第4話「肉球と王の急所」
その翌日から、レグルスは夜になると必ず晴人の部屋を訪れるようになった。
最初の頃のような威圧的な態度は鳴りを潜め、まるで散歩をねだる大型犬のように、あるいは餌を待つ猫のように、そわそわとした様子で現れるのだ。
「……待たせたな」
レグルスは入室するなり、当然のように上着を脱ぎ捨て、ソファではなくベッドの中央に陣取った。
「今日も激務だった。頭が割れそうだ」
言い訳のようにこぼすが、その目は期待に輝いている。
晴人は苦笑しながら、手入れを済ませたブラシと、昼間に庭園で採取したハーブから抽出した即席のアロマオイルを用意した。
「お疲れ様です、レグルス様。今日は背中を重点的にやりましょうか」
「うむ。頼む」
レグルスは短く答えると、晴人に背を向けてうつ伏せになった。
晴人はベッドに上がり、レグルスの背中にまたがる。
以前なら不敬罪で即座に処刑されてもおかしくない体勢だが、今ではこれが自然な施術スタイルとして定着していた。
人間の姿のレグルスは筋肉質で硬いが、晴人の指が触れると、条件反射のように力が抜けるようになっている。
オイルを手に馴染ませ、肩甲骨の周りを流すようにマッサージする。
「ん……そこだ……」
レグルスの喉から、低い唸り声が漏れる。
部屋には、晴人が調合したラベンダーに似た香りのハーブが焚かれており、それがレグルスの神経をさらに鎮静化させていた。
しばらく無言の施術が続いた後、晴人は意を決して口を開いた。
「あの、レグルス様。もしよろしければ……本来のお姿になっていただけませんか?」
ピタリ、とレグルスの背中が止まる。
「……なぜだ?」
「その方が、筋肉の深部までほぐせますし、何よりレグルス様自身がリラックスできると思うんです。人間の姿を維持するのも、魔力を使うんですよね?」
それは半分建前で、半分は本音だった。そして残りの半分は、晴人自身の「モフモフしたい」という欲望だった。
レグルスは少し考え込んだ後、むくりと起き上がった。
「……お前が望むなら、見せてやろう。ただし、恐怖で気絶しても知らんぞ」
言い終わるや否や、ボフッという音と共に光が弾け、巨大な黄金のライオンがベッドの上に現れた。
何度見ても圧巻のサイズだ。部屋が急に狭くなったように感じる。
しかし、今の晴人の目には、それは恐怖の対象ではなく、手入れし甲斐のある極上のクライアントとして映っていた。
「失礼しますね」
晴人は慣れた手つきで、豊かな鬣に指を埋めた。
温かい。そして柔らかい。
表面のごわつきはまだ残っているが、数日の手入れでかなり改善されている。
晴人は鬣の奥にある太い首筋を揉みほぐし、そのまま背骨に沿って指を滑らせていった。
巨大な猫のように、レグルスが目を細め、喉をゴロゴロと鳴らし始める。その振動がベッドを通して晴人の体にも伝わってくる。
「気持ちいいですか?」
「グルゥ……」
肯定の返事だ。
晴人はさらに大胆に攻めることにした。
レグルスの巨大な前足を両手で抱え込む。人間の頭ほどもある大きさだ。
その裏側には、黒く艶やかな肉球が存在感を放っている。
「ここ、疲れてますよね」
晴人は親指の腹を使い、肉球の隙間にあるツボをグイッと押した。
「ガウッ!?」
レグルスが弾かれたように足を引っ込めようとしたが、晴人は逃がさない。
「逃げちゃダメです。ここには自律神経を整えるツボがあるんですから」
「そ、そこは……くすぐったい……!」
「くすぐったいのは、凝っている証拠です」
晴人は容赦なく、肉球の中心にある一番大きなプニプニを円を描くように揉みしだいた。弾力があり、吸い付くような手触りは、まさに極上。
レグルスの反応は劇的だった。
鋭い爪が出たり引っ込んだりを繰り返し、太い尻尾がバタンバタンと激しく揺れる。耳は後ろに倒れ、口元はだらしなく緩んでいる。
「あ、うぅ……んあ……ッ!」
王としての威厳など欠片もない、甘い声が漏れる。
「ダメだ……そこは……力が抜ける……」
「力、抜いていいんですよ。眠れない夜が続いていたんでしょう?」
晴人は優しく語りかけながら、肉球マッサージを続けた。
レグルスの瞳が、とろんと潤んでいく。
彼は抵抗を諦め、巨大な頭を晴人の膝に擦り付けてきた。
「……お前は、魔女か何かなのか……?」
「ただのトリマーですよ」
晴人はクスリと笑い、レグルスの耳の裏を掻いてやった。
レグルスの呼吸は次第に深くなり、やがて規則正しい寝息へと変わっていった。
完全に無防備な姿で眠る百獣の王。その顔は、昼間の冷徹な支配者とは別人のように幼く、安らかだった。
晴人は手を止め、そっとその温もりに身を寄せた。
この世界に来て初めて、心の底から「可愛い」と思えた瞬間だった。
しかし、晴人はまだ知らなかった。
この至福のマッサージが、レグルスの中に眠る独占欲という名の猛獣を目覚めさせてしまっていることを。
そして、自分の放つ「陽だまりの匂い」が、王にとってただの癒やし以上の、抗いがたい麻薬となりつつあることを。
寝息を立てるレグルスの鼻先が、無意識のうちに晴人の腹部に押し当てられ、深く匂いを吸い込んでいることに、晴人は気づいていなかった。
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