利き手
マリアンナイト
第1話 利き手
人には、得意なものがあると思う。
私は、両手だ。
右でも左でもない。
どちらか一方が優れている、という話でもない。
私にとっての「手」は、道具であり、言葉であり、感覚そのものだった。
幼い頃から、器用で、変幻自在に動かせた。
箸を持つのも、鉛筆を握るのも、何かを掴むのも、迷いがなかった。
どちらの手でやっても、違和感がない。
それが特別だと気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
気づけば、何気ない動作にも、なぜか視線が向いてしまうようになっていた。
自分の手の動きだけではない。
人の手が、視界に入ると、どうしても見てしまう。
どうして普通の人は、右手が得意な人が多いのだろう。
折り紙も、複雑で難しいものまで正確に折ることができた。
幼稚園の頃、先生が見本に出した折り方を、私は一度見ただけで再現できた。
鶴、亀、箱、風車。
折り目を間違えず、紙の角をぴたりと合わせる。
紙の硬さや厚みが変わっても、指先が勝手に調整してくれる。
小学生になると、図工の時間が好きになった。
ハサミで曲線を切るときも、線を引くときも、周囲より少し速く正確だった。
「どうやってそんなにまっすぐ切れるの?」と聞かれても、説明できなかった。
ただ、指がそう動くとしか言いようがなかった。
文字を書くのも綺麗だと褒められた。
止め、はね、はらい。
それぞれの筆圧を、無意識に調整していたらしい。
誰かのノートを借りると、そこには書いた人の人柄が現れていた。
そして字に、つい見入ってしまう。
几帳面な字、勢いのある字、迷いのある線。
それらを「字」としてではなく、「手の癖」として読んでいたのだと思う。
指を動かす仕草も、素敵だと言われることがあった。
ピアノの鍵盤に指を置いたとき。
マグカップの取っ手を持つとき。
本のページをめくるとき。
何でもない動作なのに、なぜか目を引くらしい。
私は、その理由がわからなかった。
けれど、自分自身も、手の動きに見惚れてしまうことがあった。
日の光に手をかざすと、血液が流れているのが透けて見える。
指の骨の輪郭。
皮膚の薄さ。
脈打つリズム。
生きている、という実感が、いちばんはっきり伝わってくる場所だった。
そのとき私は、なぜか安心する。
頭でも胸でもなく、手で「生」を感じているような感覚になる。
いつからか、私は握手をするときの感触にも、強く意識を向けるようになった。
握手は、ほんの数秒の出来事だ。
だが、その数秒の中に驚くほど多くの情報が詰まっている。
柔らかく、しっとりとした手触り。
水分を含んだ、温かい皮膚。
まるで、触れる前から相手の人柄が伝わってくるような手。
固く、頑丈で、どこか勇ましい手。
骨ばった指。
力強く、少しごつごつしていて、仕事の重みがそのまま刻まれているような手。
細くて長い指の人もいれば、短くて丸みのある指の人もいる。
関節が目立つ人。
爪が小さい人。
ささくれが多い人。
傷跡のある人。
私は、それらを無意識に記録していた。
人によって手の匂いも違う。
甘い香りのする誘惑的な手。
ハンドクリームや香水の匂いが、皮膚に溶け込んでいるような手。
日向の匂いがする手。
洗いたての布団のような、柔らかい温度を感じさせる匂い。
別に、一般的に言う良い匂いじゃなくてもいい。
たばこの匂いが染みついた手。
指の隙間に、かすかに残る煙の名残。
体臭の匂いでも、人それぞれ違うセクシーさが良い。
汗の匂い。
皮膚の匂い。
生活の匂い。
それはどれも、その人が生きてきた証のように思える。
私は、それらを「好き嫌い」で判断しているのではなかった。
ただ、違いを違いとして面白がっていた。
あるとき私は、ふと気づいた。
私は、「手」が好きなのではなく、
「手を通して、人を知ること」が好きなのだと。
それに気づいたのは、ある職場での出来事だった。
私は、相談窓口のような仕事をしている。
人の話を聞く。
困りごとや悩み、迷いを受け取る。
言葉にならない感情を、言葉にする手助けをする。
ある日、初対面の男性が、緊張した様子で席に座った。
声は落ち着いていたが、指先が、わずかに震えていた。
私はその震えを見て、話を急がず、まずはゆっくりとした雑談から始めた。
しばらくすると、彼の手は落ち着き、指の動きも滑らかになった。
そのとき私は、彼がようやく「話せる状態」になったと感じた。
別の日、女性がにこやかに笑いながら話していた。
だが、手は固く組まれ指先に力が入っていた。
私はその手を見て、表情よりも深い不安があることを察した。
私は、彼女の言葉をそのまま受け取るのではなく、
手の緊張に寄り添うように質問の仕方を変えた。
すると彼女は、しばらく沈黙した後、ぽつりと本音をこぼした。
そのとき、私は確信した。
私は、人の「話」を聞いているのではなく、
人の「手」を聞いているのだと。
「手は口ほどにものを言う」
私はそう思った。
声よりも、言葉よりも、
手の動き、力の入り方、触れ方、離し方。
それらのほうが、ずっと正直だった。
私は握手をするたびに、
その人が今、どんな状態なのかを感じ取っていた。
疲れているのか。
緊張しているのか。
警戒しているのか。
安心しているのか。
助けを求めているのか。
それは特別な能力というより、
長い時間をかけて、自然に身についた感覚だった。
私は手を見分ける。
触れ方を聞き分ける。
力加減を読み取る。
温度や湿度の変化から、感情の揺れを察する。
誰かの言葉が嘘でも、
手は、ほとんど嘘をつかない。
だから私は、
目を見る前に、声を聞く前に、
まず、手を見る。
それが、私のやり方だった。
世の中には「利き酒」「利き茶」「利き湯」「利き水」と、さまざまなものがある。
――私は、手を見分ける「利き手」マイスターなのだ。
フェチではない。
利き手 マリアンナイト @Maksymilian
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