第4話
カイトは彼女を刺激しないよう、細心の注意を払いながら、彼女が「隠れている」つもりの機材の手前でゆっくりと腰を下ろした。冷たい床の感触がズボン越しに伝わるが、今はそれよりも、目の前の巨大な少女……1200年の時を超えて現れた迷子に寄り添うことが先決だった。
「じゃあ……名前も、自分が何をしていたのかも、全然分からない?」
カイトの問いかけは、夜霧を透かす灯火のように優しく、静かな響きを持っていた。女性はその声に導かれるように、膝の間に埋めていた顔をわずかに上げ、蒼い瞳を彷徨わせる。彼女は肯定の頷きを返そうとしたが、その瞬間、彼女の脳裏に眠っていた、錆びついた記録の断片が、火花を散らすようにして再起動した。
「わ、わたし……は…………ま、『魔女』…………」
吐息のような呟き。それは彼女の魂に深く刻み込まれた、唯一の属性だった。
「ひ、ひとの……手で……つ、作られた……へ、へ、兵器……です……」
その言葉を耳にした瞬間、カイトの背筋に冷たい氷柱が突き刺さったような衝撃が走った。カイトの身体は無意識のうちに強張り、喉の奥が乾いた音を立てる。
『魔女』――。 それは、今の時代を生きる者にとって、単なる伝説上の存在ではない。世界を一度焼き尽くし、文明を泥土へと還したとされる、最悪の災厄の代名詞だ。村の広場で語られる英雄譚の敵役であり、夜更かしをする子供に「魔女がやってきて魂を奪っていくぞ」と言い聞かせるための、恐怖の象徴。その名は、破壊と絶望以外の何物も連想させなかった。
しかし。 カイトは固唾を呑んで、目の前の『魔女』を凝視した。 そこにいたのは、世界を滅ぼす邪悪な存在などではなかった。230センチメートルという圧倒的な体躯を持て余し、丈の足りないボロを纏いながら、寒さに震える仔犬のように身を縮めている一人の女性。隠しきれていない豊かな身体を、必死に小さく見せようとして膝を抱える彼女の姿からは、畏怖よりも先に、放っておけないほどの危うさと痛々しさが溢れていた。
「……君が、『魔女』……?」
カイトは呟き、強張った身体からゆっくりと力を抜いた。目の前の光景と、伝え聞くおぞましい伝説が、どうしても一致しなかったのだ。たとえ彼女が人の手によって作られたのだとしても、今ここで震えているのは、名前すら持たない孤独な魂に過ぎない。
カイトは彼女を「君」と呼びかけてから、少しの間を置いて、首にかけた父のゴーグルを弄りながら苦笑いを浮かべた。
「名前がないのは、やっぱり不便だよな……。いつまでも『君』って呼ぶわけにもいかないし」
カイトは思考を巡らせる。彼女が目覚める直前、この静寂に満ちた部屋で鳴り響いていた、あの不思議な音。彼女自身の内側から漏れ出していた、再起動を告げるための規則正しいリズム。
「さっき、起きた時にさ……『るるるる……』って、音がしてただろう?」
カイトは立ち上がり、彼女の視線と同じ高さになるよう、少しだけ腰を浮かせて笑いかけた。
「だから、今日から君の名前は『ルル』だ。俺が今決めた。……どうかな、ルル?」
「る、る……るる……?」
彼女は困惑したように、その不思議な響きを反芻する。生まれて初めて与えられた、記号ではない自分だけの証。彼女はたどたどしく、けれど噛みしめるように何度もその名を繰り返した。
「る、ルル……。わ、わたし、が……ルル…………」
その言葉が自身の内で確かな意味を持った瞬間、不安に揺れていたルルの表情が、劇的に変化した。 蒼い瞳に溜まっていた涙が光を反射して輝き、震えていた唇が、花が綻ぶようにして柔らかな曲線を画く。それは、絶望の淵で初めて希望を拾い上げた子供が見せるような、無垢で、太陽のように眩しい微笑みだった。
「は、はい……っ。る、ルル……! わ、わたし……ルル、です……っ!」
大きな身体を揺らしながら、ルルは心からの喜びを爆発させるように微笑んだ。 その笑顔を目にした瞬間、カイトの中に残っていた『魔女』へのわずかな恐怖は、完全に霧散していた。彼が今日拾い上げたのは、文明の遺物でも、歴史を揺るがす災厄でもない。「ルル」という名の、あまりにも不器用で巨大な、一人の女の子だった。
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