観はボロボロで、店内には客が一人だけ。近くに住む、貧乏な男子大学生、黒川漆夜「くろかわ シツヤ」(21歳)がその客だった。


両親は離婚していて、家庭の関係もあまり良くない。両親ともに、漆夜の存在が自分たちの不幸な結婚の原因だと思っている。高校の頃から一人暮らしを始め、いくつものアルバイトを掛け持ちし、節約しながら生活してきた。決して裕福ではないが、なんとかやっていけている。


今年の冬は例年より寒く感じられた。漆夜の冬物は古くて着られるものがほとんどなく、今日はちょうどいい服がないか古着屋を覗いてみたのだ。もちろん、この店を選んだのも、安そうだからだ。


店内は雑然としていて、服は無造作にいくつかのハンガーに掛けられている。レジのそばには小さな札が置かれ、「料金はすべて100円」と書かれていた。漆夜の予想より安かったが、服の状態は正直あまり良くなかった。


店内を何度も回りながら、どうにか着られそうな服を二着ほど選んだ後、会計に向かおうとしたそのとき、店の隅で一着のコートが目に留まった。ほかの服とは雰囲気が違い、状態も意外と良さそうだ。近づいてよく見ると、少し埃はあるものの、新品と変わらないくらい綺麗だった。


「これ……本当に100円なわけないだろ……」


そう思いながら、漆夜はコートを手にレジへ向かった。レジには「料金はここへ」と書かれた箱が置かれている。店主は小さなテレビで競馬中継を見ながら紙を握りしめ、ほとんど画面に貼りついたような姿勢だった。


「えっと……このコートも――」


言いかけると、店主は眉をひそめ、顔も上げず、ただいらだたしげに手を振った。


「全部同じだ。100円だ。箱に入れとけ。」


口調には「邪魔すんな」という雰囲気が漂い、一言でも余計に話すと競馬に影響が出そうなほどだった。漆夜は一瞬戸惑ったが、ラッキーだと思い、300円を箱に入れて店を出た。


「いい服の日に、いいコートを見つけられるなんて、ちょっとした幸運かも」


そう思いながら漆夜は家に帰った。コートを手に取り、もう一度よく見ようとしたそのとき、スマホが震えた。漆夜はハッとした。先日送った履歴書の結果が、ちょうど今日届いていたのだ。


コートを床に置き、震える手でメールを開くと――


「書類選考結果および一次面接のご案内(黒川 様)」


という件名が目に入った。


「やった!やっぱり今日、運がいいじゃん!」


漆夜はメールを読み進め、面接は12月3日午前10時半とのこと。その日は午前中授業がなく、休みを取る必要もない。


「よし、あと数日ある。しっかり準備しよう」


そう思った矢先、スマホの左上の時刻を見ると13:13。


「やば、バイトに急がないと……」


慌てて家を飛び出した。



18:57、コンビニのアルバイトを終え、漆夜はようやく家に帰った。手には社員割引で買った半額のお弁当の袋。急いで食べ終え、コートをクリーニングに出そうと思ったが、ふと考え込む。


「え……?このコート、こんなに綺麗だったっけ……」


考え込むのをやめ、試着してみると、意外にもぴったりで、まるで自分のために作られたみたいだった。


試着を終え、コートをクローゼットに掛けると、漆夜は課題レポートに取り掛かり、面接の準備も始めた。気づけばもうすぐ23時。明日は早朝からバイトなのに、枕元のスマホの充電残量は危険な状態のままだった。



11月30日「日」


翌日、普段は勉強やバイトで忙しく、まともに休めない漆夜は、珍しく自然に目を覚ました。――自然に?耳にスマホのアラームは届いていない。目が覚めた瞬間、漆夜の胸に不安が広がった。まだ眠気が残る状態から、一気に目が冴えた。


慌ててスマホを手に取ろうとするが、何度かうまく掴めず、ようやく手にしたときには、スマホが完全にシャットダウンしていた。部屋には時計もなく、腕時計もつけていない。漆夜が時間を知る手段は、スマホかパソコンだけだ。


「そうだ、パソコン!」


スマホを充電しつつ、パソコンの前へ走る。幸い、パソコンは残量こそ少ないものの、まだ電源は落ちていなかった。画面を見ると、すでに9時47分。カフェでのバイト開始時間、8時半はとうに過ぎていた。心臓が一瞬止まったかのような感覚に襲われる。ちょうどそのとき、充電が完了したスマホが自動で起動し、未接着信がいくつも届いていることに気づいた。


「すみません、店長……今日寝過ごして……」


慌てて折り返すと、優しい声が返ってきた。


「黒川君、大丈夫だよ。心配したよ。でも今日のバイトは大丈夫、佐藤君に頼んだから。あとで彼とシフト調整してね」


怒られず、むしろ心配してくれた店長に、漆夜は何度も頭を下げた。簡単なやり取りの後、通話は終了し、漆夜はようやく少し安堵した。


簡単に身支度を整え、朝食を済ませたのは10時過ぎ。通常なら12時半までバイトだったはずの時間が突然空いたことで、漆夜は「この時間を無駄にできない」と面接の準備に取り掛かる。



14時30分、スマホのアラームが鳴る。次のバイトに向かうためにセットしたものだ。漆夜は午前中の準備を終え、昼食も簡単に済ませていた。


「もう、こんな時間か……」


アラームを止め、必要なものを整理して自転車に向かう。鍵を差し込み、いつも通り回す――「パキッ」。


耳をつんざくような乾いた音が響いた。漆夜は凍りつく。


「……まさか」


鍵が折れ、芯に残ったままだった。手で抜こうと試みるが、整った断面のため素手ではどうにもならない。バイトに遅れまいと、漆夜は自転車を諦め、急いでバスに向かった。



バス停まで全力で走り、発車前ぎりぎりに乗車。だが、座って数分後、アナウンスが流れる。


「前方で事故が発生したため、現在大幅な遅延が出ております。ご了承ください」


「最悪だ……」


時計の針は刻一刻と進むのに、バスはほとんど動かない。漆夜はスマホを取り出し、店長に連絡しようとする。すると、既読になっていなかった店長からのメッセージが届いていた。


「今日、店内改装のため営業なし。黒川君の今日のバイトは不要です」


「くそ……俺、何やってんだ……本当にバカだな……」


漆夜は頭を抱える。もし昼にメッセージを確認していれば、自転車の鍵も折れず、バスも焦らずに済んだだろう。小さな不運が積み重なったことを実感し、ため息をつく。



20時04分、ようやく家に帰宅。ほとんど何もしていないのに、異常な疲労感に包まれていた。道中、さらに小さな不幸が続く。歩いているとつまずきそうになり、レストランでは好物の料理が売り切れ、スマホのナビに迷わされ、細い路地に誘導されかける。


「今日は本当に不幸の極みだ……」


漆夜は呟きながら、家に着くと洗面を済ませ、ベッドに倒れ込むようにして眠りについた。


12月1日「月」


11:40

「チーン!」授業が終わり、漆夜は2コマ分の授業を終えて荷物を片付け、食堂へ向かおうとした。途中、二人の女子学生の会話が耳に入り、思わず足を止める。


「ねぇ、〇〇ちゃん聞いた?あの不幸な服の話」

「え?あの都市伝説のこと?」

「そう、誰かが着るとだんだん不幸になる服らしいの。着た人から離れず、その人が不幸で死ぬまでずっと……」

「え〜こわ!」


二人の声は次第に遠ざかり、漆夜には聞こえなくなる。

「いつからこんなこと気にするようになったんだ……昨日はただ運が悪かっただけなのに」

漆夜はため息をつき、頭を振りながら食堂へ向かった。


しかし、会話はまだ続いていた。


「しかも、あの服は着た人の他の服に変わって、知らずに着てしまうこともあるらしいよ!」

「そんなのありえないよ、ただの伝説でしょ?」

「あれは本当かもしれないよ。もしかしたら〇〇ちゃんが今着ている服も――」

「もう!怖がらせないでよ。私、怖がりだって知ってるでしょ!」

「はいはい、ごめんね。もう言わないから」


漆夜は家に帰ると、もうすぐ面接があることを思い出した。入学式以来、一度も着ていないスーツを取り出す。長期間着ていなかったため、スーツにはほこりが積もっていた。

「洗濯に出さないと……」

漆夜は時間を見ると12:27。コンビニのバイトまで1時間以上あり、途中に洗濯店もあるのでちょうどいいと考えた。

漆夜はスーツを整え、コートを羽織って家を出た。


歩きながら漆夜は、なぜか晴れた昼間なのに陰鬱な寒気を感じた。普段ならにぎやかな通りも、人影はまばらだ。都市伝説のせいか、誰かに見られているような気がして少し怖くなる。しかし周囲を見ても人影はなく、防犯カメラも自分を向いていない。漆夜は安心し、「都市伝説なんて本当にあるわけない」と思った。

だが、背後の電柱に止まったカラスの視線には気づいていなかった。


洗濯店に着くまで特に不運なことは起きなかった。「やはり昨日はただ運が悪かっただけか」と思いながら、漆夜は店員とスーツのクリーニングについて話し、3日の午前中までに受け取れることを確認した。準備を終え、コンビニへ向かおうと店を出る。


その時、店員に呼び止められた。

「黒川さん、スマホ落としています!」

漆夜は立ち止まり、自分の不注意を思う。身につけていないことに気づいていなかったのだ。

一歩戻ろうとしたその時、風が吹き、「シュルル」と破空音が耳をかすめ、続けて背後から「ドンッ」と響く。

振り返ると――ちょうど立っていた場所に花瓶が落ちていた。漆夜は息を呑み、世界が一瞬静まり返ったように感じた。


「黒川さん!大丈夫ですか!」

店員の呼び声で漆夜は我に返る。

「怪我はありませんか?」

漆夜はスマホを受け取り、怪我がないことを確認すると、急ぎの用事があることを告げた。店員は安心して送り出した。


口では「大丈夫」と言いながらも、漆夜は心の奥で恐怖を感じていた。もし店員が呼び止めなければ――「まさか、このコートが……?」

漆夜はコートをじっと見つめ、異変がないか確認する。しかし普通のコートと変わらない。念のため、今日は着ないことにした。命には代えられない。


漆夜はコートを抱え、ゆっくりコンビニへ向かう。道中、カラスの数は増え、鳴き声も騒がしくなり、すべて漆夜とコートを見つめているかのようだった。漆夜は先ほどの出来事に気を取られ、カラスに気づいていなかった。


18:30

コンビニのバイトが終了。特に変わったことはなかったが、漆夜はぼんやりしていたため、店長に少し叱られた。制服を脱ぐと、ふと思いつく。

「なんで、このコートを持って帰る必要があるんだろう……店に置いておけばいいのでは?」

もしコートに問題があるなら、家より店に置いた方が安全だ。今のところ、コートが原因かどうかは確実ではない――漆夜はそう考え、コンビニを後にした。


家に戻ると19:12。道中、不運なことは起きず、カラスもいなかった。

「本当にコートのせいなのか……どう処理するか考えないと……捨てるか、それとも……」


その時、窓の外からカラスの鳴き声が響く。漆夜は条件反射で身を震わせ、腕に鳥肌が立った。

「チーン〜〜チーン〜〜」


玄関のチャイムが鳴る。漆夜は身をすくめ、机の上のハサミを手に取って構える。心臓の鼓動もはっきり聞こえる。

「ドクン ドクン」


猫眼から外を見るが、何も見えない。

「ドクン ドクン」


突然、人の頭が飛び出す――驚いて後ろに数歩下がり、床に倒れる。だがすぐに気づく、先ほどのは人間の頭ではなく、配達員だった。漆夜は思わず笑う。「まさか、コートが自分で来るわけないよな」


配達員を確認した漆夜は恐怖を収め、玄関を開けて荷物を受け取る。少し重みがあり、住所・名前・電話番号は合っているが、最近購入した覚えはない。


段ボールを開けると、華麗な木箱が入っており、漆夜は中身が高価なものかと想像する。疑問を抱きつつ開けると――


「……おい。......うそ、だろ......?」


漆夜は箱の中のものを見つめ、冷や汗が止まらない。それは、コンビニに故意に置いてきたコートそのものだった。


22:32


この三時間ほどのあいだ、漆夜は何度も服を“処分”しようと試みた。

だが効果はまるでなく、それどころか危うく自分の命を落としかけた場面さえあった。


たとえば、ハサミで切り裂こうとしたときのことだ。

手に取った瞬間、理由もなく足がもつれて倒れ込み、ハサミは手を離れて宙を舞い——

倒れた漆夜の目の前に、刃先が突き立つように落ちてきた。

ほんの少しでもズレていたら、笑って済ませられる状況ではない。


それでもどうにか“破壊”したつもりにはなった。

だが三十分もすれば、どんな傷を付けても衣服は元の姿に戻ってしまう。


「……これ、いったい……なんなんだよ……」


ベッドに倒れ込んだ漆夜は、底の見えない絶望に沈んだ。

学校で聞いた、あの服にまつわる噂がふと脳裏によぎる。


「くそ……。まさか俺……このまま死ぬのを待つしかないのかよ……。

 こんな馬鹿みたいなモンに……殺されるなんて……」


言葉はだんだん小さくなり、怒りは無力感に、そして諦めへと変わっていく。

本当に、もう打つ手が思い浮かばないのだ。


――人は極限まで追い込まれたとき、最後の一手をどこからか拾い上げる。


漆夜自身、今まさにその極限に立たされていた。


「……そうだ。都市伝説なら、元のスレに“解決法”みたいなのが残ってるはずだろ……」


わずかに残った希望を握りしめるように、震える手でパソコンを開き、検索を始める。

胸がざわつくのは、これが本当に最後の望みだからだ。


ここにも答えがなかったら——

漆夜にはもう、死を待つ以外の未来がなくなる。



どれほどの時間が経ったのか、漆夜にはもう分からなかった。


「くそっ……なんで、どれも元スレじゃないんだよ……。釣りか、宣伝ばっかりじゃねえか……」


必死に探し続け、いくつかそれらしい情報には辿り着いた。

だが、決定的なものはどこにもない。

見つかるのは、もっともらしい体裁をした偽物の投稿ばかりで、裏では商品やサイトへの誘導が張り巡らされている。


「……クソ!」


苛立ちを抑えきれず、漆夜は机を思いきり叩いた。


その拍子に、無意識のままスマホを手に取り、時刻を確認する。


――00:00。


そして、ふと顔を上げてパソコンの画面を見る。


そこには、いつ、どうやって開いたのか分からない一つのスレッドが表示されていた。



「この投稿を意図的に探している時点で、

あなたはすでにそれに出会っている。


破壊できず、捨てることもできず、

身に着けた者に不幸をもたらす衣服。


最初に起こる不幸は、たいていごく些細なものだ。

鍵が見つからない。

足を滑らせる。

物が壊れる。


どれも日常生活の中で起こり得る、ありふれた出来事に過ぎない。

それらが『不自然に感じられない』ことこそが、

呪いが始まった証拠である。


不幸は、時間とともに少しずつ重くなっていく。

財産を失い、

怪我をし、

やがて『運が悪かった』では済まされない事故が起こり始める。


最終的には、命に関わる段階に至る。」


……(中略)……



儀式について

(所要時間:約10分)


注意事項


※以下のいずれか一つでも満たされない場合、儀式は失敗する。


・正午十二時以降に開始すること

・午後一時(十三時)までに終了すること

・儀式開始前十二時間以内に、その衣服を誰も着用していないこと

・必ず室内で行うこと

・儀式開始後、儀式範囲から離れないこと


準備するもの


・十分な量の塩

・小さな器に入れた水

・蝋燭 一本

・自分の血 一滴



儀式の手順


まず、床に塩で閉じた図形を描く。

形は問わないが、衣服と実行者の両方がその内側に収まること。


衣服を中央に置き、その上に多めの塩を撒く。

その塩の山の上に蝋燭を立てる。


自分の血を一滴、水の中に落とし、

手の届く位置に置いておく。


蝋燭に火を灯す。

この瞬間から、儀式は開始される。


蝋燭から黒い煙が立ち上り、

同時に下の塩が徐々に黒ずんでいく場合、

儀式は正常に進行している。


そのまま待つ。

位置を変えない。

衣服には触れない。


煙が次第に薄くなり、

蝋燭の下の塩がほぼ完全に黒くなったら、

用意しておいた水を注ぎ、蝋燭の火を消す。


火が消えた後、

衣服が自ら煙を上げ始めた場合、

手順は正しい。


さらに待つ。


約二分後、

衣服は元の形を失い、灰へと変わる。


ここまで到達して、初めて儀式は完了となる。



漆夜は、ノートに走り書きで要点をまとめながら、

いつの間にか開かれていたそのページを食い入るように読み続けていた。


儀式の説明が終わったところで、

まだ下に続きがあることに気づき、

次の小見出しに目をやる。


――「儀式完了後について」。


「……それは、あとでいいか。

 まずは、手順をもう一回ちゃんと確認しないと……」


独り言のように呟き、漆夜は儀式の工程を何度も読み返す。

一つひとつ、条件を頭に叩き込み、

間違いがないかを確かめる。


そして、改めて続きを読もうとした、その瞬間。


瞬きをした一拍の間に、

画面からそのスレッドは消えていた。


表示されているのは、

先ほどまで自分が使っていた「元スレ」を探す検索画面だけ。


右下の時刻表示は――00:15。



十二月二日(火) 9:45


起きた時間はそれほど早くはなかったが、実のところ、漆夜はほとんど眠れていなかった。


一つは不安だった。

あの儀式は、本当に効果があるのだろうか。

もし何の意味もなかったら——そんな考えが頭から離れなかった。


もう一つは、抑えきれない高揚感だった。

もし儀式が本当に成功したら。

もしこの呪いが終わるのだとしたら——

自分は、元の普通の生活に戻れるのではないか。


不安と期待、その相反する感情が絡み合い、神経は休まることがなかった。

結局、空が明るくなってからようやく眠りについたものの、眠りは浅く、決して質の良いものではなかった。


儀式のため、漆夜は今日一日の予定をすべて空けていた。

授業も、アルバイトも、すべて休みにしてある。


家の中を見回しながら、必要なものを確認する。


「塩……これじゃ足りなさそうだな。蝋燭もない……

あ、マッチも買わないと」


不足している物を確認し、少ししたら百円ショップへ出かけるつもりだった。


もちろん、今日はあのコートを着ていくはずがない。


昨夜、あのページが消えたあと、漆夜はもう一度探してみた。

だが、どれだけ検索しても見つからなかった。

確かに自分のパソコンで開いたはずなのに、履歴すら残っていない。

まるで、唐突に現れて、唐突に消えたかのようだった。


家を出る前、漆夜は意味深にコートを二度見した。

確かにそこにあることを確認してから、ようやく安心して外へ出る。


今日はあの服を着ていないせいか、烏の姿はかなり少なかった。

それでも、街の様子はどこか異様に静かだった。


車がときどき通り過ぎる以外、人影はほとんどない。

その静けさが、漆夜の背中にじわりと冷たい感覚を走らせる。


ゆっくりと歩きながら、百円ショップへ向かう。


そのとき、背後から烏の鳴き声が聞こえた。

反射的に振り返るが、声の主は見当たらない。


「……もう飛び去ったのかな?」


そう思い、前を向き直した瞬間——

視界いっぱいに、人の顔が飛び込んできた。


「っ——!」


驚いて二歩ほど後ずさる。

だが、よく見ればそれは電柱に貼られた選挙ポスターだった。


漆夜は苦笑する。

自分はいつから、こんなにも臆病になったのだろう。


「……全部、あの服のせいだ」


そう思いながら歩き出した、その直後だった。


足元で、不安定な石を踏んだ。


気づいたときには、すでに重心を失っていた。

身体は前のめりに倒れ、車道へと投げ出される。


正面から車が迫ってくる。


「まずい——!」


漆夜は思わず目を閉じた。


だが、数秒経っても、想像していた痛みは訪れなかった。


恐る恐る目を開ける。


車は、寸前のところで停止していた。


運転手が何度も確認し、衝突していないこと、怪我もなく病院へ行く必要もないと分かると、そのまま去っていった。

漆夜はまだ動悸が収まらず、それ以来、異常なほど慎重になった。歩くときも、人道の一番内側を選ぶようになっていた。


11時21分。

漆夜は自宅に戻った。先ほどの出来事のせいで、道中ずっと神経を張り詰めていたため、思った以上に時間がかかってしまったが、幸いにも、命の危険を感じるような出来事はそれ以上起こらなかった。


静かに時を待ち、時計の針が12時00分を指す。

漆夜は書き留めておいた内容どおり、儀式の準備を始めた。


まず塩で閉じた図形を描き、次にその服の上にも塩を振り、蝋燭を立てる。

最後に指先を針で刺し、滲んだ血を水に垂らした。

これで準備は整った。


漆夜は塩で描かれた図形の中へ足を踏み入れ、マッチで蝋燭に火を灯す。

こうして、儀式は正式に始まった。


掲示板に書かれていた通り、蝋燭から立ち上る煙は黒く、足元の塩も徐々に黒ずんでいった。

漆夜は胸の奥がわずかに高鳴るのを感じていた。

儀式が本当に効果を持つかもしれないという期待と、思っていた以上に手順が単純で、自分がやることがほとんどないという安堵。その二つが入り混じっていた。


彼はその場に胡坐をかき、次の段階を待つことにした。


そのときだった。

「ドン、ドン、ドン」と、鈍い音が響いた。


――誰かが玄関を叩いているのか?

こんな時に……。留守だと思わせればいい。


そう考えた漆夜だったが、耳を澄ますと、音は玄関ではなく、ベランダの方から聞こえてくることに気づいた。

何かが、ベランダのガラス戸を叩いている。


神経が一気に張り詰める。

カーテンが閉まっているため、外の様子は分からない。

両端のわずかな隙間から、慎重に外を窺った。


晴れ渡った真昼のはずなのに、外から差し込む光はどこか薄暗い。

叩く音は、途切れることなく続いていた。


そのとき、黒い影が視界を横切った。

一瞬だけ見えたのは――黒い羽。


……カラスだ。


次の瞬間、そのカラスがこちらに気づいたように引き返し、血のように赤い目で漆夜を見据えた。

カーテンの向こうに、次々と影が増えていく。

叩く音の間隔も、次第に短くなっていった。


――このままじゃ、ガラスが割れるんじゃないか。


不安が胸を締めつけ、心臓の鼓動がやけに大きく響く。


やがて、音は唐突に止んだ。


……行った、のか?


そう思った直後、轟音が響いた。

ベランダのガラス戸は――やはり、砕け散った。


吹き込む風にカーテンが舞い上がる。

外には、幾重にも重なる赤い視線があった。


背筋に冷たいものが走り、全身に鳥肌が立つ。

何かを掴んで身を守ろうとした瞬間、漆夜は思い出した。

――円から、出てはいけない。


思考が空回りする中、ふと視界の端に蝋燭が映った。

煙はいつの間にか白く変わり、塩は完全に黒ずんでいる。


次の瞬間、数羽のカラスが一斉に漆夜へと飛びかかってきた。


迷っている暇はなかった。

彼は素早く手元の器を掴み、その中の水を服にかける。


蝋燭の火が消えた。


――そして、音が消えた。


そこにはカラスの姿などなく、外は相変わらず眩しいほどの晴天だった。

ベランダのガラス戸も、最初から何事もなかったかのように、静かに立っている。


……ただの、幻覚だったのか?


そう思った矢先、例のコートが突然、静かに燃え始めた。

やがて、それは一片の痕跡も残さず、灰となって消えた。


儀式は、成功したのだ。


これでもう、理由の分からない不運に怯える必要はない。

ようやく、普通の生活に戻れる。


部屋を片付け終えた漆夜は、ベッドに横たわり、この数日間の出来事を思い返していた。

本当に、楽な時間ではなかった。


しかし、時間は待ってくれない。

明日は面接だ。

この服のせいで、準備していたこともほとんど頭から抜け落ちてしまっている。

今からでも、きちんとやり直さなければならない。


そうして面接の準備に集中する漆夜は、気づかなかった。

ベランダに、数本のカラスの羽が、静かに舞い落ちていることに。


12月3日(水)


漆夜は久しぶりにぐっすり眠り、早起きして面接の準備をした。昨日、あの不幸のコートが灰になって以来、漆夜の運気はだいぶ回復していた。歩いている途中、靴ひもを結ぼうとしてしゃがんだ瞬間、どこからか飛んできた一万円札を拾ったのだ。もしかすると、儀式で吸い取られていた運気が少しずつ戻ってきているのかもしれない。


「そうだ、スーツを取りに行かないと!」


しばらくして、クリーニング店に到着。


番号を確認した店員が衣服を取り出す。

「黒川さん、こちらがお預かりの衣服です」

漆夜は店の入口で危うく事故に遭いかけたため、店員には強い印象を残していた。


「本当だ……洗ったら新品みたいだ」

「(笑)これからもぜひご利用くださいね、黒川さん」


店員と軽く会話を交わし、代金を支払うと、漆夜は面接会場へ向かうために急いで電車に乗った。早く着きすぎるかもしれないが、遅刻するよりはましだ。


――『儀式完了後について』

――『儀式が成功しても……すぐに安全になるわけではない……』


「え?黒川さん、スーツを二着取りに来たんですか?もう一着もあるの?」


――『その後二十四時間以内に、衣服は別の姿で再び現れる。』


「わあ、本当に新品みたいだな……」漆夜はスーツをじっくり見ながら感嘆した。


――『出現場所は特定できず、ただし、儀式を行った部屋に現れることはない。』


「また渋滞か……この数日、事故多すぎじゃないか」


――『この二十四時間のあいだに、再びそれを着用しなければ、呪いは完全に終わる。』


…………


「聞いた?大学で先輩が大手企業の面接当日に事故に遭ったらしいよ」

「え、本当?……かわいそうに……」


――


ある古着屋の店内


「え?誰が商品をこんなところに置いたんだ……後で絶対に叱らないと、このガキども、仕事がなってない!」

店長は衣服を拾い上げ、じっくりと見つめた。

「このスーツ、品物いいな……高値で売れるかもしれない……」



完......?

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