第6話「側近たちの誤算」

 宰相ガロンによる「現場目撃」の一件以来、城内での晴人の立場は微妙に変化していた。

 表立って危害を加えようとする者はいなくなったが、遠巻きに見る視線には、好奇心と侮蔑、そして嫉妬が入り混じっていた。

「あいつが、あの暴君レグルス様を手懐けた人間か?」

「なんでも、怪しげなマッサージで王を骨抜きにしているらしいぞ」

「魔女の生まれ変わりか? それとも媚薬でも使っているのか?」

 そんなささやきが、晴人の耳にも届くようになっていた。

 晴人自身は、ただ必死に仕事(マッサージ)をしているだけなのだが、獣人たちにとって、誇り高き王が人間に腹を見せるなど、天地がひっくり返るような事態なのだ。

 ある日の午後。

 レグルスは公務のため執務室にいたが、晴人を部屋に残しておくことを良しとせず、執務室まで連れてきてしまった。

「ここにいろ。俺の視界の届く範囲にな」

 そう言われ、晴人は執務机の横に置かれた小さな椅子に座らされていた。

 部屋には次々と貴族や官僚たちが入ってきて、書類の決裁や報告を行っていく。

 彼らは一様に、部屋の隅にいる晴人をちらりと見ては、眉をひそめたり、鼻で笑ったりする。

「陛下、例の南部の反乱分子についてですが……」

 報告に来たのは、ハイエナの獣人である将軍だった。彼は報告を終えると、ねっとりとした視線を晴人に向けた。

「ところで陛下。そのような貧弱な人間を側に置かれるのは、王の品位に関わるのでは? もし愛玩動物が必要なら、私が極上の猫人を用意いたしますが」

 明らかな挑発だった。晴人は居心地の悪さに身を縮こまらせた。

 レグルスは書類から目を離さず、冷淡に答えた。

「不要だ。俺が選んだのはこいつだ。代わりなどいない」

「しかし、人間は脆く、すぐに壊れます。それに、匂いが鼻につく」

 将軍はわざとらしく鼻をつまんで見せた。

 その瞬間、バキリ、と音がして、レグルスが握っていた羽ペンが粉々に砕け散った。

 執務室の空気が一瞬で凍りつく。

 レグルスがゆっくりと顔を上げた。その黄金の瞳は、猛獣の捕食モードそのものだった。

「……俺の所有物を侮辱することは、俺への侮辱と受け取っていいのだな?」

 低く、地響きのような声。

 将軍の顔から血の気が引いていく。

「い、いえ、滅相もございません! ただ、陛下の御身を案じて……」

「失せろ。二度とこいつに不浄な視線を向けるな」

 レグルスの一喝に、将軍は逃げるように部屋を飛び出していった。

 静寂が戻った部屋で、レグルスはため息をつき、新しいペンを取り出した。

「……すまん。不快な思いをさせたな」

「い、いいえ。ありがとうございます」

 晴人は恐縮して頭を下げた。

「おい、こっちへ来い」

 レグルスが手招きをする。晴人がおずおずと近づくと、レグルスは突然晴人の腕を引き、自分の膝の上に座らせた。

「れ、レグルス様!?」

「静かにしろ。充電だ」

 レグルスは晴人の背中に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。

「お前の匂いを嗅ぐと、イライラが収まる。あのハイエナどもの腐った臭いを上書きしろ」

 晴人は真っ赤になりながら、硬直した。

 王の膝の上。しかも執務中だ。誰が入ってくるか分からない状況で、これはあまりにも心臓に悪い。

 だが、レグルスの腕は鋼鉄のように固く、逃げ出すことなど不可能だ。

「……晴人」

 耳元で名前を呼ばれ、背筋が震える。

「お前は、俺だけのものだ。誰にも渡さんし、誰にも傷つけさせん」

 それは独占欲に満ちた言葉だったが、同時に深い孤独を埋めようとする切実な響きも帯びていた。

 晴人は、レグルスの頭にそっと手を添えた。

 サラサラになった黄金の髪。自分の手入れの成果だ。

「はい。私はここにいますよ」

 そう答えると、レグルスの腕の力が少しだけ緩んだ。

 二人の関係は、もはや「飼い主とペット」という枠組みを超えつつあった。

 レグルスにとって晴人は不可欠な安定剤であり、晴人にとってレグルスは、守るべき「大きな猫」になりつつあったのだ。

 しかし、そんな穏やかな時間は長くは続かなかった。

 晴人の体に、ある異変が起き始めていたからだ。

 レグルスの膝の上で、晴人は急に体が熱くなるのを感じた。

 風邪だろうか? いや、違う。体の奥底から、甘く疼くような熱が湧き上がってくる。

 それは、この世界に来て初めて迎える「発情期(ヒート)」の予兆だった。

 そして、密着しているレグルスは、その変化を誰よりも早く敏感に察知していた。

 レグルスの鼻先がピクリと動き、黄金の瞳孔がスッと細まったのを、晴人はまだ知らなかった。

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