チート過ぎる転生魔法使いは、拳でしか解決しない

五平

第1部:再起・隠遁の拳編

第1話:初級魔法(絶滅)

 肺の奥が、ひどく冷たかった。

 吸い込んだ空気は、元の世界では決して味わうことのなかった、どこまでも澄み渡り、それでいて針で刺すような鋭い生命感に満ちている。

 ゆっくりと目を開ければ、そこには見たこともない巨木がそびえ立っていた。樹皮は龍の鱗のように硬質で、葉の一枚一枚がエメラルドのような深い輝きを放っている。


「……ここが、異世界か」


 口から漏れた声は、自らのものとは思えないほど若々しく、力強かった。

 三十路を過ぎ、すり減るような毎日を送っていたサラリーマンの記憶。それが今では、遠い前世の夢のように感じられる。

 転生の儀。あの真っ白な空間で、自称・神を名乗る存在が言っていた言葉が脳裏に蘇る。


『君には、この世界の理を上書きするほどの魔力を与えよう。適当に魔法を覚えて、楽しくやってくれ』


 その言葉の軽さを、この時の俺はまだ、文字通り「適当」に受け取っていた。

 俺は自分の体に意識を向けた。血管を流れる血液とは別に、もう一本、熱く太い大河のようなエネルギーが全身を巡っているのが分かる。それが「魔力」と呼ばれるものなのだろう。

 視界の端に、スマートフォンの通知のような半透明のウィンドウが浮かび上がった。


【スキル:初級魔法(火炎)を獲得しました】

【特性:自動回収(オート・ルート)が有効です。討伐対象の所有物は、即座に「無限収納」へ格納されます】


「初級魔法、か。まあ、まずは火を熾すところからスタートだな」


 ファンタジーの定番だ。指先からライター程度の火を出して、焚き火でもして、これからの人生をゆっくり考えよう。そんな風に、俺は呑気に考えていた。

 だが、運命は俺に「ゆっくり考える時間」など与えてはくれなかった。


「——おっと。そいつは驚いた。こんな森の奥深くに、上等な服を着たカモが転がってるとはな」


 茂みを掻き分けて現れたのは、五人の男たちだった。

 一目で分かった。彼らは善良な村人でもなければ、誇り高い騎士でもない。

 手入れの行き届いていない無精髭、脂ぎった肌、そして何より、人を人とも思わない、飢えた獣のような濁った瞳。腰には血錆の浮いた長剣や斧を下げている。


「ガキ、動くなよ。その服と、持ってるもん全部置いていけば、命だけは助けてやる」

「……盗賊、ってやつか」

「聞き分けがいいな。だが運が悪いぜ、俺たちの頭は今、機嫌が悪くてな」


 五人が扇状に広がり、俺を囲い込む。

 前世で平和な日本に生きていた俺にとって、剥き出しの殺意を向けられるのは初めての経験だった。心臓が早鐘を打ち、指先が微かに震える。

 戦わなければならない。

 幸い、俺には「魔法」がある。神から貰った、この世界の理を上書きする力。

 「初級」という言葉が、俺の警戒心を緩めていた。

 殺すつもりはなかった。ただ、威嚇して、追い払えればそれでいい。

 俺は指先を、先頭の男に向けた。


「おい、魔法使いの真似事か? 詠唱もねえガキに何が——」

「……『火球(ファイアボール)』」


 その瞬間。

 世界から、すべての「音」が消失した。


 指先から放たれたのは、拳大の火の玉などではなかった。

 それは、空間そのものを無理やり抉り取り、圧縮し、一気に解放したような「純白の質量」だった。


 ——ドンッ!


 爆発音ではない。大気が圧殺される、鈍く重い衝撃が鼓膜を叩く。

 発射の反動だけで、俺の足元の地面が半径三メートルにわたって粉砕され、俺自身も後ろに数メートル吹き飛ばされそうになる。

 だが、本当の異常はその先にあった。


 放たれた光球は、盗賊の男を「飲み込む」というプロセスさえ省略した。

 光が触れた瞬間、男の体は蒸発した。叫ぶ暇も、熱を感じる暇もなく、分子レベルで分解され、この世から消滅した。

 光球は止まらない。

 背後にあった巨木、そのさらに後ろに広がっていた広大な森。

 それらを、熱風でなぎ倒すのではなく、ただ「消しゴムで消すように」削り取っていく。


 一直線。

 俺の指先から地平線の彼方まで、完璧な直線の空白が出来上がった。

 森は両断され、その先にあるなだらかな丘はV字型に抉り取られ、遠くに見えていた標高数千メートル級の山の斜面が、まるでスプーンで掬ったアイスクリームのように消失している。


 数秒後。

 遅れてやってきた衝撃波が、周囲の木々をマッチ棒のように粉砕し、俺を地面に叩きつけた。

 熱波が肌を焼き、巻き上がった土煙が視界を遮る。


「……は、え……?」


 呆然としながら、俺は立ち上がった。

 目の前には、何もなかった。

 数分前まで存在していた五人の男たち。鬱蒼と茂っていた森。

 それらがすべて、ただの「空虚」に変わっている。

 残っているのは、高熱でガラス状に結晶化した地面が、数キロ先まで続く深い溝だけだ。


 そして。

 静寂に包まれた俺の意識に、冷徹なシステムログが流れ込んだ。


【ドロップアイテム:汚れた革袋×5、錆びた短剣×3、粗末な斧×1、銅貨×12、鉄屑×8 を無限収納(インベントリ)に格納しました】


「う……うぁあ……っ!」


 こみ上げる激しい嘔吐感を、俺は抑えることができなかった。

 地面に膝を突き、胃液を吐き出す。

 

 何もない。

 血の一滴も、肉の欠片も、叫び声の残響すら残っていない。

 魔法を放った瞬間、彼らは「死んだ」のではなく「消えた」のだ。

 なのに、俺の「収納」の中には、たった今俺が殺した男たちの持ち物が、事務的に整理されて放り込まれている。

 この「自動回収」というシステムこそが、彼らが確かにそこに存在し、俺が彼らを屠ったという事実を、逃げ場のない現実として突きつけてくる。


「……なんだよ、これ……。これが、初級魔法だって……?」


 冗談じゃない。

 「適当にやってくれ」なんて言ったあの神のツラを、今すぐ殴ってやりたかった。

 こんなのは魔法じゃない。ただの「終末」だ。

 もし俺が、これを誰かのいる街で使ったら。

 もし俺が、加減を間違えて地面に向けて放ったら。

 それだけで、何千、何万という命が、このログの一行に変換されてしまう。


 俺は震える自分の手を見つめた。

 この手は、指先を向けるだけで世界を壊す、最悪の兵器になってしまった。

 

「……ダメだ。二度と、使わない」


 俺は、強く拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込み、痛みを感じる。

 この痛みこそが、俺がまだ人間であることの証だと思いたかった。


「魔法は封印だ。……もし、次に何かと戦わなきゃいけない時は……」


 俺は、しっかりと握った「拳」を見つめた。

 これなら、加減ができる。

 これなら、相手を殺すか生かすか、自分の意志で選べる。

 これなら、世界を消し飛ばさずに済む。


 ——この日、世界最強の魔法使いは、魔法を捨てることを決意した。


 それから数時間。俺は混乱する頭を抱えながらも、生きるために動き出した。

 まずはこの「爆心地」から離れなければならない。これだけの騒ぎだ、すぐに誰かが調査に来るだろう。

 「無限収納」から、先ほどドロップした男たちの革袋を取り出してみる。

 中には、干し肉と、少しばかりの金。そして、この近辺の地図らしき羊皮紙が入っていた。


「……とりあえず、一番近い街はこっちか」


 俺は地図を頼りに、歩き始めた。

 魔法は使わない。どんなに困難な道でも、自分の足で歩き、自分の拳で道を切り拓く。

 それが、一瞬で「一山」を消し去ってしまった俺が、この世界に対して負うべき、せめてもの責任だと思ったからだ。


 だが、俺はまだ知らなかった。

 魔力を帯びた俺の肉体が、魔法を使わずとも、すでにこの世界の常識を遥かに超越してしまっていることを。


 夕暮れ時。森を抜けようとした俺の前に、今度は一体の巨大な魔物が現れた。

 体長三メートルはあろうかという、剛毛に覆われた巨大な熊——「キラーベア」というらしい。

 本来なら、熟練の冒険者が数人がかりで挑むような脅威。


 キラーベアが咆哮を上げ、丸太のような腕を振り上げる。

 俺は、反射的にその懐に飛び込んだ。

 魔法? 使うわけがない。

 俺は、ただ無我夢中で、握りしめた拳をその巨体の腹部へと叩きつけた。


「おおおおおっ!」


 ——ドォォォォォン!!


 森に、再び重低音が響き渡る。

 だが今度は、世界は消えなかった。

 ただ、キラーベアの巨体が、大砲の弾のように後方へと吹き飛び、何十本もの木々をなぎ倒しながら森の奥へと消えていった。


【ドロップアイテム:キラーベアの毛皮×1、魔石(中)×1、巨大な肉×5 を無限収納に格納しました】


 一撃。

 魔法など一切込めていない、ただのパンチ。

 だが、俺の体の中に眠る膨大な魔力は、無意識のうちに筋繊維を強化し、その一拳に小型戦車並みの破壊力を与えていた。


「……あ、れ?」


 吹き飛んだ先で動かなくなった熊を見て、俺は自分の拳を凝視する。

 

「……よし。魔法よりは、マシだな」


 少なくとも、森はまだそこにある。

 空も、地面も、消えてはいない。

 

 「拳なら、なんとかなる」

 その確信(という名の大きな勘違い)を抱きながら、俺は異世界での第一歩を力強く踏み出した。


 これが、後に「拳聖」と呼ばれ、「平和を愛する最強の隠遁者」として語り継がれることになる男の、最低で最悪、そして救いようのないほどに強力な始まりだった。

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2026年1月19日 03:00
2026年1月20日 03:00
2026年1月21日 03:00

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