第7話「甘い香りの予兆」
異変は、夜のマッサージの時間に顕著になった。
いつものようにレグルスがベッドに横たわり、晴人がその背中をほぐしていた時のことだ。
指先が震える。視界が少し揺らぐ。
部屋の温度は適温のはずなのに、汗が滲んで止まらない。
「……どうした? 手が止まっているぞ」
レグルスが怪訝そうに振り返る。
「あ、すみません。ちょっと眩暈がして……」
晴人は額の汗を拭った。
その動作をした瞬間、部屋の中に濃厚な香りが広がった。
それは、いつもの「陽だまりのような匂い」を何倍にも濃縮し、そこに完熟した果実のような芳醇な甘さを加えたものだった。
レグルスがバッと身を起こした。
その目は、もはや理性を保った人間のそれではなく、獲物を前にした獣の目だった。
「……ハルト、お前」
レグルスの声が嗄れている。
彼は荒い呼吸をしながら、晴人の手首を掴んだ。
「この匂いは……なんだ? 頭がおかしくなりそうだ」
「え……? 匂い……?」
晴人には分からない。だが、レグルスにとっては、脳髄を直接刺激されるような強烈なフェロモンだった。
オメガバースという概念を知らない晴人は、自分の身に起きていることが理解できない。
「熱い……苦しい……」
晴人は力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。
それを支えたのはレグルスだった。
彼は晴人を抱きとめ、そのままベッドに押し倒す形になった。
「レグルス……様?」
見上げると、レグルスの顔は苦悶と欲望で歪んでいた。
口元からは鋭い犬歯が覗き、喉の奥から制御できない唸り声が漏れている。
「逃げろ……」
レグルスが絞り出すように言った。
「今すぐ、この部屋から出て行け。でなければ、俺は……お前を……」
食い殺すのか、それとも別の意味で「食べる」のか。
その目は危険な光を帯びていたが、必死に理性を繋ぎ止めようとする意志も感じられた。
晴人は本能的な恐怖を感じたが、同時に、目の前のレグルスを置いていくことはできないとも思った。
彼がこんなに苦しんでいるのは、自分のせいだ。
「大丈夫です……私が、なんとかします」
晴人は震える手で、レグルスの頬に触れた。
「深呼吸してください。落ち着いて……」
その手が触れた瞬間、レグルスの理性の糸が切れかけた。
彼は晴人の首筋に顔を埋め、むさぼるように匂いを吸い込んだ。
「あッ……!」
首筋に熱い舌が這う。ザリッとした感触と、湿った熱気。
噛まれる、と思った。
だが、レグルスは寸前で動きを止めた。
「……くっ!」
彼は自らの腕を噛み、痛みで理性を呼び覚ますと、弾かれたように晴人から離れた。
「ガロン! 誰かいないか! 医者を呼べ!」
レグルスの怒号が廊下に響き渡る。
彼は部屋の隅まで後ずさり、うずくまって震えていた。
「近づくな……俺に近づくな……」
自分自身の中にある獣の本能と戦っているのだ。
晴人は朦朧とする意識の中で、レグルスのその姿を目に焼き付けた。
自分を守るために、自分自身を傷つけてまで耐えてくれた王。
その姿は、どんな時よりも気高く、そして愛おしかった。
部屋に側近たちが駆け込んでくる音が聞こえる。
晴人の意識は、そこでプツリと途切れた。
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