『妻がカレーになりました』
志乃原七海
第1話『入浴剤はクミンとカルダモン』
「おかえりなさい、あなた——今日はお疲れ様ね」
玄関を開けた瞬間、まず鼻をつくのは濃厚でコクのあるカレーの香りだった。レモングラスのさわやかな風味と、トマトの甘み、そして何かほんのりとしたスパイスの効いた深い香りが、玄関から廊下、さらに二階まで届いてくる。今日は取引先との重要な打ち合わせが長引き、帰り際には部下からの相談も重なり、体中が鉛のように重かった。だけどその香り一つで、肩の力がほんのりとほぐれていくような気がした。
リビングには妻の姿はない。代わりに食卓の上には、妻がよく使う白いリネンのエプロンが背もたれにかけられ、その横に置かれた陶器の小皿の上に、付箋紙が乗っている。丸文字で「まずはお風呂へ♡ 準備しといたわ」と書かれていて、字の端っこには小さなハートの絵まで描かれている。いつもなら玄関で迎えてくれるはずの妻がいないのが少し不思議だったが、一日の疲れは確かに骨の髄まで染み込んでいる。言われるがままに脱いだスーツをクローゼットにしまい、シャツに着替えてから、風呂場のドアノブに手をかけた。
「ふぅ……湯船につかって、ぐっすり眠りたいな」
つぶやきながらドアを開けた瞬間、僕は足元がつっかえてしまいそうになるほど、息を呑んでしまった。
湯船は普段よりもひとまわり高い位置まで湯が張られているのだが、その湯はいつものような透明感がない。深い琥珀色に輝く湯の中には、じっくり煮込まれたジャガイモ、角切りにした人参、ほぐれるように柔らかくなった玉ねぎ、そして僕が毎回「もっと入れてよ」と頼む里芋や、スパイスの風味が染み込んだ牛すじ肉が、ぎっしりと浮き沈みしている。まさかの——湯船いっぱいの本格カレー。しかもその真ん中には、いつも洗濯物干しに使う水玉模様のバスローブを脱いで素肌のまま浸かり、柔らかな光の中で女神のような微笑みを唇に浮かべた妻がいたのだ。
「待ってたわ、あなた。遅くなるなって思って、ちょうど温かさを保ってるところよ」
妻はゆっくりと体を起こし、湯面から肩までを浮かべる。カレーの濃厚な汁が肌について、コットンのように白い素肌を艶やかに映し出す。湯船の縁には、杉の香りがするお椀にふちまでほかほかと湯気を立てるご飯が盛られ、その横には妻が旅行で買ってきたという木製の大きなスプーンまで丁寧に置かれていた。さらに小さな陶器の皿には、妻が手作りしたピクルスや、ふんわりとカリカリしたフライドオニオン、イタリアから取り寄せたパルミジャーノチーズの粉まで用意されていて、いつもの食卓と同じような添えものがずらりとそろっているのだ。
「これが……前から言ってた特別なカレー?」
声が震えてしまったのは、胸の奥がジンと熱くなったからだ。妻は一昨日から「今度は絶対に驚くような、愛を込めたカレーを作るからね」と、仕事帰りにスーパーへ行く度に材料を買い込み、キッチンからいつも以上に香りが漂っていた。でもまさか、湯船を使ったこんな形だとは夢にも思わなかった。
「そうよ。今日は大変なことがあったんだって、電話で聞いたわ。だから私の愛情を、ただ口で食べるだけじゃなくて、文字通り全身で受け止めてもらおうと思って……朝からスパイスを炒めて、具材を一つ一つ丁寧に煮込んで、最後に湯船に移したのよ。大丈夫、湯船はあとで念入りに洗うから」
妻はスプーンを手に取り、湯船の中から柔らかくて指で押せばつぶれそうなジャガイモをすくい上げる。濃厚な汁がスプーンの端からドロリと垂れ落ち、また湯の中に戻る音が、風呂場の静けさの中で意外と大きく響き渡る。
「最初はご飯にかけて食べるのもいいけど……ほら、私の肩元についたこのカレー、これなら私の体温まで伝わって、もっと心まで温かくなれると思う? 試してみない?」
妻はそう言って、スプーンを僕の手元まで差し出してきた。僕は目の前に広がるこの「究極の愛妻カレー」を見つめながら、どこからスプーンを入れればいいのか——本当に本気で悩んでしまった。
いつもならすぐに箸を動かしてしまうカレーだが、今はその一つ一つの具材に込められた妻の気持ちも、妻のその姿も、あまりにも尊くて、なかなか手をつけることができない。それでいてカレーの香りが鼻をくすぐり、妻の優しい微笑みが目を奪い、湯の温かさが風呂場全体に満ちて肌に染み込んでくる。体の奥から「食べたい」という欲求がゆっくりと沸き起こってくる。
「どこから……始めればいいんだ?」
ついついそう言ってしまった。妻は微笑みながらスプーンを僕の手に渡し、その手を優しく自分の肩元まで導いてくれた。
「ここからどうぞ。一番時間をかけて煮込んだ部分だし、一番愛情が込もってるところだから」
妻の肩についたカレーの汁を、スプーンでそっとすくい上げる。汁がスプーンからこぼれないように慎重に口に運び、舌に乗せた瞬間——普段食べている妻のカレーとは比べ物にならないほど深い味わいが口の中に広がった。クミンやカルダモン、それに少しだけ唐辛子の効いたスパイスの調和が絶妙で、具材からは一つ一つのうまみがたっぷりと染み出している。そして確かに、妻の体温のようなやさしいぬくもりが、口の中から喉、そして体の芯までじんわりと届いてくるような、不思議で温かい感覚に包まれた。
「どう? 美味しい?」
妻がそっと尋ねてくる。僕はうなずくしかできなかった。
「……うん、最高だ」
言葉にできないほどの幸せが胸いっぱいに溢れてくる。湯船の中のカレーはまだまだたくさんある。ご飯もまだほかほかで、ピクルスもさわやかな酸味が広がりそうだ。そして妻はその真ん中で、いつまでも僕だけを見つめて微笑んでいる。
「じゃあ、次は私があなたにスプーンであげるわ。今日はゆっくりと、全部食べ切るまで時間をかけて……」
妻がスプーンを取りなおし、今度は牛すじ肉をすくい上げてくれた。僕はそのスプーンを受け取りながら、これからどんな風に食べていくのか——それこそが、二人にとっての特別なひとときになることを、心から感じていた。
その夜、僕たちは湯船の中で温まりながら、小さなスプーン一つずつカレーを食べた。妻が話す料理を作る時のことや、今日一日の出来事を聞きながら、疲れは完全に吹き飛び、代わりに妻への感謝の気持ちがいっぱいになった。
「あとで、一緒に湯船を掃除するからね」
「うん、約束だ。でも今は……もう一杯、お願い」
僕がスプーンを差し出すと、妻はキラリと笑いながら、湯船の中から一番大きな里芋をすくい上げてくれた。その姿は、僕にとって世界で一番美しい光景だった。
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