第10話「荒ぶる獅子と愛の手」

「……誰だ。入るなと言ったはずだ」

 地を這うような唸り声。闇の中で、二つの黄金の瞳がギラリと光った。

 レグルスは獣の姿だった。だが、その毛並みは以前よりもひどく乱れ、逆立っている。殺気が部屋全体に充満し、肌がピリピリと痛むほどだ。

「私です、レグルス様」

 晴人は一歩踏み出した。

「ハルト……?」

 レグルスがビクリと体を震わせた。

「来るな! その匂い……また俺を狂わせる気か!」

「狂わせに来たんじゃありません。癒やしに来たんです」

 晴人は怯まずに近づいていく。

 レグルスが威嚇のために牙を剥く。巨大な前足が振り上げられ、鋭い爪が空を切り裂く。

 普通の人間なら腰を抜かす光景だ。しかし、晴人には見えていた。

 その爪が、決して自分には届かない位置で止められていることを。

「そんなに怖がらないでください。私はここにいます」

 晴人は、レグルスの目の前まで歩み寄り、膝をついた。

 そして、振り上げられたままの巨大な前足に、そっと手を添えた。

「ガウッ……!」

「大丈夫。痛くしません。ほら、ここが凝ってますよ」

 晴人は爪の間の肉球を、親指で優しく押し込んだ。

 レグルスの体が硬直し、そしてガクガクと震え出した。

「お前……死にたいのか……? 今の俺は、王ではない。ただの飢えた獣だぞ……」

「知っています。でも、私にとっては可愛いライオンさんです」

 晴人は微笑み、反対の手でレグルスの顎の下を撫でた。

 ゴロゴロ……。

 本能は嘘をつかない。レグルスの喉が、意思に反して鳴り始めた。

「数日ブラッシングしなかっただけで、こんなにボサボサになって。これじゃあ、王様の威厳が台無しですよ」

 晴人は道具袋からブラシを取り出し、逆立った鬣に櫛を通し始めた。

 最初は抵抗していたレグルスも、慣れ親しんだ感触と、晴人から漂う「陽だまりの匂い」に、次第に毒気を抜かれていく。

 荒かった呼吸が整い、殺気が霧散していく。

「……なぜだ。なぜ逃げなかった」

 レグルスが、人間にも聞き取れる言葉で呟いた。

「逃げる理由がありません。私はあなたのペットで、あなたは私の……大切なご主人様ですから」

 晴人がそう答えると、レグルスは静かに目を閉じた。

 そして、ゆっくりと人間の姿へと戻った。

 全裸のまま、レグルスは晴人を強く抱きしめた。

「……馬鹿な奴だ。もう、離してはやれんぞ」

「離れるつもりはありません」

 晴人もまた、レグルスの広い背中に腕を回した。

 汗と獣の匂い。それが今は、たまらなく愛おしかった。

 二人の体温が混じり合い、部屋の空気が甘く色づいていく。

 それは、抑制剤の効果さえも凌駕する、魂の共鳴だった。

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