第2話「王の不調とトリマーの目」
夜が訪れた。二つの月が窓から青白い光を投げかけ、部屋の中を幻想的に照らしている。
晴人は部屋の隅にある豪勢なベッドの上で、膝を抱えて座っていた。いつ王が現れるか分からない緊張感で、神経が擦り切れそうだ。
カツ、カツ、という足音が近づいてくる。昼間とは違う、靴底の音だ。
鉄格子が開き、入ってきたのは人間の姿をした男だった。
身長は二メートル近いだろうか。鍛え上げられた肉体、黄金色の髪、そして昼間のライオンと同じ、黄金の瞳。
「……起きているか」
その声を聞いて、晴人は彼がレグルスだと確信した。人間の姿になれるとは聞いていたが、これほどの美丈夫だとは思わなかった。ただ、その美貌には明らかな疲労の色が滲んでいる。
「は、はい……」
晴人が小さく答えると、レグルスはため息をつきながらマントを脱ぎ捨てた。そして、そのまま晴人のいるベッドへと近づいてくる。
『く、来る!』
晴人は身構えたが、レグルスは晴人には目もくれず、ベッドの空いているスペースにドサリと身を横たえた。
「……え?」
「動くな。ただ、そこにいろ」
レグルスは不機嫌そうに言い放つと、目を閉じた。
どうやら、一緒に寝ることが「ペット」としての役割らしい。晴人は安堵しつつも、隣に横たわる猛獣の気配に生きた心地がしなかった。
しばらく沈黙が続いた。レグルスの呼吸は深く、規則正しい。だが、どこか苦しげだ。
晴人はそっと横目でレグルスの様子を伺った。眉間に深いしわが刻まれ、肩はガチガチに強張っている。時折、唸るように歯を食いしばる。
『眠れてないのか?』
トリマーとして動物の体調を見る癖がついている晴人は、レグルスの状態を観察し始めた。
肌の色艶は悪くないが、筋肉の緊張が異常だ。特に首から肩にかけての凝りが酷い。これでは安眠などできるはずがない。
「……う……」
レグルスが苦悶の声を漏らし、寝返りを打つ。その拍子に、人間の姿が解け、ボフッという音と共に巨大なライオンの姿に戻ってしまった。
制御できないほどの疲労とストレスがかかっている証拠だ。
巨大なライオンがベッドを占領し、晴人は端っこに追いやられる。だが、今の晴人の目は、恐怖よりも職業病的な関心で満たされていた。
目の前にある黄金の鬣。近くで見ると、毛並みがひどく乱れているのが分かる。毛玉ができかけ、艶も失われている。
『うわぁ……これ、ブラッシングしてないな』
トリマーとして、乱れた毛並みを見ると放置しておけない衝動が湧き上がってくる。
この巨大なライオンは、獣人界の王だ。きっと誰も恐れ多くて、手入れなどできなかったのだろう。あるいは、彼自身が誰にも触れさせなかったのかもしれない。
「……グルル……」
レグルスが低い唸り声を上げ、前足で顔を覆う。頭痛がするのかもしれない。
晴人はゴクリと唾をのんだ。
ここで何もしなければ、ただ怯えるだけのペットで終わる。だが、もし彼を楽にしてあげられれば、生き残る確率は上がるはずだ。
『噛まれたら終わりだ。でも……このままじゃ、見てるこっちが辛い』
晴人は意を決して、そっと手を伸ばした。
指先が、硬くごわついた鬣に触れる。レグルスがピクリと反応したが、目は閉じたままだ。
晴人は指を熊手のようにして、絡まった毛を優しくほぐし始めた。
「……何をしている」
低い声が響く。だが、威嚇の色はない。
「あの……毛が、絡まってるので」
震える声で答えると、レグルスは片目だけを開けて晴人を睨んだ。
「俺の体に触れる許可など出していない」
「で、でも、痛そうだから……」
晴人は必死だった。恐怖よりも、目の前の「ケアが必要な動物」をなんとかしたいという本能が勝っていた。
レグルスはしばらく晴人をじっと見ていたが、やがて鼻を鳴らして再び目を閉じた。
「……好きにしろ。ただし、痛くしたら食うぞ」
それは実質的な許可だった。晴人はホッと息を吐き、本格的に指を動かし始めた。
人間の指では限界があるが、それでも丁寧に、毛の流れに逆らわないように梳いていく。
固まっていた毛束がほどけ、空気が通るようになる。
レグルスの呼吸が、少しずつ深くなっていくのが分かった。
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