第3話 通達
朝の光は、昨日と変わらず柔らかかった。
それでもアリシアの胸の内だけが、はっきりと違っていた。
——あの時の人。
名も知らない。
立場も知らない。
それでも、目が合った一瞬が、何度も思い返される。
自分でも驚くほど、その存在が心に残っていた。
「……愚かだわ」
小さく呟く。
婚約を控えた身で、こんな感情を抱くなど許されない。
分かっている。
分かっているからこそ、切り捨てなければならない——はずだった。
「本日、王宮より正式な通達がございます」
ノアールの声が、静かに現実を連れてくる。
アリシアは、ゆっくりと頷いた。
「ええ」
それ以上、何も言わなかった。
言えば、何かが零れてしまいそうだったから。
玉座の間は、ひどく広く感じられた。
重厚な装飾と、冷たい空気。
王命は、いつも美しい言葉で語られる。
王国の安定。
血筋の調和。
未来への責任。
「アリシア・ヴァレンティア」
名を呼ばれ、彼女は一歩前に出る。
「汝は、第一王子ディーン殿下の婚約者として、正式に迎えられる」
その言葉が、胸に落ちる。
拒むことはできない。
疑問を挟む余地もない。
「……謹んで、お受けいたします」
声は、思ったよりも冷静だった。
それが、余計に苦しい。
視線を伏せたその瞬間、脳裏に浮かんだのは——
あの回廊で出会った、名も知らぬ男性の姿だった。
(どうして……今)
忘れるべきなのに。
忘れなければならないのに。
ノアールは、少し離れた場所から、その背中を見ていた。
彼女の肩が、ほんのわずかに強張ったのを見逃さない。
それでも、彼は何も言わない。
言葉は、時に彼女を縛る鎖になる。
今は、ただ支えであることを選んだ。
同じ頃、別の場所でディーンは、同じ通達を受けていた。
「……婚約は、予定通り進める」
家臣の声を聞き流しながら、彼の脳裏にも浮かぶ。
回廊で出会った、あの女性。
控えめで、しかし芯のある瞳。
一瞬で、心を攫われた存在。
(皮肉だな)
顔も知らない婚約者。
心に残る、名も知らぬ女性。
王子である以上、選ぶ権利などない。
それは分かっている。
それでも、胸の奥に湧き上がる苛立ちは、抑えきれなかった。
——もし、あの時の女性が。
思考を振り払い、彼は立ち上がる。
知らないままでいい。
そう言い聞かせるほど、気持ちは逆らっていく。
アリシアも、ディーンも、
同じ夜空を見上げながら、同じ存在を思い浮かべていた。
互いに、それが運命の相手だとは知らないまま。
そして、運命は静かに、残酷に、
二人を再び引き寄せようとしていた。
王国が彼女を選べなかった日 みにとまと @minitomato1023
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