第3話 死神と元聖女の、ろくでもない逃亡生活

 降りしきる雨は上がり、雲の隙間から差し込む月光が濡れた路面を照らしていた。


 王都郊外、街道沿いにある打ち捨てられた宿場町。その一角にある荒れ果てた民家の中で、ジンは焚き火を囲んでいた。

「……おい。いつまでそうしているつもりだ」

「……あと、五分だけ。いえ、あと十分だけお願いします」

 ジンの隣で、リアナが彼の外套の裾をぎゅっと握りしめたまま、うとうとと船を漕いでいる。


 数時間前、彼女は「聖女」であることを辞め、自らの意思で闇の力を解放した。


 その精神的消耗は計り知れないはずだ。

 泥にまみれ、死の恐怖に晒され続けた少女は、今、ようやく訪れた「毒にも薬にもならない静寂」に、これ以上なく依存していた。

「寝るなら向こうの藁の上で寝ろ。俺はこれから武器の手入れをする」

「嫌です。離れたら、またジン様がいなくなってしまう気がして……」

「……チッ。勝手にしろ」

 ジンは毒づきながらも、握られた裾を振り払うことはしなかった。


 彼は懐から、使い古した砥石を取り出し、愛用の短剣を研ぎ始める。シュッ、シュッという規則正しい音が、静かな室内に響く。

 ふと、ジンは自分の手を見た。

 数えきれないほどの人間を屠ってきた、血生臭い暗殺者の手だ。


 一方で、リアナの手は、たとえ力が反転したとはいえ、まだ白く、細い。本来なら一生、神殿の奥底で守られているべき手だった。

「……お前、後悔してないのか」

「え……?」


 半分眠っていたリアナが、ぼんやりと顔を上げる。

「国を捨て、聖女の肩書きも捨てた。お前はもう『救世主』じゃない。ただの指名手配犯だ。俺と一緒にいれば、一生、まともな飯も、温かいベッドも手に入らないかもしれないんだぞ」

 リアナは少しだけ瞬きをした後、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。


 それは、処刑台で見せた透明な涙よりも、ずっと人間らしい、体温を感じさせる笑顔だった。

「後悔なんて、していません。だって、あの神殿にいた頃よりも、今の方がずっと……『お腹が空く』んです」

「……は?」

「以前の私は、義務感だけで生きていました。でも今は、ジン様がくださったあのミートパイを、またいつか食べたいって……そう思えるんです。それって、生きてるってことですよね?」

 ジンは言葉を失った。

 暗殺者として生きてきた自分にとって、食い物はただの燃料だ。だが、この少女にとって、それは「生きる理由」そのものになったのだという。

「……なら、しっかり食っておけ。明日には、王都の精鋭だけじゃなく、賞金稼ぎどもが山ほど湧いてくる」

「はい。その時は、私がジン様をお守りします」

「……笑わせるな。お前に守られるほど、俺は落ちぶれちゃいねえよ」

 ジンはぶっきらぼうにリアナの頭に手を置き、乱暴に撫でた。


 それが彼なりの照れ隠しであることを、リアナはすでに察し始めていた。

 翌朝。

 宿場町を囲むように、数条の殺気が立ち込めた。


 ジンは即座に目を覚まし、眠っているリアナの口を手で押さえる。

「……しっ。客だ」

 リアナが緊張に体を強張らせる。

 ジンの感覚が、周囲の配置を読み取る。北に三人、東に二人。いずれも一兵卒ではない。魔力の練り方からして、王国直属の暗殺部隊「影の牙」の生き残りか。

「ジン、様……」

「心配するな。……だが、今回は少し様子が違う」

 ジンの目が、窓の外、一箇所に固定される。

 そこには、他の連中とは明らかに異質の、圧倒的な『不快感』を放つ男が立っていた。


 漆黒の法衣を纏い、手には禍々しい髑髏の杖。


 王国禁忌魔導局の局長にして、リアナを処刑台へ送るよう進言した黒幕の一人、大魔導師バルカスだ。

「おやおや、見つけましたよ。迷子の聖女様と、薄汚い鼠。……いや、今は『元』聖女様でしたかな?」

 バルカスの声が、増幅魔法によって宿場町全体に響き渡る。


 彼は杖を地面に突き立てた。その瞬間、大地から無数の死者の腕が這い出し、二人が潜伏している民家を包囲していく。

「リアナ様、あなたが『闇』に堕ちたという報告を聞いた時、私は歓喜しました。聖なる力は制御が難しいが、絶望に染まった魂ほど、魔法の触媒(資材)として優れたものはない……!」

​「ジン様、あれは……!」

「ああ、知ってる。死霊術の専門家だ。……生きた人間を材料にするのが趣味の、俺以上の外道だよ」

 ジンはリアナを背後に庇いながら、二振りの短剣を抜いた。


 だが、バルカスの背後から、さらに別の影が現れる。


 それは、全身を機械的な鎧で包んだ、人型とは思えない異形の騎士だった。

「——『処刑執行機エクスキューショナー』。それが、今回あなたたちのために用意した、対・死神用の兵器です」

 異形の騎士が、蒸気を吹き上げながら巨大な大剣を構える。


 その大剣には、かつてジンが所属していた暗殺組織の紋章が刻まれていた。

「……なるほどな。古巣の技術まで持ち出してきたか」

 ジンは仮面の下で、獰猛な笑みを浮かべた。

 絶体絶命の状況。だが、彼の心にはかつてない高揚感があった。


 守るべきものがいる。

 ただそれだけのことが、死神と呼ばれた男の刃を、神殺しの業へと変えていく。

「リアナ。さっき、俺を守ると言ったな」

「……っ、はい!」

「なら、その闇の魔力、全部俺の影に注げ。……この世界の『正義』がどれほど薄汚いか、あのジジイに刻み込んでやる」

 リアナの手が、ジンの背中に触れる。

 冷たくも心地よい、漆黒の力がジンの体内を駆け巡った。


 暗殺者の影が、陽炎のように巨大に膨れ上がる。

「——るぞ」

 死神の咆哮が、朝焼けの空を切り裂いた。

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