第3章:決壊する理性と、ゼロ距離の誘惑


 事件は、あまりに唐突に起きた。

 ユウスケが古い洗面台で顔を洗おうと蛇口を回した瞬間、バキッという嫌な音が響いた。


「え……?」


 次の瞬間、蛇口の根元から勢いよく水が噴き出した。まるで異世界のリヴァイアサンが暴れているかのような勢いだ。


「うわあああ! なんだこれ、止まらねぇ!」


「ユウスケ! 下がるのじゃ、妾が精霊の力で――」


「バカ、やめろ! 呪文なんて唱えたら壁の向こうに丸聞こえだろ! 俺が手で押さえる!」


 ユウスケはびしょ濡れになりながら、噴き出す水に飛び込んだ。狭い洗面所は、一瞬で浸水状態になる。




「ミリア、そこのタオルを……っ、うわっ!」


 床に溜まった水で足を滑らせ、ユウスケはミリアに向かって倒れた。

 背後の壁に、ドン、とミリアを押し付ける形になる。


「……あっ」

 吐息が触れ合うほどの距離。


 ミリアの魔法衣は水を含んで肌に密着し、彼女の柔らかな体のラインを露骨に強調していた。


「……ユウスケ。顔が近いのじゃ」

「……悪い。だが、今手を離すと、また水が……」


 言い訳は虚しく響いた。

 ミリアの大きな瞳が、熱を帯びてユウスケを見つめている。彼女の体から立ち上る、甘い花の香りが雨のような水飛沫の中で濃密に漂った。


「……離さなくてよい。このまま、妾を食べてしまっても……よいのじゃぞ?」

 ミリアの濡れた指先が、ユウスケの首筋に触れる。


 十二年間の戦い。その後の孤独。社会からの拒絶。

 張り詰めていたユウスケの理性が、ぷつり、と音を立てて切れた。

 ミリアは見た目こそ幼いが、中身は自分より遥かに長い時を生きる女性だ。そして何より、自分を誰よりも愛してくれている。


「……ミリア」


「うむ。ユウスケ……」


 二人の顔が近づく。

 触れ合う寸前、ミリアがそっと目を閉じた。



 その時。

 ドンドンドンドンドン!!

 ドアが壊れんばかりの勢いで叩かれた。


「警察だ! 開けなさい! 通報があったぞ!」

 聞き覚えのある、忌々しい怒鳴り声。権田だ。


「……ッ!」

 ユウスケは飛び退いた。

 魔法が解けたかのように、冷たい水が体温を奪っていく。


「開けろ! 中で破廉恥なことをしているのは分かってるんだぞ! この変態野郎が、ついに本性を現したな!」


 ガチャリ、と鍵が外され、警官たちが雪崩れ込んできた。


 浸水した部屋。びしょ濡れで密着していた四十歳の男と、魔法衣姿の美少女。

 光景は、どう言い訳しても「最悪」の一言に尽きた。


「……違うんです! 蛇口が壊れて! 違うんだーーッッ!」


「き、貴様、股間を押さえながら……『蛇口が壊れた』だと! 現行犯だ!」


 ユウスケの叫びは、夜の住宅街に虚しく響き渡った。




 翌日、ユウスケの手元には、権田の署名が入った一枚の書類が置かれていた。


『賃貸借契約解除通知書。来月末までに完全撤去のこと。従わない場合は強制執行を行う』


 もう、どこにも行く当てなんてなかった。


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