第3話「至高のブラッシング術」

 目覚めは、小鳥のさえずりではなく、遠くから響く低い獣の唸り声によってもたらされた。

 晴人は豪奢な天蓋付きベッドの上で身じろぎし、重いまぶたを擦りながら上体を起こした。視界に入ってくるのは、やはり見慣れた自室の天井ではなく、異世界の王城にある一室の、あまりにも煌びやかな装飾だった。

「……夢じゃ、ないんだよな」

 自分の頬を軽くつねってみる。鈍い痛みが走り、ここが現実であることを冷酷に告げていた。

 昨夜の出来事が、鮮明な映像として脳裏に蘇る。

 獣人の王、レグルス・ヴァーン・レオハート。

 巨大な黄金のライオンでありながら、人の姿をも持つ支配者。彼がこの部屋を訪れ、晴人の隣で眠ったという事実は、一夜明けてもなお心臓を締め付けるような恐怖と、奇妙な安堵感を同時に呼び起こした。

 食べられなかった。その一点だけで、晴人は深く息を吐き出すことができた。

 ふと、サイドテーブルに視線を向ける。そこには銀のトレイに載せられた朝食が置かれていた。いつの間に運ばれてきたのだろう。温かいスープからは湯気が立ち上り、焼きたてのパンの香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。

 しかし、その傍らには鋭利なカトラリーはなく、木製のスプーンだけが添えられていた。まるで、凶器を持たせないための配慮か、あるいは幼児に対する扱いのようだ。

「ペット、か……」

 晴人は自嘲気味につぶやき、スープを一口啜った。野菜の甘みが体に染み渡る。生きていることを実感する味だった。

 食事を終えると、晴人は部屋の中を探索することにした。昨日は恐怖で縮こまっていたため、周囲を観察する余裕などなかったのだ。

 部屋は広大だった。バスルームには猫足のバスタブがあり、窓からは王城の中庭が見下ろせる。そこには地球では見たこともないような極彩色の花々が咲き乱れ、空には二つの太陽が輝いていた。

 クローゼットを開けると、シルクのような手触りの服が数着掛かっている。どれも簡素なデザインだが、生地は上質だ。

「トリマーとしての道具なんて、あるわけないよな……」

 晴人は引き出しを一つずつ開けながら、独り言を漏らした。

 生粋の動物好きであり、トリマーとしての職に誇りを持っていた晴人にとって、昨夜見たレグルスの毛並みの乱れはどうしても看過できないものだった。

 百獣の王たる威厳を放ってはいたが、その黄金の鬣は近くで見ると毛先が絡まり、皮脂で重たくなっていた。過労とストレス、そして誰にも手入れをさせない警戒心が、あの美しい毛並みを損なわせているのだ。

「あ……これは」

 洗面台の下の棚を開けた時、晴人の手が止まった。

 そこには、木製の柄がついたブラシが置かれていた。おそらく、この部屋の掃除用か、あるいはかつてここで飼われていた別の愛玩動物のためのものかもしれない。豚毛のような硬い毛が植えられたそのブラシは、プロ仕様とは程遠いものだったが、手入れさえすれば使えそうだった。

 晴人はそのブラシを手に取り、指先で感触を確かめる。

「硬いな。でも、力加減さえ間違わなければ……」

 その時、晴人の脳裏に閃くものがあった。

 自分には力がない。魔力も、腕力も、この世界で生き抜くための知識もない。あるのは、動物たちと向き合い、彼らを癒してきた経験と技術だけだ。

 もし、あの気難しそうな王を癒すことができれば。

 彼にとって「代わりの利かない存在」になれれば、捕食される恐怖から逃れられるかもしれない。

「やるしかない。トリマーの意地、見せてやる」

 晴人はブラシを握りしめ、鏡に映る自分自身に向かって決意を口にした。その瞳には、昨夜までの怯えとは違う、職人としての静かな炎が宿っていた。


 夜の帳が下りると、城内の静寂は深まり、冷ややかな空気が廊下を流れていく。

 晴人は部屋のソファに座り、膝の上でブラシを握りしめて待っていた。心臓の鼓動が早くなる。恐怖がないわけではない。だが、それ以上に「なんとかしたい」という欲求が勝っていた。

 カツ、カツ、カツ。

 規則正しい、しかし重みのある足音が近づいてくる。

 鉄格子が低い音を立てて開き、レグルスが姿を現した。

 今夜の彼は、人の姿をしていた。身長は百九十センチを超えているだろうか。鍛え抜かれた肉体は衣服の上からでも分かり、黄金の髪は照明の光を受けて輝いている。

 だが、その美貌には明らかな疲労の色が滲んでいた。眉間には深い皺が刻まれ、歩き方にも覇気がない。

「……起きているか」

 レグルスは低い声で問いかけ、晴人の返事も待たずに部屋の中へと入ってきた。

「あ、あの、レグルス様」

 晴人は立ち上がり、勇気を振り絞って声をかけた。

 レグルスは不機嫌そうに片眉を上げる。黄金の瞳が、射抜くように晴人を見下ろした。

「なんだ。騒ぐなら口を塞ぐぞ」

「い、いえ、そうではなくて……お疲れのようでしたので」

 晴人は背中に隠していたブラシをそっと取り出した。

「もしよろしければ、髪を梳かさせていただけませんか? 少しは楽になるかもしれません」

 レグルスの目が怪訝そうに細められた。

「貴様、俺に触れる許可を得たとでも思っているのか? 俺は誇り高き獅子王だ。人間ごときに身を委ねるなど――」

「でも、辛そうに見えます」

 晴人はレグルスの言葉を遮り、真っ直ぐに彼の目を見つめた。

「頭痛がしていませんか? 肩も首も、鉄のように凝り固まっているはずです。そんな状態では、良い眠りは訪れません」

 トリマーとして、飼い主や動物の不調を見抜く目は確かだ。晴人の指摘は図星だったのか、レグルスは言葉に詰まり、バツが悪そうに視線を逸らした。

「……ふん。口の減らない愛玩動物だ」

 レグルスはマントを乱暴に脱ぎ捨てると、ソファにドカと腰を下ろした。

「いいだろう。試してみろ。だが、もし髪を一本でも引き抜いて痛みを与えたら、その指をへし折る」

 それは、実質的な許可だった。

 晴人は安堵の息を漏らし、震える手でブラシを握り直した。

「失礼します」

 レグルスの背後に回り込む。近くで見ると、その背中の広さと厚みに圧倒される。筋肉の鎧を纏ったような背中は、触れることさえ躊躇われるほどの威圧感を放っていた。

 晴人は深呼吸をし、そっとレグルスの黄金の髪に手を伸ばした。

 指先が髪に触れると、レグルスの肩がピクリと跳ねた。

「力を抜いてください。痛くはしませんから」

 晴人は小声で囁きながら、まずは手櫛で髪の流れを整え始めた。

 予想通り、髪の内部は汗と脂で少し湿っており、絡まっている部分もあった。いきなりブラシを通せば、確実に引っかかって痛い思いをさせるだろう。

 晴人は丁寧に、時間をかけて指で絡まりを解いていく。

 レグルスは最初こそ警戒して体を硬くしていたが、晴人の指が頭皮を優しく撫でるたびに、少しずつ力が抜けていくのが分かった。

「……悪くない手つきだ」

 低い呟きが聞こえ、晴人は小さく笑みをこぼした。

「ありがとうございます。では、ブラシを使いますね」

 晴人はブラシを髪に当て、ゆっくりと、リズムよく梳かし始めた。

 ザッ、ザッ、という小気味よい音が静かな部屋に響く。

 ただ髪を梳かすだけではない。ブラシの先端が頭皮に適度な刺激を与えるよう、手首のスナップを効かせてマッサージ効果も狙う。

 頭頂部から後頭部、そして首筋へ。

 リンパの流れを意識しながら、滞った血流を促していく。

「……ぅ……」

 レグルスの口から、小さな吐息が漏れた。それは苦痛ではなく、快感によるものだ。

「ここ、凝ってますね」

 晴人はブラシを置き、今度は両手の親指を使って、レグルスの首の付け根にあるツボをぐっと押し込んだ。

「ぐっ……! き、貴様……!」

「痛いですか? でも、ここをほぐさないと頭痛は治りませんよ」

 晴人は力を緩めず、円を描くように揉みほぐしていく。

 レグルスの反応は劇的だった。最初は痛みに耐えるように歯を食いしばっていたが、次第にその表情が緩み、瞳がとろんと蕩けていく。

 強張っていた肩のラインが下がり、呼吸が深くなる。

「……不思議だ。お前の手は小さいのに、熱いな」

「一生懸命やってますから」

「それに……匂いがする」

 レグルスは鼻をひくつかせた。

「陽だまりのような、干したばかりの布のような……安心する匂いだ」

 それはおそらく、晴人が持つオメガとしてのフェロモンだったが、晴人自身はまだその自覚がなかった。ただ、猛獣であるレグルスが毒気を抜かれていることだけは確かだった。

「もっと……そこを……」

 レグルスが頭を後ろに預けてくる。その重みは信頼の証だ。

 晴人はトリマーとしての喜びに満たされていた。扱いにくい大型犬が、手入れによって信頼を寄せてくれた時の感覚に似ている。

「はい、ここですね」

 晴人はレグルスのこめかみを優しく指圧しながら、心の中でガッツポーズをした。

 第一段階、クリアだ。

 この調子なら、もっと深いリラックス状態へと導けるかもしれない。

 晴人の視線は、レグルスの背中、その奥に眠る「獣の本性」へと向けられていた。人間の姿でこれなら、本来の姿であるライオンの姿になれば、もっとダイレクトに癒やせるはずだ。

 そしてそれは、晴人にとっても至福のモフモフタイムになる予感がしていた。

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