第5話「湯けむりと王の失態」

 晴人の「ゴッドハンド」による施術が日課となってから一週間。レグルスの変化は、城内で働く者たちの目にも明らかだった。

 常にピリピリとした殺気を放ち、廊下ですれ違うだけで寿命が縮むと恐れられていた王が、最近はやけに機嫌が良い。眉間の皺は消え、肌艶も良くなり、会議中に居眠りをしそうになることさえあるという。

「陛下が……笑っておられたぞ……」

「まさか。幻覚でも見たんじゃないか?」

 そんな噂が衛兵たちの間でささやかれる中、渦中の晴人は新たなプロジェクトに着手していた。

「よし、これで完璧だ」

 晴人は王城の厨房の片隅で、すり鉢を片手に満足げに頷いた。

 中に入っているのは、庭園で採取した「アワアワ草」の根と、「カオリ花」のエキスを調合した特製シャンプーだ。

 異世界の植物は強力な効能を持つものが多く、試行錯誤の末、洗浄力がありながらも肌に優しく、毛並みをシルクのように仕上げる配合を見つけ出したのだ。

「これであの鬣を洗ったら、絶対に気持ちいいはず……!」

 晴人の想像の中では、フワッフワに仕上がったレグルスが既に完成していた。

 その夜。

 レグルスが部屋を訪れると、晴人は意気揚々と提案した。

「レグルス様、今日は特別メニューをご用意しました。バスルームへ行きましょう」

「……風呂か? 俺は身体なら自分で洗えるぞ」

「いえ、ただ洗うだけではありません。『ヘッドスパ』です」

「ヘッド……スパ?」

 聞き慣れない言葉に首を傾げるレグルスを、晴人は半ば強引にバスルームへと連行した。

 広々とした浴室には、湯気が立ち込めている。

「では、獣のお姿になって、この台の上に顎を乗せてください」

 晴人が指差したのは、バスタブの縁だ。

 レグルスは疑わしそうな目を向けたが、晴人の自信満々な表情に絆され、しぶしぶライオンの姿へと変身した。

「グルル……」

「はい、いい子ですね」

 晴人は手桶にお湯を汲み、レグルスの鬣にゆっくりとかけた。

 お湯を含んだ鬣は重く、ぺしゃんとなる。濡れたライオンというのは、威厳が半減してどこか情けない姿になるものだが、晴人にとっては愛おしさ倍増だ。

「では、洗いますよ」

 特製シャンプーを手に取り、十分に泡立ててから鬣に乗せる。

 ワシャワシャと空気を含ませるように洗っていくと、豊潤な花の香りが浴室いっぱいに広がった。

「ん……いい匂いだ……」

 レグルスが目を閉じる。

 晴人の指先は、頭皮の汚れを落とすと同時に、無数のツボを刺激していく。

「あ、そこ……効く……」

 シャンプーの泡立ちと共に、レグルスの思考も溶けていくようだった。

 温かいお湯、心地よい香り、そして極上の指圧。これらが組み合わさり、レグルスはかつてないほどの多幸感に包まれていた。

「洗い流しますね」

 お湯をかけると、泡と共に長年の疲れが流れ落ちていくようだ。

 そして、仕上げはトリートメント。毛の一本一本をコーティングするように揉み込む。

 全ての工程を終え、タオルで拭き上げた時、そこには奇跡が起きていた。

 ドライヤー代わりの風魔法(レグルス自身に微風を出してもらった)で乾かすと、レグルスの鬣は黄金の光を放つほどに輝き、綿飴のようにふわふわに膨らんだのだ。

「す、すごい……!」

 晴人は感動のあまり、その鬣に顔を埋めた。

「最高の仕上がりです! これぞ王の毛並み!」

「うむ……体が軽い。まるで羽が生えたようだ」

 レグルスも鏡に映る自分の姿を見て、驚きを隠せない様子だ。

「お前の技術は、魔法使い以上だな」

 レグルスは上機嫌で尻尾を揺らした。

 その時だった。

 ガチャリ、と浴室のドアが開いた。

「陛下! 緊急の報告が――」

 入ってきたのは、レグルスの側近である宰相、黒豹の獣人ガロンだった。彼は血相を変えて飛び込んできたのだが、目の前の光景を見て凍りついた。

 そこには、巨大なライオン(王)の鬣に顔を埋めてスリスリしている人間の男(晴人)と、それを咎めるどころか、満更でもない顔で鼻を鳴らしている王の姿があった。

 しかも王の毛並みは、かつてないほどキラキラと輝き、フローラルな香りを漂わせている。

「……へ、陛下?」

 ガロンの声が裏返った。

 レグルスはハッと我に返り、瞬時に人間の姿に戻った。だが、時すでに遅し。

 濡れた髪、紅潮した頬、そして緩みきった表情。どう見ても「骨抜きにされた」直後の姿だ。

「……ガロン。ノックもなしに入るとは、どういう了見だ」

 レグルスは咳払いをし、必死に威厳を取り繕おうとしたが、その声にはいつもの迫力がない。

 晴人は慌ててレグルスの背後に隠れた。側近の視線が痛い。

「も、申し訳ありません! しかし、その……人間が、陛下に対して何やら怪しげな術を……」

 ガロンは晴人を睨みつけた。人間に対する根深い差別意識と、王をたぶらかす魔性の存在への警戒心が入り混じった目だ。

「術ではない」

 レグルスが遮った。彼は一歩前に出て、晴人を背中で庇うように立った。

「これは『治療』だ。この者の手は、俺の不調を取り除く唯一の薬だ。手出しは許さん」

 その言葉は力強く、有無を言わせない響きがあった。

 晴人はレグルスの広い背中を見つめ、胸の奥が熱くなるのを感じた。

「ペット」としてではなく、一人の「必要な存在」として認められた気がしたからだ。

 ガロンは渋々引き下がったが、去り際に晴人へ投げかけた視線は、決して友好的なものではなかった。

 扉が閉まると、レグルスはふぅと息を吐き、振り返って晴人を見た。

「……邪魔が入ったな。続きをするぞ」

「え、まだやるんですか?」

「当たり前だ。まだ肉球のケアが終わっていない」

 レグルスは再びベッドに寝転がり、手招きをした。

 その態度は以前よりさらに無防備で、甘えたものになっていた。

 晴人は苦笑しながらも、喜んでその手を取った。側近の視線は怖かったが、この王様が守ってくれるなら、なんとかなるかもしれない。そう思えるほど、二人の距離は縮まっていた。

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