フレームと再起動
三角海域
フレームと再起動
土曜の朝、スマートフォンの画面が青白く灯った。
「システムアップデートが利用可能です。再起動して完了してください」
僕はそのメッセージを、まるで督促状でも受け取ったかのように睨みつけた。昨夜も同じ通知が出た。一昨日も出た。毎日、何かが「最新版」になることを要求してくる。アプリが、システムが、クラウドのストレージが。職場のプロジェクト管理ツールまでもが、週に一度は「より使いやすくなりました!」と嘯いては、慣れ親しんだ画面を勝手に塗り替えていく。
僕の仕事はWebディレクターだ。クライアントには「最適化」を売り、社内では「効率化」を叫び、古いシステムを次々と葬ってきた。それなのに——いや、だからこそ、この終わりなき更新の連鎖に、僕自身が擦り切れていることに気づいていた。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ弱々しい。外では小雨が降っているらしく、窓ガラスに細かな水滴がいくつも張り付いている。雨粒が重なり合って、ゆっくりと筋を引きながら流れ落ちていく。
ふと、衝動が湧いた。
スマホをズボンのポケットに押しこみ、クローゼットから適当なコートを引っ張り出して玄関へ向かった。行き先は決めていない。ただ、この部屋にいたくなかった。常に何かが点滅し、何かが通知され、何かが「新しくなる」ことを強いてくる、この空間から離れたかったのだ。
駅までの道を歩きながら、僕はふと、十年前に住んでいた郊外の街を思い出していた。大学を出て最初に就職した会社の近くにあった、古びた団地と小さな公園のある街。あの場所は、まだあるだろうか。
改札を抜け、ホームに立つ。電車が滑り込んでくる。ドアが開く。
僕は、何も考えずにその車両へ乗り込んだ。
四十分ほど揺られて降り立った駅は、記憶の中のそれとはまるで違っていた。
改札を出ると、真新しいショッピングモールの看板が目に飛び込んでくる。カフェチェーン、ドラッグストア、コンビニエンスストア。どの街にもある、判で押したような店舗が軒を連ねている。駅前のロータリーは舗装し直され、かつてあった小さな花壇は影も形もない。
雨は上がっていたが、空は厚い雲に覆われたままだった。湿り気を含んだ風が、頬を撫でていく。
僕は駅前の喧騒から逃れるように、記憶を頼りに団地へと続く坂道を登り始めた。商店街は半分ほどがシャッターを下ろしている。唯一開いていた八百屋の軒先には、色褪せたミカンの段ボール箱がうず高く積まれていた。
坂を登り切ると、見覚えのある巨大な直方体の建物群が姿を現した。
団地だ。
しかし、それは僕の記憶にある姿ではなかった。五棟すべてが、灰色の防音シートと鉄パイプの足場に覆われている。まるで建物全体を、巨大な包帯で巻いたかのようだった。どこかの階から、甲高いドリルの音が響いてくる。金属が軋む音。作業員の怒鳴り声。
「大規模修繕工事中 ご迷惑をおかけします」
入口付近に立てられた看板が、そう告げていた。
僕は立ち尽くした。ここも、変わっていた。いや、変わろうとしている。古いものを剥がし、新しい塗装を施し、配管を取り替え、「最新の基準」に適合させるために。
ここも僕を拒絶しているのだろうか。
ドリルの音が、また一段と大きくなる。耳を塞ぎたくなるような、神経を逆撫でする音だ。僕は踵を返し、団地の裏手へと回り込んだ。騒音から逃れるように、足早に歩を進める。
やがて視界が開け、小さな公園が現れた。
ポケットパークと呼ぶにも小さすぎる、忘れ去られたような空間。錆びたキリンの遊具が一つ、ひび割れたコンクリートの縁石に囲まれたベンチが二つ。砂場だったはずの窪みには、雑草が生い茂っている。
ここだけが、あの頃のままだった。
僕は深く息を吐いた。湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。街路樹の葉が、風もないのに微かに揺れている。ここには、工事の音さえ届かない。時間が止まっているのだ。
ベンチに腰を下ろすと、全身から力が抜けていくのを感じた。
ふと、視線を上げる。
公園の向かい側に、それは建っていた。
真っ白な、キューブ型の家。周囲の古びた木造住宅や、くすんだ団地とはあまりにも不釣り合いな、モダンで無機質な建物だ。
ここにも変化の兆しがある。晴れていた気持ちに影が差した。
よく見ると軒先に小さな看板が掛かっている。手書きの文字で、何か記されているようだ。
風に乗り、甘い匂いが漂ってきた。焼き菓子の、バターと小麦粉の芳香。
気づけば、僕は朝から何も口にしていなかった。
空腹と、匂いの誘惑に引き寄せられるように、僕はベンチから立ち上がった。
白い扉を押し開けると、柔らかな鈴の音が鳴った。
店内は驚くほど静謐だった。外の世界の喧騒が、扉一枚を隔てただけで完全に遮断されている。床は明るい色の無垢材、壁は漆喰のような質感の白。装飾は最小限に抑えられ、棚には数種類の焼き菓子がひっそりと並んでいるだけだ。
カウンターの奥で、一人の女性が本を読んでいた。五十代後半だろうか。グレーの髪を短く整え、シンプルな白いエプロンを身につけている。品の良さが漂うが、商売っ気のない佇まいだった。
「いらっしゃいませ」
顔を上げた彼女は、穏やかに微笑んだ。押し付けがましさのない、自然な笑みだ。
「あの、コーヒーか何か……」
「窓際のお席へどうぞ。今、お持ちしますね」
促されるまま、僕は窓際の小さなテーブルについた。
その瞬間、息を呑んだ。
窓の外に、さっきまで自分がいた公園が見える。しかし、それは先ほど眺めていた景色とはまるで違って映った。大きな窓枠が、まるで額縁のように公園を切り取っている。錆びたキリンの遊具も、ひび割れたベンチも、雑草の生い茂る砂場の跡も、その「フレーム」の中に収まると、どこか愛おしい風景として息づいていた。
計算されている、と思った。この窓の位置も、大きさも、高さも。すべてが、あの古い公園を最も美しく見せるために設計されているのだ。
「焼き立てのスコーンがありますが、いかがですか」
店主が、紅茶とともに小さな皿を運んできた。湯気を立てる、いびつな形のスコーンが二つ。表面は少しごつごつしていて、均一ではない。だが、その不揃いさが温かみを感じさせる。
ふと、カウンターの奥に目が留まった。真新しいエスプレッソマシンの隣に、使い込まれた銅のケトルが置かれている。年季の入った木製の棚には、シンプルな白い器と、時代を感じるデザインの小皿が並んでいた。どちらも、そこにあることが当然であるかのように馴染んでいる。
「ありがとうございます」
一口かじると、外側はさくりと崩れ、中からふわりとした生地が現れた。小麦粉とバターの香りが、口の中いっぱいに広がっていく。
「この窓、いいですね」
僕は思わず口にしていた。
店主は窓の外に視線を向けたまま、静かに答えた。
「ええ。この公園を眺めるために、この窓を作ったんですよ」
「公園を……ですか」
「あそこに一本だけ古い桜の木があるでしょう。今はもうほんの少ししか花は咲かないけれど。でも、その花を、この窓から眺めるのが好きで」
枝はくねり、幹には苔がびっしりと張り付いている。意識しなければ見過ごしてしまいそうなほど地味で小さな木だ。
「私、昔この街に住んでいたんです。十年ほど前に引っ越したんですけど、定年を機に戻ってきて。あの公園で子供を遊ばせていた頃のことを、ふと思い出すんですよ」
店主はそう言って、カウンターの銅のケトルに目を向けた。
「あのケトル、母が使っていたものなんです。取っ手は何度も付け替えたけれど、本体は使い始めてからもう五十年以上で」
彼女はそっと窓枠に手を添えた。
「変わることと、変わらないものを大切にすることは、矛盾しないんだってあのケトルを見てると思うんです」
変化は、過去を消し去るためではなく、大切なものをより良く見るための新しい「器」なのかもしれない。店主の話を聞き、僕はそんなことを思った。
紅茶を一口含む。久しぶりに、ゆっくりと時間が流れていくのを感じていた。
店を出ると、西日が雲の切れ間から差し込んでいた。
空気はまだ湿り気を帯びていたが、風は少し温もりを含んでいる。公園のベンチに、オレンジ色の光が斜めに落ちていた。さっきまで自分が座っていた場所だ。
僕はポケットからスマホを取り出した。
画面には、「システムアップデートが利用可能です」の通知が相変わらず表示されている。
Webディレクターとして、僕はこれまで何度となくクライアントに言ってきた。「ユーザー体験を最適化するために、UIを刷新しましょう」「古いシステムのままでは、新しい価値を届けられません」と。
その言葉を、今、自分自身に向けてみる。
アップデートは、過去を消去するためのものじゃない。新しいコードの中に、これまで積み上げてきた機能を、より良い形で動かし続けるためのものだ。互換性を保ちながら、前に進む。僕たちが日々クライアントに提案していることは、そういうことだったはずだ。
僕は「再起動」のボタンを押した。
画面が暗転する。一瞬、何も映らない。
そして、また光が灯った。起動画面が流れ、ホーム画面が現れる。見慣れた配置のアイコンたち。レイアウトは変わらない。ただ、どこかの動作が少しだけ滑らかになっている。
新しい器の中で、変わらないものが、静かに息づいている。
僕は画面を消して、スマホをポケットにしまった。
駅へと続く坂道を下りながら、春になったらもう一度この街を訪れようと思った。あの窓から見える桜の花を、僕も眺めてみたい。店主が愛おしむように見つめていた、古い木の、わずかに咲く花を。
その頃には、団地も新しい姿を見せているだろう。古い記憶を内包したまま、新しい外壁を纏って。
空の雲が、少しずつ切れ始めていた。西の空が、淡い茜と紫のグラデーションに染まっている。
足取りは、来た時よりも少しだけ軽かった。
フレームと再起動 三角海域 @sankakukaiiki
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