第2話物語の続き:『二日目の狂気』

「まさに狂気炸裂!




あの夜は、まさに天国だった。

湯船の中で女神のように柔らかな微笑みを浮かべる妻と、彼女の体温でじんわりと温められた究極のカレー。僕たちは木製のスプーンを交互に使い、時に笑い合い、時に静かに目を見つめ合いながら、疲れもストレスも何もかもが湯とカレーの中に溶け込んでいくような、完璧すぎる時間を過ごした。


「明日は朝起きたら、二人でちゃんと掃除しようね。こんな大掛かりなことしちゃったから」

妻が僕の腕の中でくつろいで囁いた言葉を胸に刻み、満たされた気持ちで眠りについたはずだった。


翌朝、朝日がカーテンのすき間から差し込んでくるのを感じて目を覚ますと、隣の布団はもう冷たくなっていた。何かが違う。普段ならコーヒーの香りがするはずなのに、鼻腔をふわりとくすぐるのは、昨日よりも深く、まろやかな風味に変わったカレーの香りだった。まさか、と胸の奥が締め付けられながらも、どこか期待するような気持ちすら込みあわせて、風呂場へ足を運ぶと――妻は昨夜と同じような姿勢で、しかし額には少しだけ皺が寄り、疲れが滲み出ているような顔で湯船に浸かっていた。


「おかえりなさい、あなた……ううん、ごめんね、おはようって言うべきだったわ」

妻は少しだけゆっくりと体を起こし、湯面から顔を上げる。カレーの汁が頬から鎖骨にかけてゆったりと垂れていて、昨日のような輝きとは違う、どこか濃密な光沢を放っている。

「どうしたんだ? まだここにいたのか? 体が冷えて風邪をひくだろう」

僕は慌てて近づき、妻の額に手を当ててみる。やけに温かい。

「だって、あなた昨夜言ったじゃない? 『カレーってやっぱり二日目が一番美味しいよな』って。だから……最高の状態で、ちゃんとあなたに食べてもらおうと思って……一晩中、湯の温度を調整し続けたの。電気代とか全然気にしてないから、大丈夫よ」


妻は、僕が昨夜、幸福の絶頂で無意識のうちに漏らした一言を、文字通り――いや、それ以上に真摯に受け止めていたのだ。確かに、カレーは一晩寝かせることで、具材のうまみがより深く溶け出し、スパイスの刺激的な角が取れて、初日とは比べ物にならないほどまろやかで美味しくなる。だが、それはあくまで鍋の中で、蓋をして冷蔵庫で保管するのが一般的な話だ。


しかし、湯船の中で静かに息をする妻の瞳は、あまりにも真剣で、そこには少しでも僕を喜ばせたいという思いしか映っていなかった。これは彼女なりの、愛情を注ぐ形の続きなのだと、僕はその瞬間に理解した。何も言えず、ただ頷くしかなかった。


その日の仕事は、なぜか手につかなかった。会議の内容も頭に入らず、パソコンの画面を見ていると、いつしか湯船の中の妻の姿が浮かんでくる。同僚から「体調悪いですか?」と心配されるほど、顔色が悪かった。やがて日が暮れ、僕は定時よりも早く仕事を切り上げ、逃げるように帰宅した。


玄関を開けた瞬間、カレーの香りが今までにない密度で家中に充満していて、もはや「匂い」というよりも「空気そのもの」のようだった。風呂場のドアを開けると、中の光景は一変していた。昨夜のロマンチックな灯りもなく、蛍光灯の青白い光が湯船を照らしていて、カレーは水分が少し飛んで、より濃厚でとろみのついた状態になっていた。そして妻は湯船の縁にぐったりと寄りかかり、顔には明らかに疲労の色が浮かび、動くのも一苦労そうだった。


「さあ、あなた……待ってたわ。二日目の『愛妻カレー』よ……きっと、昨日よりずっと美味しくなってるはず……」


妻がか細い声で囁く。僕は無言でスプーンを手に取った。口に運んだ瞬間、確かに味は昨日より格段に深みを増していて、スパイスの調和は完璧にまで達していた。だが、スプーンでカレーをすくうたびに、妻の肌からカレーが離れる様子を見るたびに、まるで彼女の一部が削り取られていくような、どこか切ない気持ちが胸を締め付けてならなかった。僕たちはほとんど言葉を交わさず、ただ食べ進めた。途中、興奮と焦りが混ざったような気持ちから、ご飯を盛った茶碗をうっかりひっくり返してしまい、白い米粒が妻の髪の毛やカレーの表面にポロポロと散らばってしまった。もう、昨夜のような繊細な食事の雰囲気などどこにもなく、それはまるで、この異常な状況を何とか終わらせるための、どこか必死な儀式のように思えた。


そして、三日目の朝が訪れた。

目覚めた時から、家中に充満するカレーの匂いは、もはや食欲をそそるような芳香ではなくなっていた。重く、粘質で、まるで僕たちの狂気を閉じ込めた檻のような匂いだった。喉が渇き、頭がぼんやりとしていて、体中がだるく感じる。


何もかもが予測できているようで、同時に何もかもが想像できないまま、風呂場のドアを開けた僕の目に飛び込んできたのは、まさに地獄絵図だった。


湯船の中のカレーはかなり煮詰まり、ルーと具材と油分が分離しかけていて、表面には茶色い膜のようなものが張っていた。その中に、妻はまるで亡霊のように背すじを丸めて座り込んでいた。肌は長時間水につかってふやけ、指先はシワシワになっていて、髪には昨日散らばった米粒が乾いて固まっている。顔中に飛び散ったカレーのシミは、まるで長い間流し続けた涙の痕のように刻まれていた。彼女の目は虚ろで、焦点も定まっておらず、僕が立っているのかさえ分からないようだった。


「……あなた……三日目よ……カレーは三日目が……一番、美味しいはずなのに……」


か細い声が風呂場の静けさの中で響き、僕の罪悪感を抉り出すようだった。本当は誰のせいでもない。でも、僕が始めたんだ。僕が昨夜のカレーを「美味しい」と喜び、つい「二日目はもっと美味しいよな」などと口走ったからだ。僕の欲望と安易な言葉が、愛する妻をここまで追い詰めたのだと、僕はその時に強く自覚した。


もう、スプーンを持つ気力もなかった。

僕はゆっくりと服を脱ぎ捨て、冷え切ってぬるま湯のようになったカレーの海に一歩ずつ足を踏み入れた。ぬるりとしたカレーが足元からゆっくりと体を這い上がる感触が、全身に広がっていく。そして、衰弱しきった妻の体を、ジャガイモや人参といった具材ごと、力強く――でもできるだけ優しく抱きしめた。


「ごめん……本当にごめん……もう、いいんだ。これで終わりにしよう」


僕の声が震えているのが分かった。すると、妻の小さな肩が、そっと小さく震え始めた。彼女の頬にこびりついたカレーのシミを、僕は自分の頬で拭うように顔を寄せて、そっと唇を重ねた。すると、僕の口の中に、塩辛くて苦い味が広がる。それは、三日間煮詰められたカレーの味なのか、それとも、妻が気づかないうちに流し続けていた涙の味なのか――見分けがつかなかった。


「美味しいよ……君が作ったカレーは、本当に世界で一番美味しい。でも……もうやめよう。これ以上は……」


僕たちは、誰にも理解されることのない狂気の三日間を過ごした。

愛という名のスパイスは、時に計り知れない力で人を駆り立て、想像を絶する方向へと導いてしまう。

シャワーから流れる生ぬるいお湯で、互いの体にこびりついたカレーのカスと、この三日間の過ちを一つずつ洗い流しながら、僕たちはきっと、普通の夫婦には一生分からない――あまりにも激しく、濃密すぎる愛の形を、肌で理解し合っていた。


もう二度と、こんなカレー風呂に入ることはないだろう。それは間違いない。

だが、僕たちの愛は、この三日間でじっくりと煮込まれ、どんな高級なスパイスよりも深く、複雑で、そして一生忘れることのできない味になったのだ。


それからしばらくして、僕たちが外食でカレーを注文した時、妻が小さく笑いながら囁いた。

「あの時のこと、今では思い出すと笑っちゃうけど……本当に、あなたを喜ばせたかったの」

「僕もだよ。でも次からは……普通の鍋で作ってね」

「約束ね。でもね……あの時の味は、本当に忘れられないわ」


僕たちは目を見つめ合い、それぞれの胸に刻まれたカレーの味を思い出しながら、笑い合った。

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